村上春樹『ノルウェイの森』
〜絶対的な真実としての死〜(2009/02/24)

(角川書店)
あの爆発的な売れゆきは、何をもってして売れたのかが、未だに解らない。かく言う僕も、この『ノルウェイの森』は古本で買ったものだ。ブームのさなかに買ったものだが、なかなか読む気になれなかった。よくありがちな「売れる=理解しやすく薄っぺらい」という安易な式を頭に描いてしまい、結局読んだのは何年もあとになってからのことだった。だが、情けないことに(当時読んでいた僕が未熟だったということもあって)その時の感想は殆どない。せいぜいが「彼女にペニスをしごいてもらって射精する場面があった」ということぐらいしか憶えていなかった。
なので、十年ほど寝かせてからまた読んでみた。するとどうだろう、物語のなかにある奥深さというか、哲学的な懊悩のようなものが込められているのに気付くではないか。しかも良い表現の特徴「時代に流されない」というものを感じる。一回読んでストーリーを追っただけで読み棄ててしまった人が多いのだろうな、と思う。だから中古市場では当然の如く抱える品になっているし、はっきり言って相場はかなり安い。だがベスト・セラーとして長年トップに君臨し、多くの読者を誇っていたのも事実だ。しかし薄っぺらいドラマの影響で売れただけの流行作家にそれを抜かれてしまったのがとても悔しい。
この作品はよく「自殺文学」だとか「自殺至上主義者が喜ぶだけ」などと言われるが、それはチト違うのではないか、と思う。「自殺」という行為はここではある種フィルターのような役目を果たしている。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
という名文句が本作には登場する。これをもって言えば、自殺する人間にとっての死という行為は生の一部であり、何よりも「必然」なのだ。本作発表後、そのスタイルだけを模倣した作品が幾多と出てしまったが、それらの「モドキ」と決定的に違うのは、本作では、死をまったく美化していない。ここでは死はひとつの現実、作品中唯一絶対的な揺るがない現実であり真実として存在している。幻想や逃避手段ではない、必然的な存在なのだ。
それにしても、本作には「救い」がない。緑がその救いの手を述べる役割になっているようにも思えるが、結局ワタナベは緑では救えない自我の泥沼にハマって周囲が見えなくなってしまった。直子という「『絶対的な死』を知る存在」の方が、ワタナベにとってはリアルだったのだから。
ワタナベと直子は自我の海に溺れていた。陸に上がるための絶対的なものを選んだのは直子で、溺れたままでいたのはワタナベだった。しかし共通していたのは、繊細でありながら図太かったこと。それだけの自我を持ち、かつ新しい自我を探していたこと。そう、言い換えれば死とは究極の自我である。直子はそれを求めるだけ見えない闇を背負っており、またそれを選ぶしかないほど自我に飢えていた。しかしワタナベは自我が揺らいでいる。そのために究極の自我を見せ付けられてもどうしても受け入れることができずに、直子のように抱え込むことになってしまった。その最終的なゆきどころも見付からず、自我は公衆電話であてもなく徘徊するしかなくなってしまった。緑という光がありながら、そこに自我を見出せず、埋没してしまった。そうなると本作は、自我とその意味を探す物語とも言えよう。
哲学者ショーペンハウエルの『自殺について』という作品は、以下の題より始まる。
「死によってわたしたちの真の存在は滅ぼされるものではない」
そのタイトルの中に、以下の文がある。
「死は、それぞれ、ひとつの目ざめであろう」
彼は、死こそが生であり、逆に生きている状態は死に等しいと語っている。それに影響されたか僕も、自分の小説に死を究極の自我存在として描いたものがある。死は逃れられないものであり、自ら導いてしまうこともあり、魅力的で、嫌悪すべきもので、容易に受け入れてはいけないもの。図々しくも繊細で、儚くも絶大的なもの。この現世で唯一「絶対」であるのは、死だ。時間や運命はそれに付随するだけでしかない。
そういったことを、まざまざと見せ付けられている感じがした。
2010年公開予定で、映画化が予定されているという。キャスティングが非常に気になるが、それをいい機に再評価を願う。
