中村佑介『Blue』

〜唾棄すべきほど愛おしい「青」の時代〜(2010/02/05)


(飛鳥新社)

 今回は文字や漫画ではなく、絵の本をご紹介。

 中村佑介という名を知らなくとも、その絵を見れば「あ!」と解る人は多いだろう。
「あ、アジカンのジャケット描いてる人だ!」と。
 アジカンこと、ASIAN KUNG-FU GENERATION一連のジャケットを手がけているイラストレーターとして、中村はひろく認知されている。かく言う私もそのイメージでとらえていたし、運命的な出会いを果たした森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』のカヴァーでは、氏の存在をありありと再認識した。
 何より、私が『乙女』を読んでみるきっかけになったのは、中村氏のカヴァー・イラストがきっかけだったのだ。どこかレトロでいてモダン、懐かしくも新しい感覚。ポップでキッチュながら、リリカルに埋もれるわけではなくひそやかに主張する情報量の多さ。見事に、様々な要素がコンパクトに詰まっていた。それがきっかけで読むようになった中身も、抜群にカヴァーのイメージがフィットした。そうして私は登美彦氏の熱烈な愛読者になったのだが、それもひとえに、中村氏の功績あってのことだった。
 それまでは興味が薄く「あーアジカンの人ね」で済ませていたのだが、自分の守備範囲に入ると俄然興味が湧く。やがて有川浩の『植物図鑑』や夏川草介の『神様のカルテ』が書店に並ぶと、「ああこれもあの人の絵だ」と意識するようになっていた。要は、若き日の恋と同じ。知らず知らずのうちに惚れていたいたわけだ……と書いてしまったのだが、読者様から『植物図鑑』のカヴァー・イラストはカスヤナガト氏によるものだとのご指摘があった。わああ、碌に確認せず、思い込みで書いてしまった。すいませんすみません。でもちょっとググッたら、カスヤナガト氏は中村氏の影響を受けて明らかにしているという情報も。そりゃ間違えるわな、と結局は自己肯定して話を進めることにする。ほらほら、恋した相手に似た人が気になったりするじゃないの。あれ? ちょっと違うか。まあいい。
 なぜこれほどに惹かれるのだろう?
 答えは簡単。中村ファンにありがちなことであるが、竹久夢二幻想を抱いていたのだ。
 夢二作品に顕著である夢幻的な少女に象徴される永遠の少女性、それが否が応でも感じられた。現に中村氏は夢二からの影響はあったようで、いろいろのインタヴューなどを読むとそうした言及が見られる。それ以前に、絵を見ただけでそれは明らかだ。
 そのため中村佑介を紹介する際、よく用いられる言葉に「現代版竹久夢二」というものがある。これは半分正しいが、残りの半分は著しく誤った認識だ。それは中村佑介という画家を、竹久夢二という「様式」に当て嵌め、対比することを当然としている。だがその様式は一種完成したものであり、対する中村は未完成、というより発展中の存在だ。しかしそれは確実に世俗的な認識であることは間違いなく、言わば、黎明期の音楽性のみで「○○に似ている」と語られるロック・バンドのような状況にある。
 しかし最初に抱いたそのイメージを味わいたく、私は彼の初の画集である本書を購入した。つまりは、「現代版竹久夢二」を求めて。
 眺めやった本書は、いい意味でも悪い意味でもその期待に応えてくれる。そこにアンディ・ウォーホルに代表されるポップ・アートの要素も強く見受けられ、中村というイラストレーターの奥深さと普遍性を認識することができる。
 しかし、そこにあるのは飽くまで「イメージ下の中村作品」ばかりだ。満足すれどずっと眺めていくと、基本的にタッチやコンセプトは同じなので、小道具のギミックや基本的な配色、構図といった「要素」でしか違いが見受けらなくなる。細部を眺めていくと「物語」を連想することができるが、ざーっと眺める限りでは「どれも同じ」に見えてしまう。これは中村の作風が初期よりある水準に達していたことの証であり、それを貫くことで独自のスタイルを確立したことの証でもある。往年の夢二作品の「いいとこどり」ばかりを見せられているのに似た気分になった。
 こと、ごくごく初期のイラストなどはあからさまなほど夢二を意識したものが多く、よりレトロ感が強く筆書きの文字を併用していたりする。だが見較べていくと、それが次第にマクロ的にもミクロ的にもレトリックを強調するようになり、やがて独自のポップ・アートと日本画とセーラー服の少女の融合に繋がっていく。その間にアジカンでの「少女のアイコン化」がある。それまでは象徴でありそれ自体であった少女というものが、一種のアイコンとなって急に無機質になる。
 そのあたりの変遷については、『ユリイカ』2010年2月臨時増刊号を併読されたい。


