川上未映子『ヘヴン』

〜「現実」としてのイジメ〜(2009/07/20)


(雑誌『群像』/講談社)

 単行本ではなく、文芸雑誌で小説を読むというのは僕にとってはなかなかないことだ。文芸雑誌は好きな作家が書いていても、殆どは連載なので入りづらい。だが『群像』2009年8月号には、僕が惚れ込んだ川上未映子の新作長編400枚が一挙掲載された。『乳と卵』から入ったニワカなファンである僕も、これには飛び付いた。何しろ「新作」「長編」「一挙掲載」のスリー・ポイント・シュートである。そこへきて、今までは「感性」で書いてきた感の強い川上が、今作は構想を練って2年かけて書き上げたという力作。これは読まない手はないでしょう、と、この書評(なのかなぁ)コーナーで初の雑誌を採り上げます。
 さて、前述の通り感性よりも構想で書かれている本作『ヘヴン』だが、今までの川上最大の武器であり売りであった大阪弁が封印され、散文的ではなく物語主体の書き口になっている。詩人としてではなく、ようやく、小説家として物語を作ったというのが、読書中にまず感じられたことだった。アクの強い彼女が、それを取り払って非常に読みやすい文体になっている。中学生男子の告白らしく、難しい字や凝った表現は敢えて使われず、みずみずしささえ感じられる。
 だが読みやすい文体に対し、内容は軽くない。イジメを受けている男子中学生が、同じくイジメられている女子と文通するようになり、仲が発展して、しかし現実に日常的なイジメを受け続け、あげくに爆発、しない、できない、というもの。文体のお陰でそれほどヘヴィではないが、陰湿なイジメの手口が痛々しい。かといって、同じくイジメをテーマにした大ヒット漫画『ライフ』ほど陰惨で大掛かりではない。本作に描かれているのは、「日常」であり「現実」だ。川上は日常を非日常化するのが得意なので、その特徴が発揮されている。フェイクなのにリアル。大仰な虚構よりも現実的な仮想世界。余りに事が大きくなる『ライフ』よりも生々しく、イジメたこともイジメられたこともある読者には響くだろう。
 主人公である「僕」と、仲間意識を持つ「コジマ」は、お互いに両親がうまくいっていなくて、実際に離婚していて親は実質的に「他人」であるという、大きな「喪失」を抱えている。それでもその現実を受け入れられるほど、彼らは強い。強いのにイジメられる。精神の強さとイジメは関係ない。寧ろ、強いからこそイジメられる。そして強いからこそ耐えてしまう。それが悪循環となり、イジメはさらにエスカレートしていく。イジメられたことがない人には理解できないと思うが、それが現実だ。
「べつに君じゃなくたって全然いいんだよ。誰でもいいの。たまたまそこに君がいて、たまたま僕たちのムードみたいなものがあって、たまたまそれが一致したってだけのことでしかないんだから」
 イジメに加担しておきながら、どこか距離のある、中学生にしては理知的かつ屁理屈な百瀬のこの台詞が、イジメを象徴している。そう、イジメに理由などない。道徳なんて糞食らえ、存在理由など皆無。本作は、イジメに対しての説教話ではない。「イジメという現実」を、現実的に描いているのだ。だからこそ、絵空事を述べる教師は登場しない。大人はイジメを現実のものとして認められる「本当の大人」しか出てこない。
 ところがコジマは、イジメられることに対して「存在価値」を見出してしまう。そうして「僕」の目を、「ロンパリ」と呼ばれて馬鹿にされる斜視を自分の中で意味あるものとしてしまう。だからこそ、百瀬により「現実」を知った「僕」は、コジマと距離ができてしまう。また、終盤の事件を招いてしまう。クライマックスの公園で、コジマは価値あるものと思っていたイジメの現実を思い知らされ、狂人同様の振る舞いを現実として選び、その生死もわからないままのエンディングを迎える。そうして「僕」は、現実をまざまざと見てしまった「現実の涙」を流す。斜視が治った健康な両眼で。いつも見ていた筈のつまらない風景さえ感動的で、美しいものとして「現実の、現実を生きている、現実を手に入れた」眼で。
