村上春樹『1Q84』
〜「存在」の物語〜(2009/06/05)

(新潮社)
これは「存在」の物語だ。
それが読破して、まず感じられた本作の隠されたテーマだった。
「あたりまえに存在していることは、あたりまえのことではない」
ということが、物語には紡がれている。
暗殺者と作家の卵、そのふたりが別々の場所でお互いの存在も(最初は殆ど)意識せず、次第に少しずつ重なっていくのは、手前味噌ながら僕自身の過去の作品(と、呼べるかどうか)でもやったことがある。それは別個の話をひとつの世界にまとめるために有用な手段であり、世界はうまい具合に同時進行している都合のいいものではない、という現実を意図している。
繰り返し言おう。本作『1Q84』は、存在の物語である。
しかし存在は、愛がなくては成り立たない。天吾と青豆は「存在しなくては愛が生まれない」以前に「愛があることで存在できる」存在なのだ。
「人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知る」
こういったフレーズが、本作のそういった隠れたテーマを浮き彫りにしている。
だから、ふかえりは「実質的に存在していない存在」だった。現実的に存在しているのに、さも最初から存在しなかったかのような危うく希薄な空気感を持つ。それに対して、愛を知る天吾と青豆は輪郭もくっきりと、そこに「存在」している。
その「存在すること」は作中に出てくる「猫の町」という架空の小説で象徴的に比喩されている。自分を存在させているのは、自分自身ではない。周囲との関係性が彼や彼女を存在させているのだ。関係性を失えばその人は「存在しないも同じ」存在になってしまう。愛することを、愛されることを知らなければ、自分の存在に気付くこともできない。
こうした比喩が、作中にはところどころ出現する。メタファーが多い作品で、本作を楽しむには国語的想像力と数学的解析力が必要となる。それを使うことなく、「単なるお話」として読み飛ばしてしまう読者もいるだろうが、寧ろ、そういったものを自然と使わなくてはならなくなるように仕組まれているのいるので、それができない読者は「意味わかんね」と酷評するだろう。現に発売から間もない本文執筆時の今は、そういった感想が目立つ。いわく「村上春樹はいつも謎を投げっ放しだ」、「ミステリーやホラーにもなっていない」、「単純に面白くない」……発売から丁度1週間が経過した誰の書評も雑誌などにはまだ発表されていない現在、ネット上での一般読者の評価は高くない。しかしそういった読者が、「国語と数学の両方のスキル」を使って本作を読んだか? と考えてしまう。
これは単純なファンタジーではない。暗喩に暗喩を重ねた意味深で生々しい油彩だ。
だがその暗喩がベタ過ぎたり、意味をぼかし過ぎたりしていて、表現が上手くもあり稚拙(というより時代遅れ)だと感ぜられるのも事実だ。決して複雑多岐な物語ではないのだが、意味が含まれ過ぎている。そのため表現のひとつひとつも良い意味でも悪い意味でも文学的で、それがやや鼻につくことがある。純粋に物語として楽しむには余りに技巧的だ。かといって技巧ばかり見ていると話の筋を見失う。そもそもが謎だらけの話なのだから、解りやすくはない。だが天吾のフェイズはいささか気楽に、青豆のフェイズはいささか緊張して読めるように書かれているので、その読み方さえ解れば読むのに苦労はしない。
存在の話に戻ろう。
天吾も青豆も愛を失っているので、最初は存在感に乏しい。単なる物語の主人公でしかない。しかし、愛を思い出す/実感するほどに、その輪郭は色濃くなっていく。そのうえで終盤、青豆が天吾の姿を目にしたのは、彼女が自分の存在をリアルに実感し、存在の無力化、即ち死を司ってきた彼女だからこそ解るだろう、死に向かうはなむけであり、死を決意する引き金でもあったのだと思われる。天吾にとっては「生」が存在を強める手段だったのに対して、青豆にとっては「死」こそが唯一の現実であり、また現実に戻る唯一の手段なのだ。
その現実と非現実を、本作は曖昧に重ねている。だがその本質はふたつ浮かんだ月にある。ふたつの月とは、現実と非現実の象徴であって、それが両立する世界「1Q84」年は、現実でありながら現実ではない。しかし現実ではないながらも現実である。またキィとなってくる宗教も、単なる批判精神で書かれたものではない。そこではひとつの「方法」として宗教がある。「自分が存在するための方法」としての宗教の本質的なあり方として。人々は自分が存在することを示すために、宗教に走る。またはNHKの集金をする。(一見)愛がない人々は、そうして自分の存在を確認する。
さて、本作最大の謎である「リトル・ピープル」とは何か?
それは明確な答えが提示されていないが、僕はそれは現実と非現実の媒介のようなもので、その均衡が崩れそうな時に「整える」ことを使命としている「現実を超えた何かの象徴」であるととらえた。それは時によって誰かを抹消することになろうとも。『空気さなぎ』はその均衡を保つための具体的措置であり、その事実を記した禁断の書でもある。それがドウタという「擬似的現実」を作り出し、人やものごとには二面性(多面性)があることを示している。
このように、本作は多くの謎を数学的に配列し、文学的にあらわしたものだ。
しかし難を言うなら、その読み方が身に付くと、展開が読めてしまう。人物の運命や、バックグラウンドの存在、そして曖昧に終わるラストまで、予感できる/予知できる。村上春樹という作家は常に新しいものを提示してきたが、今回はそれを暗喩的に提示することにかかりっきりで、本作を「物語」として構築するのには余り成功しなかったと思われる。無論、これは僕個人の意見だ。純粋に物語として楽しんだ人もいるだろうし、これからそうしたい人もいるだろう。
だが、一方的な「読解力」だけでは、本作は楽しめないことだけは言っておく。
多面的かつ多義的な、あらゆる意味での「理解力」がなくてはさまざまのことに気付かぬまま、すっと読み飛ばしてしまうだろう。
過去作と照らし合わせ、「『世界の終わり〜』に似ているね」なんて軽い言葉で片付けてはいけない。村上春樹は常に新しいことを提示する作家だ。別物は別物として見る必要があるし、比較も余り意味を成さない。ただ純粋に、「そこに絶対的な物語がある」ことが重要だ。
発売前から増刷が決定するほどの大きな話題となったので、これから「読み棄てる」読者が数多く出てくることを予見して、僕はそうした「この物語がこの物語である必然性」を提示しておく。きっと『ノルウェイの森』のように、深く読まずに古本屋に溢れることになるだろう。だが、そうした流行性に負けないメッセージを、本作は強く放っている。
それを読み取れるかは、あなたの「理解力」次第だ。
蛇足だが、僕は小説の登場人物を芸能人などになぞらえて想像し、読む癖がある。
本作では天吾は香取慎吾、青豆は大塚寧々、ふかえりは深津絵里(の若い頃)を思い浮かべた。こうした喩えは「物語」を読むうえでは有効なんじゃないかと思って、最後に提案して終わりにする。