(青土社)

 こちらは「総特集=中村佑介 イロヅク乙女ノユートピア」と題して、1冊丸ごと中村特集を行っている。本人へのインタヴューに始まり、画家(宇野亜喜良、じじいになったなあ)や識者による考察、ひいては中村作品のカラー・グラビアまで、その魅力を徹底研究している。特に『Blue』にも収録されなかったラフやスケッチ、学生時代の習作はここでしか見られない。中でも特筆すべきはゲントウキ『いつものように』のラフ案で、笑ってしまうほど竹久夢二を意識している(本人もそれを認めたコメントを添えている)。
 こちらを読むことにより、『Blue』の味わいも深まる。なるほど、表現と苦悩と再発見があったのだな、と短時間で納得させられる。そのうえで現在のCDジャケットなどがいかに安直な発想で作られているかを認識させられる。中身に関する情報が直接的に提示されており、味わわずとも想像がついてしまう。CDで言えばバンド・メンバーの写真を用いていたり、音楽性を惹起させる風景写真を貼っていたり。小説カヴァーは内容を安易に記号化したものばかりで、広告媒体なら何の企業で何をPRしたいかだけに徹している。せっかくの表現空間に「アート」としての認識がない。
 それじゃ、つまらんじゃないか。
 まるでテクニックを押し出してプログレを名乗っている、スウィングすればジャズになると思っている、定番曲さえ演奏すればクラシックになり得る、アマチュア・バンドと同じではないか。曲から何から記号化したPerfumeのように、打ち込みでヴォコーダーを通しさえすればいいというわけではないのだ。
 中村の思わせ振りな少女イラストに惹かれてCDを買ったものの、轟音で戸惑ったアジカン・ファンのような新鮮で痛烈な感覚を忘れていまいか。未知の音楽をジャケ買いしてびっくりしたあの感覚。純粋な驚き。ファミレスでメニュー写真を見て注文した料理の実物とのギャップ。届いた通販の箱を開封するドキドキ。美少女の表紙に期待して買ってみればオバハンがセーラー服を着ていたビニ本の驚き(おいおい)。
 そういった「ある種の裏切り」も、表現媒体ならではのことだと思うのだ。何もかも期待値通りだとつまらない。
 それを意外性から始め、すっかりイメージを定着させたアジカンのセンスも、それを受け入れ挑戦を続けた中村も、大胆とも思える試みに成功したと言える。今やアジカンのジャケは中村なしには考えられない。捏造に等しいイメージ操作に、自ら成功した。やがてその意外性も定着し、中村が表現者としての懊悩に陥ってしまうのは皮肉ではあるが。
 しかし確実に、中村はたった数年で「中村佑介様式」を築き上げた。
 現在、「中村様式」にのっとり、前述した「少女のアイコン化」に代表される「中村佑介の記号化」が激しい。『ユリイカ』巻末にもそれについて述べる伊藤剛氏の文が掲載されており、なるほどと納得したのだが、pixivで「中村佑介」と検索すると、「いわゆる中村佑介タッチ」で描いただけのイラストが多くヒットする。それは言わば、ジョジョをサザエさんのタッチで描くのと同じで、ひとつの「様式」に当て嵌めているだけだ。上手いと思うこともあるが、コピーでもなくオリジナルでもない、パロディに過ぎないそれらにどうしても後味の悪さを感じてしまう。有名漫画の同人本を読んで喜んでいるような気分。
 その文では、要約するに「pixivではランキング上位に挙がっている絵ほど手間がかかっているだけで、絵として優れているわけではない」と論じている。そのうえで本質は「おたくラッセン」ばかりだと、解りやすい比喩を用いている。
 だが中村は、これから次第に表現方法が変わっていくという。現に『Blue』には、中村が「様式化」してしまったことによるスランプに陥って、同じコンセプトのものばかり求められて絵が描けなくなった時期までしか収録されえいない。だからこその「青」。第一歩であり中村表現の根本たる青春時代の象徴、青。唾棄すべき愛おしい「青」の時代。
 そのため、文庫版『乙女』の表紙イラストが収録されていないのにはじめは疑問を持ったが、『ユリイカ』を読んで納得した。あれはブチ当たった壁を突き抜けた作品だったのだ、と。となればこれから、まことの意味で「新しい」中村の作品が生み出されていくのだろう。
 漫画での喩えとなるが、『あずまんが大王』で人気を博したあずまきよひこは、そののちにさらなる大ヒットを弾き出した『よつばと!』により、明らかにタッチが変わったその画調が強く認識された。それを受けてあずまはリニューアル版である『あずまんが大王 新装版』を出すにあたり、大量の加筆修正を施した。すると昔からのファンは、新しい画調になったそれをひどく批判した。読者が変わるように、表現者自身も変わる。だというのに、昔からの読者は自分達のリアル・タイムでのイメージでしか容認できなくなっていた。作者とともに成長することができなくなっていた。
 中村も、果たしてそうなるか。
 それを防ぐには、中村のイラストを既存のイメージに頼らず純粋に評価し、楽しむことのできる「表現力の受け皿」が必要だ。良い表現を味わうには、感性が鋭くなくては感じられないし、理屈が伴わなくては理解できない。優れた評論家は、そういったものを瞬時に使いこなせる能力を持っている。それがないから私は決定的に評論家にはなれないのだが。
 そこまでいかなくとも、感性や理屈だけに走るような直情的な解釈では、表現を深く楽しむことはできない。ましてや直接的に理解できる漫画や読解力さえあれば読める小説ではなく、イメージの世界に生きる絵をや。実用書や情報誌ばかり読んでいては、それが鈍る。
 プログレッシヴを標榜する音楽サイト(自嘲)でこういうことを書くのも今さらな感じがするが、常に変化する表現というものを評価できるよう、受け手も変化を続けなければならない。かといって表現者も既成イメージにとらわれず、ファンの理解に頼って奢らず、商業主義に屈するなり足蹴にして自己表現を貫くなりしなくてはならない。こと表現に限っては、中途半端が一番いけない。中庸と妥協は似て非なるものだ。
 これから中村佑介という表現が何を差すようになっていくか。
 画家とともに、成長していきたいと思う。
 本稿で採り上げた2冊はそこまで覚悟させてくれる、優秀な作品集と論考集だ。

