長嶋有『夕子ちゃんの近道』

〜「日常」の中にある「非日常」〜(2009/05/13)


(講談社)

 僕は常々、「非日常」をあらわすことが「表現」であると思っている。
 喩えばロック・バンドごときが「表現者」になれてしまうのは、彼らの紡ぎ出したる音楽が日常の中にありながら現実をエスケイプしたものであり、ライヴなどはそれが直接的に行われる集団現実逃避。
 喩えば画家が美しい絵を描くのは、「日常」を切り取ったに過ぎない写真と違って、そこに「非日常」なるものを感じて自分の腕でしたためたる行為。ひるがえって写真家は切り取るだけでなくリアルにまたは曖昧に「日常の歪み」をとらえるハンター。
 しからば小説家は、言葉という公共の遊具で世界を造り、また壊しもする神であり悪魔でもある子供。だからエッセイは「日常」であり、小説は「非日常」となる。中間にある私小説はその境界に安穏とたたずみ、または境界を打破すべく挑んだ「日常」と「非日常」の境い目を壊そうとする危険な産物。
 そういう目で、僕は「表現」を眺めている。
 では本作はどうか、というと、小説であるがゆえ「虚構の日常」すなわち「非日常」をあらわしたものであることには変わりはない。だが、この滲むように浸透してくる「日常観」は何なのか。
 本作中、夕子ちゃんがコスプレをするのは、そこに「非日常」が見い出せるから。朝子さんが箱を懸命に作るのは、その行為が「非日常」であるから。瑞枝さんがスクーターを買うのも、それで転んで怪我をするのも、フランソワーズが相撲を好むのも、店長の元カノが主人公の知っている誰かであることさえも、すべては「日常」の延長線上にある「非日常」である。
 そして、それらの「非日常」はすべて、主人公である「僕」の「日常」にあるもの。だからこそ、本作には「日常的な非日常」がありありと感じられるのだ。
 その「僕」はというと、彼自身に実体がない。言わば空白。だがその空白を縁取る様々な人々により、彼の輪郭は濃くなる。寧ろ、そういった「他者」がなくては「僕」は存在し得ない。周囲の「非日常」が「僕」の「日常」を作っていく。喩えるなら、白紙だ。そこに周囲の、絵の具や筆となる人々が絡み合い、描かれるのが「僕」という像。するならば「僕」は言わば登場人物が全員で「表現」した産物であるのだ。
 その紙や画材を置いているのは、「フラココ屋」というアンティーク・ショップが持つ「空間」。その空間は、実際の店を離れても「空間」として存在し、彼らをゆるく結び付ける。そんな曖昧でいて強固な存在。だから終章で場を移しても、やわらかく彼らを包んで結ぶ空間として存在できる。なお、その終章は書き下ろしで、蛇足だと評する読者もいるようだが、前述のように、彼らを結ぶ、いやそれ以前に「存在させる空間」が確かにあったことを証明する章になっているので、必要だ。逆にそれがないと、この作品は思わせ振りに終わる想像上の仮設で流されてしまう。終章があるからこそ、地盤が仕上がって世界が結ばれるのだ。
 そんなフラココ屋に、僕は自分の働く古本屋をなぞらえ、年の頃も近い「僕」に自分を置き換え、登場人物は思い付く像や近しい人でまかなった。するとどうだろう。人物についての外観的な描写がきわめて少ないこの作品は、だからこそ、より身近なものとして感ぜられた。それは僕のなぞらえ方がうまいのじゃない、様々な人に読めるよう、敢えて細かい描写を省いているからだ。
 こと表現者は自分の好む解釈を求め、あるいはそれ以外の解釈を恐れ、仔細をデコラティヴに描いてしまいがちだ。だが本人の表現衝動と周囲の評価がまったく一致しないことは、朝子さんの箱作りで本作がさりげなく語っている。
 表現に究極的な意味などない。あるのは、日常の中に落とされた非日常の違和感だけだ。
 そんなことまで本作は、非常に親しみやすい文体で考えさせてくれた。第1回大江健三郎賞受賞作ということで何の気なしに読んでみたが、なかなかの読後感だった。作者の長嶋有は『猛スピードで母は』で芥川賞も受賞している。しかし本作の方がゆるく、やわらかく、あたたかみに満ちた作品に思える。
「物は古びると磨きがかかるけど、人はナマモノだからね」
 この台詞が伝えるのは、本作を最もよくあらわしている「温度」だ。

 押し付けがましくない、あたたかい、ゆるい感動に浸れるひそかな傑作。モラトリアムの青年、あるいはその延長に生きる人にはさらに効くだろう。