「僕は泣きながら、その美しさのなかに立ちつくし、そしてどこにも立っていなかった」
「映るものはなにもかもが美しかった。しかしそれは、ただの美しさだった」
「誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただの美しさだった」
 この終幕を、どうとらえる?
 僕はこれを、「僕」が現実を受け入れた、と解釈した。現実的に斜視は治った。現実的に学校をやめることまで考えている。そして現実的に、コジマはもういない。そうした現実のあらゆるものを、認められる(認めざるを得ない)新しい「僕」になってしまったのだととらえた。
 もう「僕」は、イジメられることはないかも知れない。だがそれは、イジメに存在価値を見出していたコジマを否定することにもなる。しかしそれをしなくては、「現実」は見えない。世界が像をむすび、奥ゆきを持ち、向こう側へ続くには、どうしても「現実」を受け入れるほかないのだ。それを我々幸福な人々は無自覚で行っている。しかし「僕」や「コジマ」には、いばらの服を着るが如き痛みと共にしか行えない。イジメている人はイジメられている方に原因があると言う。教師は空虚な道義を持ち出す。親は無視や無関心。そうして「イジメの現実」から皆、逃れようとする。ターゲットになってしまった当人を除いて。
 だが、イジメはなくならない。
 人がふたり以上いれば、おのずと「差」ができる。そのクレバスに落ち、落とされ、這い上がろうとしている人がいる。あるいは、這い上がれなくて倒れたままの人がいる。そのザマを見て嘲弄する人がいる。そうやって「差」ができることで自分を自分として意識して生きていく……それが現実だ。夢想家や理想論者のような非現実的な価値観の持ち主には、決して理解できない。現実を現実として認められる目が、厳しくもやさしくもある強い心がなくては、現実を知ることはできない。そうした「現実を現実的に」描写したのが本作であり、川上の新たなステップであるのだ。
 正直、一読しただけでは感慨にとぼしかった。「そんなことは知っているよ」という感じだった。ドラマティック過ぎないので、ストーリーだけを追うとするりと読めてしまう。かといって説教臭くもないので、読み込むものでもない。しかし、こういう「現実」を知らない人、あるいは認めない人というのは確実に存在する。寧ろそれが大半だ。本作は、そうした人に向けて書かれたのではないだろうか。イジメられっ子を勇気付けるのではなく、イジメっ子を叱るのでもなく、ただひたすらに「現実を現実として認める力」が読者に備わっているか否かを、問うているのではないだろうか。それこそ「物語」ではなく「小説」として。
 その表題は現実的にあり得ない、絵として眺めることもままならない、「現実」としての究極の聖世界、を意味しているように思える。そんなものは存在しない、と否定しつつも、本当は存在していてほしい、「天国(ヘヴン)」。理想。現実と最も対極にあるもの。だからこそ本作の舞台は1999年を軸としていて、どこか終末論的な雰囲気を醸し出しているのだ。現実に生きる人間が崇めておきながら最も認めたくないもの、「理想」を、本作はハナから肯定しつつ同時に否定しているのだ。
 この川上の新作をどう受け取るか、それとも受け流すか。それは読者の感性よりも経験が必要となるだろう。都合の悪い現実を無視するのは簡単だ。逆に認めることこそが最も難しく、唯一の突破口となる。そこに経験が問われてくる。あるいは人間性をや。
 本作を、いち虚構ではなく「現実的に」読めるか。
 その、作品的あるいは川上ファンへの「ふるい」のようなものとして、『ヘヴン』は輝いて存在する。

