村上たかし『星守る犬』

〜ゆるやかな絶望感〜(2009/12/29)


(双葉社)

 2009年、最も心に残った本は何か?
 それが私の場合、『1Q84』でも森見登美彦でもなく、漫画である。それも『よつばと!』でも浦沢直樹でもなく、本作『星守る犬』である。
 不勉強なもので、私は作者の村上たかし氏を知らなかった。今まで4コマやギャグを主に描いてきて、シリアスなストーリーものは本作が初めてということを、まず知った。それから本の雑誌『ダ・ヴィンチ』で「今週のプレミア本」として紹介されてから大反響を呼び、毎月何らかの形で記事が掲載され、やがて2009年度の最優秀コミックにまで選ばれた。
 そうした評判のさなか、私はこの漫画を手に取った。コシマキに重松清の推薦文が掲載されていたので、ああこれは王道の感動ものなのだろうな、と思ってしまったが、それは当たらずも遠からず。いい意味でも悪い意味でも。
 あらすじは検索すればどこでもひょいひょい出てくるだろうから、ごく簡単にまとめる。
 家族に見放されて車上ホームレスになった中年男性が、飼い犬と南へ旅し、やがて朽ち果てる物語。
 筋書きは、たったそれだけだ。ストーリー性は強くない。
 だがここには、平凡なストーリー漫画にはない「ゆるやかな絶望感」で満ちている。「お父さん」が愛犬「ハッピー」を唯一の頼みとしながらも、実際的には明日を生きる糧もない身であり、持病(描写からすると心臓病のようだ)を抱えた、やがて朽ちることを自覚している身でもあること。
 人によっては「自業自得」で片付けられるだろう。しかしあとがきにあるように、昔はこのお父さんのような人間が寧ろ普通で平均的だった。しかし現代は、それでは普通の生活を失いかねない世の中へと価値観がシフトしている。それに付いていけず、古い価値観のまま無自覚に生きていたため、お父さんは「普通」からドロップ・アウトすることになってしまった。
 だがそれでも、お父さんはなぜか幸せそうだ。もうどうしようもない状況だというのに、飄々としている。
 それは「どうしようもない」諦念から生まれた「ゆるやかな絶望感」が彼をそうさせているのだ。人間、駄目になって足掻こうとするうちは無駄な足掻きをしてしまう。しかし本当にどうしようもなくなると、悟るかのようにずっしりとした諦念の中に身を投じることができる。まだどうにかなる、と思い込んで中途半端に救いを求めるから、余計な足掻きをしてしまうのだ。
 かといって、お父さんにはまったく救いがなかったわけではない。確かに生活するうえではホームレスだし、住民票もあり金も失い、車はエンコして動かなくなり、心臓は痛み、冬は否応なしに体温を下げる。
 それでも傍らには、ハッピーがいた。
 ハッピーは犬ならではの従順さで、お父さんと共にいた。そしてお父さんの死後もそれに気付けず、散歩に行こう、ごはんがあったよ、とお父さんに構ってほしがる。そのハッピーもあたたかい昔を懐かしみ、キャンプ場の家族にじゃれ付こうとして野犬扱いされ、致命傷を負う。それでもハッピーはお父さんを、人間を恨みはしなかった。
 そんなハッピーがいたからこそ、お父さんは諦念を受け入れることができたのではないだろうか。これがまったくの孤独の身であったら、絶望のベクトルは人間らしく生きることを選んでしまい、無駄に足掻くことになったかも知れない。ほんの少しの、自分の身の丈に合った救いがあったからこそ、現実をしっかりと認めて「ゆるやかに絶望」することができたのではないだろうか。
 まったく救いのない物語なのに、悲痛な描写はない。寧ろ絶望的にあたたかい気持になれる。
 それを感動屋さんは意味も解らず涙し、「泣ける本」と喧伝してしまうのだろうが、そうした涙腺に直通する感動とは少し違う、人間であるがゆえに生物であるがゆえに感じ入ることのできるものがある。
 犬の話だからどうかなあ、という方。安心したまえ。私も犬を飼ったことはない。しかし猫は生まれてからずっと愛しているので、こうした物語を「動物もの」として片付けることも、そうでなく読むこともできた。小さな生命を慈しむ気持さえあれば、誰にでも感じ入ることができる。逆に言えば何も思わずステイタスとしてペットを飼っているだけなら、理解できない。
 朽ち果てるお父さんは、幸福そうだった。絶望的な状況にありながら、「辛い」「苦しい」などと、ひとことも漏らさなかった。そして今わの際に自動車の窓を開けた。自分の唯一の拠り所であったハッピーを慮って。
「ありがとう」
 このひとことが、お父さんの人間性すべてを表している、愚直でありながら正直な人間として生き抜いた証拠だ。

 そんな救いのない物語も、併録の「日輪草」のお陰で救済が行われている。
 本編の「理由」を肉付けしたような内容だが、これがあるがゆえに単なる感動ものではない、良いお話としてまとまっている感もある。逆にこれが説明過多に感じられる読者もおられるだろう。それでもこの収録は、必然だ。

 現在、さらなる続編が描かれているという。
 収集がついたこれから、どう発展するのか。単なる焼き増しになるのでは、という危惧は杞憂だろう。しかし同時に、これほどのクオリティは望めないかも知れない。
 だが、我々は星守る犬だ。
 高望み、してみようじゃないか。

 ありがちな純愛や三文ミステリー、交錯するストーリーや怒涛の展開、
 そんなものに疲れたら、ゆっくり、読んでみるといいだろう。
 そしてひっそりと、ゆるやかな絶望感を味わってみるといいだろう。

 本当は、本書を購入後すぐに筆を下ろしたかったものの、言葉が見付からぬまま書くことができず、しかしどうしても紹介したく思ったので、こうして本年度最優秀単行本として拙文を記した。
 そうしたくなるほどの、本だからだ。