『メグとライオン』を読み解く
〜第三項:「ファザー・コンプレックスの表出」〜
本項が、本論を書くに至った最初のきっかけでもある。本書には、とかく「ファザー・コンプレックス」と思われる表現や場面が多く、それこそがこの物語の中核になるのでは、と考えたことから筆者の空想論は展開し始めたのだ。
この「ファザー・コンプレックス」という語彙は今では当然のように口にされるが、その定義は未だ成されていない。「エディプス・コンプレックス」に相当、またはそこよりの分派というのが一般的見解と言える。その「エディプス・コンプレックスは」意味合いとしては「異性の親に対する嫌悪・思慕(特に思慕)/同性の親に対する嫌悪・思慕(特に嫌悪)」であるので、実際には「ファザー・コンプレックス」も「マザー・コンプレックス」も同じく「エディプス・コンプレックス」である。それを抱く本人が男女どちらかであることにより、呼称が異なるわけだ。そしてそれらは、思春期に異性と接することによって克服されていく。
――トムへの依存とそこからの脱出をはかる幽閉期、異性のライオンと常に接していた冒険期、そうして補完の後にコンプレックスを克服。やがてトムとの再会。
このように、本書を読み解くことはできないだろうか?
コンプレックスとは「潜在的欲求」であり、本人の意識とは別の部分にそれが表出していることが多い。本書中、メグが自分に対してトムの幻影を重ねる部分も見られまいか? さながら、自分の産みの親であるトムを娘である自分と比較する場面が。
喩えば終盤、トムとの再会を果たす直前、かつての家を訪れた際にメグが発した言葉を見よ。
「タンポポハ、ワタシダッタ。ワタシハ、トムダッタノ」
このひとことに、メグという「存在」の曖昧さが現れていると言える。それも本人の自覚からではなく、寧ろ「無意識下の意識」にも似た感情から。
ここでのタンポポとは「水色のタンポポ」のみならず、その後に胞子として舞う「赤い羽根」をも含んでのことだ。メグ、トム共に、タンポポと赤い羽根として連綿と繋がる生のサイクルに含まれ、喩えばメグが水色のタンポポであれば、彼女を造形したトムは赤い羽根と言える。そうして「親と子」の表現が暗に示されていると思えないだろうか。
しかし、このひとことが「曖昧」であるのには、何よりそこに「母親」が介在していないという理由がある。トムの家に戻ったメグが目にした風景、そこには「おじいさんとおばさん」「おかあさんとおとうさん」という「男女一対」が存在している。だがメグには、トムしかいない。父とも言えるトムがいながら、母はいない。そのため逆転的に「男女一対」になれていたものの、ライオンが現れるとそちらで「男女一対」が構成されるため、トムとの「男女一対」は即座に崩壊する。そうした関係の間にあるのは「親と子」ではなく、常に「対等」の立場だった。こうして結局、メグには物語の最後まで「トムと誰かという男女一対の親」は存在しない。つまり「母」がいない。
こうしてメグは「父親コンプレックス」ではなく「男性/父性コンプレックス」に陥っていく。第一項で述べた「ロリータ・コンプレックス」と同じ方式でもって、男性/父性を補完することになる。
ところで「コンプレックス」というものは、あらゆる倫理・思想の根源となるオイディプス王の例を引くまでもなく、ポピュラー・ミュージックの中にも普遍的な傾向として存在している。こと「マザー・コンプレックス」に関する表現は多く見当たる。こと母親に対しては「愛情」「慕情」などの意味が強く浮き出ている。
[例]
ジョン・レノン(ザ・ビートルズ)「母」の思慕
ロジャー・ウォーターズ(ピンク・フロイド)「マザー」での依存/脱却
ロキシー・ミュージック「マザー・オブ・パール」での偶像化
ピーター・ガブリエル「マザー・オブ・ヴァイオレンス」での実像化
ドアーズ「ジ・エンド」での欲望の代表表現
BUCK-TICK「Schiz・o 幻想」での胎内回帰願望
DER ZIBET「潜在的愛人」での潜在的欲求
創作する人間は、今昔を問わず「男性」が多い、それゆえ「マザー・コンプレックス」が主になってしまうのは当然の色合いが強い。それに対し、父という存在は男性表現の中ではなべて「憎しみ」「憧れ(目標)」「尊敬」といったもので表現される。