……しかし、発表より2週間程度の現時点でも、既にネット上の評価は決して高くない。
「綿矢りさの二の舞」だとか「精神病者のタワゴト」だとか、己れのみの価値観での決め付けが強い。ましてや川上のプライヴェイトをさぐるようなページが多いのに辟易した。
 文学は、手放した(発表した)時点で我が子として自由を得る。
 それを自覚してもらいたい。
 まぁ自分で文章も書けない奴には、暴論か、妄想的反論及び崇拝か、かたくなな否定しかできないだろうさ。

*2009/12/08 追記*


(単行本『ヘヴン』)

 売れ筋ばかりを紹介する深夜番組で、女性評論家が本作を厳しく言及していた。
 何でも、「とにかく、無駄に長い。40ページぐらいにまとめられる」とのこと。
 ははあ、と思った。
 売れ筋を紹介する番組での発言だ。エンタテインメント志向になるのは仕方ない。しかし、川上が苦心して半分にまで削ったのに、それでも長いと言いますか。
 彼女はエンタメ的に、ストーリーを追うだけで消費的に楽しめるものをよしとしているのだろう。現にランキングの上位はそういった傾向が強かった。何せ、「バクマン。」を「漫画業界をネタにしていて新鮮」と評価してしまうのだから。そんな作品はずっと前からあまたあったのに。しかもジャンプ色の濃いそれでとは。
 そういう人には、文学を評する資格はない。
 ましてやイジメを題材にした本作をや。
 イジメは長く続き、対象になった当人にとっては永遠に続くのではないかと思えてしまうものだ。それを起伏だけ書いてまとめろと言うのか。
 人生は都合のいいTVドラマじゃないんだ。
 ドラマを評するのと何ら変わりない態度で、文学を語るな。刹那の価値観を押し付けるな。
 これがぺーぺーのスタッフや素人が言っているならまだ仕方ない。しかしまがりなりにも、彼女は評論家だ。それも文芸評論家でもないのに、漫画や実用書まがいのものと較べて順位を付けている。明らかに刹那の価値観から湧いたコメントで。
 これだから、何でもランキングにしてしまうのは嫌なんだ。価値観が平行化してしまう。
 もっと簡潔に、と言うのならば、クラシックはどうなる。特に終盤でカタストロフィが爆発する組曲はどうだ。プログレもか。前衛音楽やアヴァン・ジャズも価値なく「無駄に長い」のか。歌謡曲だけが価値があるのか? だったら最初からランキングの対象にするなと言いたい。表現の枠が違うものを、同じ価値観で評価するな。
 ましてや、評論家先生が。
 また彼女は「オビに業界人の絶賛の言葉が並んでいるから、大した内容でもないのに売り込もうとしている」とも言った。
 哀しいかな、それは実際に好評のため発売数日で増刷した差し替えオビなのに。掲載雑誌だって即日で異例の売り切れになったのに。
 それなら、著名人のコメントは購入の判断材料にもすべきではないと言うのだね。
 ということは、
 あなたの言葉を信じてはいけない、ということにもなるのだよ。
 評論家なのに、そんな単純なことにも気付けないのかね?
 それで評論できる身分かね?

 本作を絶賛もしていないし、完全なる川上シンパではないが、評論家という立場を利用して文学を貶める彼女に立腹し、この駄文を追記した。

*2010/03/13 再追記*

 前述のように「評論家」――何も言葉を被せる必要はないだろうから、ここに「勝間和代」氏と明記する――が「価値ある本」という観点から酷評していた本作は、たしかに爆発的に売れこそしなかったが、本日、「芸術選奨文部科学大臣新人賞」に選ばれた。枠こそ違えど坂本龍一と同じくくりの賞で、大きく評価されていた。
 売れる売れない読んでて楽しい楽しくないという刹那の価値観で勝間氏は「価値が薄い」と評したわけだが、このように「芸術」として優れているお墨付きをもらったわけだ。芸術など、流行や快適ばかり求める氏にとっては糞の役にも立たないものだろうが、純粋な「書物」としての価値は氏の新書(香山リカに対抗意識を燃やしたあげく惨敗したという)よりあると判断されたわけだ。ましてや書き手をや。
 それでも本作は、刹那の価値観のみでもって「価値がない」と言えるのだろうか?
 文学をエンタテインメントとしてしか見られなかった結果が、これなのではないか?
 そのうえ本作は、今年度の「本屋大賞」にもノミネートされている。勝間氏が「価値がない」即ち「売れない」と断罪したものを、本に最も近い書店員は「売りたい本」として選んだのだ。これにはひどく、理想と現実のギャップめいたものを感じて、本作の中核である「イジメ」に対するスタンスの違いのようなものさえ覚えてしまう。
「本屋大賞」は傾向からすると芥川賞受賞作家は1位になることは難しいようなので、純粋に書店員のお薦めとしてとらえておこう。裏では「話題にはなったもののいまいち売れゆきが伸びない本」を選ぶこともあると言われているが、それでも有象無象の新刊の中から選出されたのは紛れもない事実であり、川上が注目されている証拠である。
 本作も古書店でだいぶ見かけるようになったが、それは現在の大衆の価値観が「勝間的」なものに堕してしまっている証拠とも言えそうだ。言わばJ-POPのシングルをレンタルしてタイトル曲だけiPodに取り込んで10分後に返却するような。しかし「本屋大賞」ノミネート作もやがてそれに近くなり、今のところなべて1位が古本の常連になるものだ。それならいっそ、ノミネートされるだけでよろしい。なればなったで喜ばしいのだが、そうなるとますます刹那的価値観で読まれそうだ。
 文学の底力を、舐めるなよ。

 予言しよう、川上未映子は現代文学の大きな指標となる。