 この文を読んで中村氏のイラストに興味を持たれた方は、Google画像検索でもしてみるといい。明らかに違法掲載のブログなどに貼られた絵がずらずらと検索される。難ならpixiv検索しても「それ風の」絵は見られるので、どういった作風かはぼんやりと把握できるだろう。
 それらを「イメージ」としてとらえ、この画集を手に取るきっかけになってくれれば、この無駄に長い割に何も大したことを言えていない駄文を記した甲斐があるというものだ。
 最期にヒントとして、中村の絵に興味を持ちそうな方へのキー・ワードを羅列しておく。
 竹久夢二、中原淳一、ノーマン・ロックウェル、現代詩、寺山修二、志賀直哉、谷崎潤一郎、ガロ、つげ義春、昭和、京都、早春、晩夏……。
 これらにひとつでも引っかかったら、ぜひとも一枚でも中村イラストを眺めてみてほしい。

 敢えて苦言を呈するなら、
 この画集、見開きが結構あるのに中折れしているものが多いんだよね……これではスキャンやコピーして、ポスターや壁紙を作ったりというひそかな楽しみができない。
 まあそれはごく一部なので、おおよその絵は大丈夫なのだけれども。
 少なくとも、純粋に見て楽しむ分にはまったく問題ない。CDジャケットが多いという特質上、普通の画集と違ったサイズ・型であるのも特徴的。
 新しい美術書のスタイルかも知れない。