村山由佳『ダブル・ファンタジー』

〜性愛小説の習作〜(2009/06/10)


(文藝春秋)

 中途半端、
 これが、正直な読後感だった。
 宣伝文句に「官能の極み」と書かれていたが、決して官能的な文章ではなく、エロティシズムを追求したものでもない。ここにあるのは、単なる欲情女の自己正当化だ。
 村山由佳は、本作で「タブーを破ることでひとつの到達点に辿り着いた」と語っていたが、そのタブーというのはほかでもない。今まで敬遠してきた性描写を取り入れた、というだけに過ぎない。決して性愛的な禁忌でもなく、精神的な禁忌でもない。
 確かに、初めて性描写を書いたような純粋なみずみずしさがある。だからエグくはなく、村山流であるのに違いない。だが、結局は村山は「純愛オタク」の過去を払拭できなかった。それは主人公、ナツが自分の高まりすぎる性欲を男を代わる代わる使って処理していくことで、一見セックスに没頭する女のようにも読めるが、やはりどうしても「愛」を求めてしまう。村上龍ほどに「セックスは手段でしかない」と割り切れるだけの蛮勇が、ない。しかし例によって流れるような文章で、時に教訓的なことも書かれているので、ふと「深い」かと錯覚してしまう構造になっている。しかし冷静に見詰めると、セックスに自己を求めるわけでもなく、単なる欲情としてしまい、かといってそれも充分に書ききれていないので、ひどく中途半端に思えてしまうのだ。
「いつもの村山流」と書いたが、確かに本作も小奇麗な文章ではある。だが、第三者の視点で描いているにもかかわらず、主人公・ナツの感情が全面に出ているので、客観的でなく主観的なものになっている。これならナツを主語にして「私は〜」と一人称で描いた方がよいのではないか。
 さらには、主人公・ナツは冷静に考えるとひどくわがままだ。作中にもナツ自身がそう思う部分があるが、そこでは表されていないぐらいわがままだ。それは男をとっかえひっかえしておきながら、自分には落ち度はなく、別れる原因は常に相手にあるとしている文章からも察せられる。激しく葛藤することもなく、自己に迷い込むこともない。淋しくなったら男の体温を求める、それだけだ。そのうえでセックスの上手い相手だと満足してしまう。都合のいい女友達もいるし、抱いてくれる男は常にいる。なのに、淋しいという。
 官能小説であれば、表現はもっと克明で欲情を掻き立てられるものになるだろう。しかしまがりなりにも、この作品は文芸作品として描かれ、また発表されている。だから、文章表現がやけに凝っていてそれが邪魔であることも多く、物語に没頭できない。
 どっちつかずなのだ。
 一方で官能をうたっておきながら、実質は日記じみた小奇麗な文章。時折ちらつかせる文学的な面。表現もきわどそうでいて、そのテのものを読んだことのある人には不足なもの。
 従来の村山ファンや、ハーレクインばかり読んでいるような女性が読めば、充分に刺激的だろう。だが、もっと刺激的なものを知っていると「この程度?」で終わってしまう。それで「官能の極み」かと。そのうえで、文学的な懊悩も精神追求もない。やっぱり、どっちつかずで中途半端なのだ。
 ラストがまた、いけない。要は男をとっかえひっかえしても自分は究極的にはひとりなのだ、という示唆的な表現で終わるのだが、そんなことは文士達はとうの昔に知っている。SMでは放置プレイの孤独こそが最高のご褒美だ。そんなありきたりなことをオチに持ってこられても、「だから?」と首をひねってしまう。
 村山は、いい意味でも悪い意味でも純粋過ぎるのだ。いい子ちゃんであることに慣れているのだ。それがたまたま悪戯してみた、というのがこの作品だ。一見、スリリングに性愛を描いているようでいて、根底には純愛主義のいい子ちゃんがひそんでいる。性愛に溺れる女を描いておきながら、性の虜になれない。タブーを破るには、どうしても言い訳がましくなる。あらゆるものに理由を必要とする。
 女性には、ひどく都合のいい小説だろう。女にも性欲はあって、それを正当化するのは悪いことじゃない、という内容なのだから。しかし、そのレヴェルが余りにも低い。「今までに味わったことのない快感だから思わず潮吹きしてしまう」など、生理学的にも間違っている勘違い展開が目立つ。
 最初の頃は楽しく読んでいましたよ。一般読者が陳腐だとか古臭いとか言っているメールのやりとり表現も、形式美として見て受け入れていた。夫との間が醒めていくことも、他の男に傾倒していくところも、昼メロ・ドラマよりはマシかな、と思っていた。でもね、後半から急にダレる。精神的にも肉体的にも安定したナツが、つまらない人間になっている。作家の懊悩のようなものも描かれていて、それがキィにはなっているが、その実大して重要でもなかったりする。結局は、設定のひとつとしてちんまりと収まっている。ナツの欲情振りも母親の教育により形成されたものだった、というありがちな設定もよろしくない。男が次々と現れる偶然を除き、すべてが、ありきたりだ。
 期待して読んだだけに、読み終えた後は「……何か虚しい」と、オナニー後の気分にも似た後悔のような念にとらわれた。こんなに時間かけたのがもったいなかったかな、と。
 セックスを題材とするならば、違う男なのに似たような表現ばかりで、ナツの達成度もいつもマックスなのはどうなのだろうか。描き慣れていない、というのが素直な感想だ。村山はまだ清潔で、穢れを知らない。セックスの奥に潜む魔物を知らない。それを抽象的に描いた部分があるが、揶揄のように終わっている。
 これなら、従来の「村山純愛」を出された方がしっくりくる。村山の作品だと思うと違和感があり過ぎるし、他の作家の作品だと思ってみても中途半端な感が否めない。作者の「色」が濁っている。インタヴューで村山は「黒の村山由佳を出してみた」と語っていたが、確かに本作は従来の「白の村山」ではない。しかし、「黒」ではない。白にも黒にもなれない、「灰色」だ。
 官能小説として読むには陳腐過ぎて、文学作品として読むと浅過ぎる。
 そんな中途半端な感が、どうしても払拭できない。

 とはいえ、村山にとってはこれが新しい出発点なのかも知れない。
 ようやく、彼女がタブーとしてしまっていた性描写を書けるようになったのだから。
 だから本作は、言わば「習作」だ。