<2010/12/23追記>
公開から間もなく、映画化された『ノルウェイの森』を観てきた。
全体的に抱いた感慨は「文学作品を『ドラマ化』した映画」だった。
ひとつには、かなり冒頭を簡略化している。キズキなどまるで遠い思い出の一ページでしかないかのようにぼんやりと現れ、あっさりと死ぬ。排気ガスを車内にパイプで導いて咳き込みながら車中を転げる描写はあるが、大して苦しまずに死亡を告げるナレーションが流れる。ところが物語(と、メイン人物であるワタナベと直子)において彼は重要な存在であるので、それが重要でありながらあまり重要な感じが伝わらない。
さらには、原作の冒頭にあった飛行機内で「ノルウェーの森」を耳にするシーンがない。後日談のように最後に持ってくるのかと思えば、それもない。無粋な話だが高校生にまでなった松山ケンイチも、三十七歳のメイクは控えたのだろうかとも思ったが、これではまるで、この映画が『ノルウェイの森』というタイトルである意味がわからなくなってしまう。それこそ「ビートルズ」という世代と「森」のようなさまざまな状態への暗喩としてでしか生きず、原作を知らない視聴者にとっては「タイトルの意味は何なの?」となってしまうだろう。
これは大きな「喪失」だ。ワタナベと直子が抱えていた「キズキという存在の喪失」以上に「原作と原題の喪失」だ。このシーンだけは、前後どちらでもそれがあることで、このタイトルとして成立している。ぼんやりとしたものがますますぼんやりして、原型のない「霧」になってしまっている。
それは瑣末なようで、大きな問題だと思われる。
その後の映画は、全体的には満足だった。
何より、音楽がすばらしい。まさかカン(ドイツのガレージ・サイケデリック・バンド)の初期曲を採用するとは思わなかった。ほぼプログレッシヴ・ロック・ファンやパンク・ロック・ファンにしか通じないアングラな存在だったカンも、これで一躍オーヴァーグラウンドな意味で再評価される予感さえする。メンバーによる問題から決して再結成できないことも、逆に魅力的だ。
サントラを手掛けたジョニー・グリーンウッドの作曲も見事。レディオヘッドのいちギタリストだけで終わらない、幻想的でありながら根底には言いようのない淋しさがあふれる、実に幽玄的なサウンドに仕上がった。中でもエンディングのアコースティック・ギター・インストは比類なき美しさと刹那さで、原作から映像化までの雰囲気をすべてギター一本で言い切っていると断言しても過言ではない。
それらの音楽が、ほとんどすべて、まるで断ち切られるかのように「ブツッ」と終わる。それはおそらく、物語の登場人物たちの心理描写のメタファーであろう。脈々と続いてきたものが突然終わりを告げる、その喪失感。まさに本作のテーマとも言うべきものだ。
ここで音楽の話になったので、ついでにサウンドトラックCDなどの話もしておこう。
本作のサントラ・アルバムはソニーから発売されている。それは劇中の音楽をまとめたものであるが、悲しいことに主題曲の「ノルウェーの森」オリジナル版は収録されていない。ビートルズの版権が厳しいためだ。中核を持たないそれと同列に、EMIの『赤盤』リマスター盤の宣伝が載っている。商業主義はロマンティシズムの大敵であることを痛切に感じる。
そのほかのグッズの話もしたいところだが、いちど本編の話に戻ろう。
冒頭こそ違和感が強かったものの、本編は満足のいくものだった。配役も適役だと思われるし、演技もそれぞれ申し分ない。たとえば松山ケンイチはワタナベの両極端な素朴さと烈しさを(わざと朴訥に)演じきった。菊地凛子はある意味「ホンモノ」のように精神病的な直子を演じる。もとよりあまり若い顔立ちではないので、さすがに二十歳の役はいかがなものかと思ったが……緑は思い描いていた感じとはやや違ったものの、瑞々しさがよく伝わる。永沢とハツミはビンゴ。突撃隊もイメージどおり。レイコはそれなり。そして糸井重里にYMOの細野・高橋によるゲスト出演はちょっとした儲けもの。ワールド・ワイドに喧伝するには菊地凛子だけでは足りないのか、サブ要素としてYMOを借り出した印象がある。だがいい味を出していたので問題ないだろう。
