磯崎憲一郎『終の住処』
〜良くも悪くも純文学〜(2009/08/22)

(新潮社)
やはり芥川賞受賞作品なので、読んでみたというもの。なので作者の磯崎氏や他作品については何も知らないので、遠慮なく書かせてもらおう。
ストーリーは、30代になってから結婚した思い込みの強い男が、妻となぜか不仲(といっても口を利かない程度)になり、浮気を繰り返し、しかし会社の評価が上がり家を建てる決心をしたことで妻のもとに不時着、だがすぐにアメリカへ単身渡ることになり、帰国を切望しながらも任務を遂行、娘の顔を見ようとしたら娘はアメリカへ行ってしまい、またつまらない自己葛藤ばかりの夫婦生活に戻る……という、筋書きだけ書いてみても、とにかく「普通」の物語だ。ただ描写が自意識の強い妄想がちな主人公(ちなみに、全登場人物には名前がない)の視点で描かれているので、執念くしつこい想像が着いて回る。そのうえ意図的にだろう、改行が殆どなく、いかにも偏執的な雰囲気を醸し出している。
ここに描かれているのは、自己意識が生み出す勝手な妄想と現実のギャップ、あるいは一致を文学的にあらわしたもの。だからストーリーにドラマを求めているエンタテインメント嗜好の読者には受けが悪いだろうし、かといって、文学オタクにもどうかというのが素直な読後感だ。なぜなら、文学的ではあるが余りに箱庭的過ぎる。だから、良くも悪くとも純文学である。
主人公の妄想過多なところが文学性を醸し出してはいるが、その実、それは妄想でしかない。だから、ずっと夢の話を聞かされているような気分になってしまう。はっきり言おう、つまらない。だが描写や精神葛藤は一読の価値はあるので、飽くまで文学が好きな人でないと楽しめないだろう。それにしても起伏がなく、幾ら文学的であっても魅力に欠ける。
文学とは、物語の面白さにも構成要素がある。逆に心情吐露を究極にまで書き記したのがドストエフスキーのような作品だが、日本の文学でそれをやると、至極つまらないものになってしまう。前述したように、箱庭的なのだ。狭い世界に閉じこもってイジイジしているだけにしか見えないのだ。だから偉大なる日本文学作品は単なる心的な描写だけではなく、物語もある程度魅力を放っているものが好まれる。文学し過ぎると、一般読者には楽しめないレヴェルになってしまうのだ。
だから私は、本作を描写は優秀であるが「芥川賞になるほどか?」と思ってしまう。登場人物に魅力がないので、物語性はまるでない。だが寧ろこれは意図されたことだろう。名もなき普通の人を描くことで、普通のなかにどれだけ狂気が潜んでいるのかを描きたかったのだろう。だが、それは余りに独り善がりなものに思える。誰に向けてこれは書かれたのか? 普通の人々にだ。しかし、エンタテインメント性がまったくないので、万人に楽しめるものではない。それ以前に、作者のために書かれた作品に見えてしまう。自意識過剰の男に自分をなぞらえて、自分の視点だけで書かれたように思える。
喩えば、女性がこれを読んだらどう思うか。主人公が何かに理由をつけ、浮気を繰り返すのは余りにも身勝手に思えるだろう。理由があれば裏切ってもいいのか、と思うだろう。男性は、妻がそれをも予感していたという描写を祭り上げ、浮気の正当化をはかるかも知れない。エンタテインメント嗜好の読者にはまったく興味が湧かないだろうし、文学的なものが好きな読者にも余りに世界が狭いので良くも悪くも文学という苦しい評価になるだろう。
少なくとも、私は楽しめなかったし、また日記的なものが芥川賞か、と少し嫌な気分になった。だが前の芥川賞ほどくだらない日記的でなく、訓戒や人生観など、作品世界を深く見せる描写が多数盛り込まれている。しかしそれらも、結局は自己肯定のための自慰的な弱い精神性にしか見えないのも実情だ。文学的になろうとする余り、無駄に固い文章にしているようにしか見えない。物語性はまったくないので、ストーリーをなぞって楽しむことはできず、文学的な描写や精神性のみを楽しむしかない。
文学って、そんなものだろうか。
だから本作は、良くも悪くも「純文学」だ。芸術至上主義的であり、その実普段の生活の中にこそ表現があると思っているような。
私は自己愛が強いと自負しているが、この主人公ほど自意識は強くない。そんな私がうんざりしたのだから、自己愛が余りない読者には鬱陶しくしか感じられないだろう。
いかにも芥川賞、という作品。自己を追求していれば賞賛されるだろう、みたいな。
それは小説にする必要があるのか、と思うのだが。思わせ振りな訓戒は、エッセイなどで書けばいい。無理に物語に盛り込む(というより、それらがメインで物語は二の次になっている)のはいかがなものか。
それが「小説」か、と思ってしまうのだ。
だから本作は、自己愛というよりも自己憐憫が好きな普通の文学好き、という矛盾めいたごく狭い層にしか受けないだろう。自己憐憫は自己正当化により成り立つ。普通の人間だったら携帯小説でも表現できる。文学好きなのでそれを拡大した、というのが素直な感触だった。オビに抜粋されている文章は、「結局フツーが一番いい」というもの。何だろ、それって今さら長い小説にしてまでして言うことなのかね。10年以上の漫画、『稲中』の柴崎先生でさえ「フツーが一番難しい」と言っているのに。
本作は、幾らでも肯定・否定はできる構造になっている。だから、ネットでも賛否両論だが、やはり否定的な意見が多い。
私は否定はしないが、評価はしない。
もう40歳を越えた作者に「これからに期待」するような慰めもしない。
ただ芥川賞の重みが刹那的な価値になってしまったのだな、と痛感した。
津村記久子よりは数段マシだけど。
なお、磯崎氏は私より11歳も年上で、デビューしてから3年。だから文壇に出たのは40代になってからのこと。
ならば私も、諦められない。
それだけは都合よく好意的に受け止めた。