天野月子、活動停止を考える

〜彼女のなべて〜

 天野月子が、その活動に終止符を打つことになった。
 何でも「音楽を通じて伝えたいことを言い尽くした、やり尽くした」ということだが、それは自己満足ではないだろうか? 自分で「100%」を設定してしまい、自分の力をそれ以上ないものと決め付けてしまったことになる。
 しかも天野の「100%」は即ちラスト・アルバム『ZERO』であり、そこで「やり尽くした」と言っているのだが、いちファンからすると『ZERO』は「さよならの挨拶」を拡大したものだった。多くのファンや特定個人に向けて書かれた、「アルバムという形の手紙」だった。多くの曲の歌詞は「別れ」を描いたものであり、ヴァラエティに富んでいるとは言いがたかった。また、ラスト・アルバムという言葉に「天野月子の完成形」を求めたファンからは満足という言葉より不満を訴える言葉が多く挙がった。簡潔に言えば、ファンの多くは「総決算」や「究極」を求めており、「普通のアルバム」は求めていなかった。しかもアルバムの出来は、劣ってこそいないものの、特別に優れているわけでもない、延長上にあるようなものだった。以前筆者が論じた「表現力の低下」を改めて訴える者も少なくなかった。
「菩提樹」の歌詞は、もともとデモ・テープの中の1巻の言いたいことをすべて圧縮したものになったそうだが、『ZERO』はその逆に感じられる。「Howling」や「ゼロの調律」で言えていたことを、わざわざアルバム・サイズまで引き伸ばしたような感じがして、どの曲もテーマが似ているように思われる。殆どの曲が「別れ」「その先にある何か」「続きがあると匂わせる」という文面を繰り返していて、似通ったものに見える。しかも楽曲は抜きん出たものはなく、どれも小粒な仕上がり。引退宣言がなければ「まぁ、この程度だろうな」と、まだ納得できていたのを、わざわざ「最後のアルバム」を宣言して期待を煽ってしまったために、力不足を感じる。いい言い方をすれば「肩の力が抜けた」ものだが、期待通り、というわけにはいかなかった。まるで天野月子の残骸のような印象だった。とうとう出せるものを出し尽くしたか、という感さえあった。
 それを「天野月子の完成形」としてしまっていいのだろうか?
 喩えば、手塚治虫の最高傑作は『鉄腕アトム』だけではない。『火の鳥』もあれば『アドルフに告ぐ』もある。ボブ・ディランは歌を通じて言いたいことなど既に言い尽くしているのに、それでも咽喉を枯らして歌い続けている。画家は常に至上の一枚を描き続けるし、職人は最高の仕事を毎日こなせるように尽力している。
 表現者は当然のこと、一般人でも仕事には自己満足はしない。してしまったら、そこで終わってしまうから。
 ところが、天野はしてしまった。自分の限界を自ら設定して、これ以上はできないと判断してしまった。そうなると、「それ以上」どころか、「それ以後」さえ求められない。中には、その自分の「(言うなれば)限界」に気付いて活動を停止したのが潔い、という意見もあったが、本当に「やりたいことをやり尽くした」「限界に気付いた」というのであれば、ソロ活動停止後に作曲家として活動するという「保険」じみたことはしない筈だ。まったく潔くないし、さながら「これから他人の曲だから力不足のものを書き続けます」と宣言してしまったようなものだ。それはもはや、「表現」ではなく、「量産」になってしまう。また、他者に曲を提供するぐらいの気概が残っているなら、なぜ自分でそれをしないのかも疑問だ。少なくとも天野は長くソロとして活動してきたのだし、他者が天野の曲を歌うより、本人が歌った方がセールス面でも上回る(9nineの例を見よ)だろうし、曲のリアリティもくっきりする(そのため提供曲をセルフ・カヴァーもしていた)筈だ。
 なのになぜ、身を引くのか?
 天野は、「天野月子を演じる」ことを辞めたかったのではないだろうか。期待されたキャラクターを演じ、期待されたタイプの楽曲を作る。今までの「陰のあるイメージ」を払拭したかったのではないだろうか。それと同時に、「陰の払拭」は「天野月子の封印」と同等だったのではないだろうか。それこそが天野「らしさ」であり、「らしさ」を払拭するというのは、自己存在を否定することになる。
 だが、残念ながら、そう認めたところで、同時に自分が作り出してきた「虚像」から脱却できなかったことを意味している。自分自身に負けたことになる。手塚らは新しい自己を模索し続けたのに対し、天野はひとつできあがった自己に踊らされ、偶像破壊ができなかった。いや寧ろ、『ZERO』は偶像破壊的な作品だった。それまでの天野像から脱却したものだったが、それは同時に、天野のアイデンティティの崩壊を孕んでいた。それほどに、天野という存在は脆く繊細だったのだろう。
 そこで、今後は「自己」に踊らされない、「虚像」を作られない、楽曲提供という形で活動するのではないだろうか。天野は自己を否定し、その存在を薄めることで存在することを選んだのだ。つげ義春が「漫画家よりもアシスタントの方が気が楽でいい」という選択をしたように(しかしその後つげは表舞台に戻り、そして隠遁する)。

 我々は、7年間の間、夢を見ていた。
「天野月子」という幻想を崇め、その実像を許容しなかった。
 それは偶像の強さを示すとともに、実像が「無」であることを認めていたことになる。
 しかし天野月子の実像は、「無」ではない。
 それを示したのが『ZERO』であり、その後のソングライターとしての活動である。
 ラスト・ライヴを控えた天野月子。最後の舞台では総決算的に虚飾された自己を演じるのか、リアルな実像を叩き付けるのか、その中間を選んで曖昧に幕を下ろすのか……天野月子は、最後にして最大の「自己表現」を求められている。
 コンティニューか、ジ・エンドか、リセットか。
 椿は、花盛りの中、首を落とす。しかし樹は新たな花を生むべくして、厳しい冬に耐える。
 寒椿の花が美しい理由は、その潔さにある。
 椿の最後を看取ろうではないか。


「悪魔」今朝、わが部屋へ、訪れ来り、
 すきあらば、咎めくれんと、
 意気ごみて、さて問ひぬ、
『知らまほし、
 かの女の魅力を成せる
 美しきもののうち、
 愛すべき肉体を組み立つる
 黒き、また、ばら色のもののうち、
 第一によろしきは何?』
――おお、心よ!
 いしくも汝の答へたり、「嫌はれ者」に、
『「彼女」にあつて、一切は、ただゆかしさよ、
 選ぶべき何ものもなし。
 全体にわれ酔ひたれば、
 気づかぬよ、何故の痴れ心地とも。
「朝」のごと、彼女は眩し、
「夜」のごと、彼女は治癒す。
 美しきこの肉を支配する
 調和あまりに妙に、
 非力なる分析の
 一々の音いろ験さん術あらず。
 わが五感、一つに凝りつ
 不可思議の転身よ、これ!
 彼女の聲は、香気にて、
 かの女の息は、楽の音よ!』

(ボードレール『悪の華』より「彼女のなべて」)