個人的には、突撃隊がまるで目立たないのが残念だった。彼とワタナベがルーム・メイトであることはわかるが、彼があまりに真面目であることはまったく省かれていた。台詞に若干含まれている程度で、原作で印象的だった毎朝の体操だのはすべてなし。そして唐突にいなくなり、原作にはあったそこでの「喪失感」は感じられない。
というように、細部は縮小化あるいはオミットされて簡略化し、「ドラマ」に仕上がっている。もちろん酔っ払いが「オマンコ」と叫んでいたシーンなど、当然ない。村上春樹は何かしかの意図を込めていたのだろうが、映画にとってはさまざまな意味で邪魔になるだろうから。
そのため夜のシーンなど不必要なまでにぼんやりと長く、眠気が襲ってきた。終盤の劇的なシーンも大々的にクローズ・アップされ、ドラマティックになっている。いい意味でも悪い意味でも。
そこで感じたのが、前述した「文学作品を『ドラマ化』した映画」という印象だ。
それは言い換えれば、退屈な文学映画におさまらず、商業面でも成功に導けるものになっていて、かつ感慨はあり、「それなりの」仕上がりになっているということでもある。原作信奉者にとっては「原作レイプ」までいかずとも不満だろうが、原作を知らない者にも充分楽しめるようになっているのは評価すべきだ。
そのため、セックス描写はやたら印象的になっている。胸だけはブラジャーをしたままという違和感を拭えぬまま。一応は「12禁」であり「親の了承を云々」という前提になっている。そのため説得力に欠ける感もあるが、まぁ致し方ないのだろう。まさかハリウッド女優を脱がせるわけにもいかないだろうから。日本では。そこが「ドラマ」と言える点の具体的なひとつでもある。重要な場面である「手コキ」シーンもむろん下半身は隠され、しかし直子の手はろくに動いていないので失笑ものなのが惜しい。必要不可欠なエロスを出しながら、それがかえって中途半端な再現にも感じる。その代わり小道具のたぐいはものすごく凝っており、いまの日本で手に入るの? といった電話の受話器に付ける唾が入らないようにするカヴァー(名称わからず)まで揃っている。
だが映画を観たおかげで、原作の「喪失」というテーマが具体性を帯びて理解できた。
何より登場人物たちは、すべからく「共有できる存在」を求めている。ワタナベとキズキ、キズキと直子、直子とワタナベ、ワタナベと緑、緑と父親、永沢とハツミ、直子とレイコ……主軸の人物は、かならず「ペア」になる。その一方を失うことによる喪失感から、もう一方が抱く感慨や行動によって物語が成立している。
それは言わば、「共有の存在を失くしたことにより、自分自身の存在さえ失う」ことの繰り返しだ。
ペアで存在していたはずが、一方が欠けてしまったためにペアとして成立しなくなり、ましてやいち個人として存在できなくなる。彼らは、もう一方の存在ありきで存在していたのだ。
そのためキズキを失うことで、いきなりワタナベと直子はひとりでは存在できなくなる。そのうちにワタナベは突撃隊となんとなくペアになることで存在感を回復したのだが、映画ではそれがない。やがて直子とペアになることで、再び存在を取り戻す。しかし直子はキズキをいう存在がどうしても必要であり、ワタナベとは完全なペアになれない。そのためワタナベも緑というパートナーを求めるようになる。その緑も父親という存在と存在を共有していた。永沢はハツミと共有存在であることを認めつつも否定し、ハツミを弄ぶ。だが永沢がいることで、ハツミは存在できている。
しかし自分の共有存在を欠いたもう一方は、すべからく壊れる。直子やハツミのように。
そのため最後には、ワタナベとレイコが一時的なペアになり、自らの存在を確かめるのではないだろうか。そしてペアになれないことに気付き、ともに新しい共有存在を求めて別れる。
だが、ワタナベは緑を共有存在として認める以前に、緑のひとことで自我の森の中に迷い込んでしまった。そうして抜け出せなくなった。
このように、本作は「存在の物語」であると再認識した。
しかしその最大のペア、ワタナベと直子こそが、最も自然でいながら不自然な、違和感のつよいペアであることもわかった。直子にはキズキしか共有存在がいないし、ワタナベは誰も共有存在にできない――キズキ以外は。
