川上未映子『乳と卵』

〜美しい谷〜(2009/02/24)


(文藝春秋)

 ああこれは文学だなぁ、というのが率直な感想。いい意味でも悪い意味でも。
 いい意味でというのは、「わたし」という一人称でありながら三人称にも近い視点で、表層的でありながら隅々まで奥深く書かれているというところが文学ならでは。ライト・ノヴェルなんかになるとと一人称出ずっぱり台詞だらけキャー、ってことになりがちだけど、れっきとした文学なのだからきちんと描かれているのです。
 悪い意味でというのは、言うなれば、箱庭的ということ。奥深いのだけれども、そこにあるのは小さい世界でエンタテインメントにはなり得ない。でもまぁ、エンタメしちゃうとハリウッドみたいな長くてどっかんどっかんさぁ泣け笑え、ってな世界になってしまうので、寧ろこれでよかったというべきか。
 でも文学なんて箱庭ですからね。自分で手入れした庭を人に見てもらって、いかに出来がいいかを評価してもらう、そんなもの。そのなかで万人受けする庭がありー.の、玄人受けする庭がありーの、自分のマニアックなこだわりがありーの、で、特徴は庭師によってまったく異なる。なかには他人の庭を真似る箇所もあるだろうけど、その人の個性がそこかしこに出る。目立つものばかり配して派手に作ったのがハリウッドで、箱庭じゃなくてもう庭。箱庭のなかでも当たり障りのない作りにして平凡なのがケータイ小説。僕なんぞはそれは箱庭じゃなくて万人向けに作られた時点で悪い意味での庭になっているのだと思うのだけれども。
 まぁいい。
 で、だ。
「乳と卵」を文学せしめているのは、単純にその箱庭的世界が整備されているからだけではない。テンポなんだな。ミエコさんの書いたり口にしたりするものは、他の小説でもブログでもインタヴューでも、独特のテンポがある。それが「乳と卵」では関西弁という形で表現されている。げええ関西弁で文学って、と思われる方もおられるかも知れませんが、ここでの関西弁はひとつの手法であり、手段であり、本質ではない。喩えばクラブに行ったらダンス・ナンバーや黒人音楽がかかっていて、自然とノッてしまうような。言わば空気感。クラブで演歌がかかってたらそらノれないでしょう? 演歌自体は好きな人でも、それはクラブのリズムではない。さらに喩えるならばサントリー・ホールでクラシックを聴くような感じ。自然なんです。あたりまえなんです。すすっと入ってくるんです。その場に慣れていなくても、空気が感じられてそれに取り込まれてしまうのです。
 そういうわけで、「乳と卵」は空気のように入ってくるものです。いつだったかの芥川賞になった文語体で古語爆発のやつなんかとは対極にあるもの。併録されている「あなたたちの恋愛は瀕死」は空気ではなく、標識のような印象。大事なことが書いてあるんだけど、注意していないとすぐに見逃してしまうような。空気とは違って自分から気を付けるもの。
 絵画も文学も映画も書道も華道も……いろいろな表現行為がそうだけど、「山」をあらわすのは簡単。でも、「谷」を美しくあらわすのは難しい。で、「乳と卵」は山は盆地ぐらいが幾つかしかないのだが、谷が美しい以前に必然的にそこに行ってしまうような、自然行為を催すもの。言うなれば排泄行為。もっと言うなら排泄文学。こんなこと言ったら怒られるかしら。僕が言いたいのは「乳と卵」は生理現象ぐらいに自然だということ。無理矢理糞をへり出しているのとも、便秘でうくくくくと唸っているのとも、下痢でしょうがなしにするとのも、便秘薬や下剤で催すのとも違う、自然と催してするっと出るような感じ。何だか表現が下世話ですが。
 一応は文章を書く者からすると、表現なんて大したことない。排泄行為とおんなじですよ。ただ、したいからする。でも、せずにはいられない。しない人はしない。する人はする。でも、生きている限りどうしてもしてしまう。
 そういった「表現の本質的なもの」が「乳と卵」には詰まっているのだと思います。だからこそ、芥川賞という栄誉を獲得するに値するものなのじゃないかと思います。
 で、山場はやっぱり後半なんですけど、それが「喋ろうとしない緑子」をもってフラストレイションというかカオスがどんどん鬱積してきて、一気に爆発する感じ。カタストロフィの崩壊のような快感がある。音楽で言えば、キング・クリムゾンの『太陽と戦慄』のような感じですか。「喋らないという自我」が崩壊し、キャラクターもストーリーも新しい形になる。それが後半を滑らかにしていて、体よくこの物語を終わらせている。あのまま緑子が喋らなかったら、欲求不満で終わってしまうだろう。そういう意味ではエクスタシーにも似たようなものですね。快感のヴォルテージがマックス寸前まで募っていって、何度も爆発しかけて、とうとう爆発。そして余韻が残る。そういった意味でも、いい意味で「排泄文学」と言えるのではないでしょうか。
 この作品の中心のひとつである「豊胸手術」というのは話の作法であり、展開の手段であり、ひとつの指標となっている。思うほど大した意味はないが、重要なワードでもある。何より、この作品は緑子に尽きる。彼女をもってして、作品世界のあらゆる関係性や表現などが象徴されていると言えそうだ。

 衝撃を受けるというのではなく、じわじわと浸透してくる一冊です。