『メグとライオン』を読み解く
〜おわりに〜
こうしたことごとをもって、筆者は、本書『メグとライオン』を「コンプレックス表出とその克服の物語」として読むことができる、という主張をしてみたい。
平凡な夢物語を描くだけの絵本であれば、夢想家であれば誰にでもできるが、こうした「深読み部分」まで描けるのは実力や計算(意識/無意識/無意識下の意識を問わず)あってのことだ。他にも視点を変えれば、様々な読み方ができるだろう。本人の中にあるたったひとつしかとらえ方のない、単純な芸術モドキと違って。
そのため筆者は、本書を「優秀な絵本」であると判断する。
無論、これらすべて、筆者の「妄想」でしかないので、筆者を馬鹿にする向きが絶えないのであれば、勝手にそうしたまえ。その代わり、世界にあるいっさいの創作物について、作者と主人公を結び付ける愚行をやめたまえ。この論文も(或いは拙サイトにある小説や文章ほかすべても)「筆者/作者のいち側面」が書いたものであるに過ぎず、同様に本書『メグとライオン』も「天野のいち側面」が創造したものなのだから。
筆者が最も言いたかったのは、ひょっとすると、それなのかも知れない。
「先ず君の其の偏見を、棄てて見給え」と。
本稿を書き下ろすために、何度も『メグとライオン』を読み直した。
そのために絵本は表紙に擦り傷が付き、その背や腹、幾つかのページの端にも脂や垢といった人間的な汚れが付着した。それほどに読み直してしまった。どうやら筆者は「コレクター」にはなれないようだ。
でも、それで、いいのではないか。
本書をまるで「お人形」のように棚に鎮座させておくより、こうして熟読した方が作者にしては本望だろう。コレクター精神で購入したあげく、省みないというのは実に浅ましく思える。
もし読者がトムであれば、メグを並べるか/離すかの違いが現出する。よって本書は「天野月子ファンにとっては」読者(=リスナー)の質も問う/ある種のふるいにかける作品となっているのではないだろうか、などと、無粋に満ちた言葉でもって本稿の結びとする。