だがそのキズキについては冒頭で少し触れた程度なのが、実に残念だ。彼の存在こそが出発点であるのに、まるで印象がない。そのためぼんやりとした「霧」の中にいるような感に襲われてしまう視聴者も多いだろう。原作でも自殺の理由はあきらかではなかったので、推測ゆえにひろがる物語でもあるのだが、映像化するうえではそこは説明を不足せねばますますわからなくなる。映像重視の世界では。
それが本作最大の「失敗点」であったと思われる。全体のドラマ性を重視したがために、肝心な中核を見失ってしまった。
そのため本作は「優秀な文学ドラマ」であると言えるだろう。
原作ファンは出来に満足しないだろうが、ドラマとすれば及第点だ。
しかし映画を観たおかげで、私はこの『ノルウェイの森』という作品が、ほんとうに自分に向いている物語であると再認識した。そこを皮切りに村上春樹作品に触れられるようになったのも、いま思えば大切なことだ。村上龍にカブれていた私は、当時の担任教師から「同じ村上なら龍なんか読まずに春樹を読め」と言われて反感を抱いていたものの、いまやこの物語は自分の中核のひとつになっているとも言えそうになっている。
そんなことを、再認識させる、「確認」の映画だった。
だからこそ原作のなかに「私を忘れないでね。私が存在したことを忘れないでね」と懇願する直子の台詞を、重く感じ直した。
直子は、ワタナベとの共有存在になりたくともなれないことを、感じていたのだ。

最後に、途中で触れそうになったグッズについて。
サントラはオリジナル楽曲を収録したものと、「インスパイアード・アルバム」という名のイージー・リスニング・アレンジを施した金儲けが用意されている。さらには前述のように『赤盤』もある。書籍では立ち読みするのにちょうどいい編集の「公式ガイド・ブック」があり、1500円のコラボ・シャツを得意とするユニクロとの提携によってTシャツも2種類用意された。その他のグッズになるとまた枚挙にいとまがなく、クリア・ファイルにポスト・カードのセット、パスポート・ケースにトート・バッグ、ストラップに文庫ノート……と、まるで原作にも映画にも関係ないグッズが作られるのは映画では恒例のことだ。
だが言い切ってしまえば、この映画のグッズは、すばらしく出来栄えのいいパンフレットと、主題曲が収録されたビートルズの『ラバー・ソウル』があればいい。
パンフレットは期待をはるかに越えるもので、レコード型のスリーヴ・ケースに入っている。本体自体もレコードを意識したデザインで、原作の上下巻にもとづいた「赤」と「緑」の配色に特化している(それはグッズや、公開前から配られていたチラシにリーフレットも同様のことだ)。
スリーヴは中にまで「関連する音と本と人のキィ・ワード」が印字され、音楽の比重が高いことにあらためて気付かされる。そのうえで原作にあった印象的な台詞「『グレート・ギャッツビィ』を読む奴なんて〜」さえも省かれていたことに気付いてしまったが、実に力の入ったパンフレットであるので、数百円を惜しまず購入してみてほしい。
音楽は、ビートルズの『ラバー・ソウル』があれば充分だ。あのアルバムがすべてを語っている。主題曲である「ノルウェーの森」はもちろんのこと、「ガール」に「ミッシェル」も収録されているのだから、まるでこの作品のサントラのようにさえ感じられる。たしかイントロは自分でもむかし弾いたことがあるよな、と思い、感覚と思い出しでギターを爪弾いてみると、ことのほかすぐに弾くことができた。「思い出」した。なんとなく。ぼんやりと。しかし、はっきりと……まるで本編のように。
思えば私は、前期ビートルズと後期ビートルズの境界にある、この『ラバー・ソウル』があまり好きではなかった。『リボルバー』以前の曖昧なそれが。しかしここ数年、つとに好きなアルバムになっていた。アイドルからアーティストになる前夜、その空気感を前面に感じるがため、ビートルズという存在そのものを知るうえでは何よりも重要な作品と雰囲気であると思えるようになってきた。
その空気感が、本作にはちょうど合っている。
これから映画を観られる方にも、原作を読まれる方にも、「隠れサントラ」として推奨しておくことで、この文章を結ぶこととする。ソフト化されたら、できればブルーレイ・ディスクで購入したいものだという蛇足を加えて。