[例]
ロジャー・ウォーターズ(ピンク・フロイド)「ホエン・ザ・タイガース・ブローク・フリー」での失われた父性への憧憬
ドアーズ「ジ・エンド」での憎しみの代表表現
THE YELLOW MONKEY「FATHER」での父親讃辞
DER ZIBET「Father Complex」での父親打倒願望
興味深いのは、父権が未だ脅威として存在する英語圏には「ファザー・コンプレックス」に於ける「尊敬」的表現は思ったより少なく、寧ろ「憎しみ」ほか攻撃対象となる場合が多い。その一方で「ちびまる子ちゃん」「クレヨンしんちゃん」などに代表される、卑近な存在により父権が弱体化した日本の方が、逆転的に「尊敬」の念を投影しているきらいが強い。だが、これは本稿とは関与すれども、直接的な議題ではないので割愛するが、つまりは「欲する存在として父はそこに存在する」と言えるだろう。両者とも筆者の手もとに幾つかの例があったものの、少年が父を嫌うような、或いは飴を買ってもらっただけで頷くような幼稚な表現が妙に多く、ここでは例を控えたぐらいではあるのだが(そりゃあ筆者の趣味範囲での例が多いのは承知している)。
メグにとっての父親、トムは、そこに「象徴的存在」としてメグの中に存在する。メグの中には幽閉への憎しみはなく、寧ろ、憧憬ばかりが見られる。また最初期にはトムしか人間を知らなかったため、彼がメグの中での「男性/人間の基準」にもなっている。他にも「似ているが自分とは異なる存在」としても君臨しており、とまれ、そこには「再会を願うメグ」がいる。喪失を補完しようという、メグが。
また面白いのが、こうした「コンプレックス(劣等感/優越感)」という表現は、それを「化粧」という武器でもって手段に変換した「耽美系」に多いのだ――誤解を招くといけないので断っておくが、筆者が言うのは「耽美系」であって、その表面のみを繕って形骸化した「ヴィジュアル系」ではない。よって筆者が例に出しているもののうち、日本勢にはそれが多く見当たるのも筆者の嗜好のみならず、当然のことでもある。どちらの意味であれ「コンプレックス」を武器にした彼らだからこそ説得力がある、と筆者は考察している。彼らは表現の対象が他者ではなく、結局は「自身」であるからこそ、そのルーツには敏感なのだ。これも詳しくは、原稿用紙20〜30枚ぐらいにはなるだろうからやめておくが。
そういえばメグもまた、化粧こそできないものの、着飾られる宿命を背負っていた。
要は、本書には「男性にとってのマザー・コンプレックスと対応する、女性にとってのファザー・コンプレックス」が見受けられるということだ。劣等感であれ、優越感であれ。父性愛であれ、異性愛であれ。
そうして最後に投げられる言葉は――「私を造ってくれて、ありがとう」。
これはまさしく、父親に贈られるべき言葉だろう。母親であればそれは「産んでくれて、ありがとう」になる筈だ。となると、メグは「母親不在」であることも自明の理。
そうして母が不在でありながら、メグには「実父(トム)」と「義父(ライオン)」は存在する。再会の場面など、まるでそのありようを示しているようではないか? 映画・小説・漫画などを問わず、実の親(トム)を目の前にしながら、こっそりと去っていく子(メグ)という構図(或いはその逆)はよく見られるだろう。それを打ち破ることができるのが「義理の親であるライオン」であることになる。
しかし何にせよ、メグに母はいない。母親はコンプレックスの対象となる以前に、そこには存在しない――と思いきや、身を呈してライオンを守ったピエロ、つまりかつての王女が、メグにとって「見覚えのあるもの」だった、という表現がある。それはサーカス小屋での夢の話だが、後にライオンが「そのピエロは王女であり、ライオンをかばって死んだ(大意及び類推)」と告げることにより、輪郭が浮き出てくる。
ここで実際には、メグの「母代わり」が示されているのだ。それは人形である彼女にとっては「モデルとなった人物」がそれである。そのモデルとなったのが「王女」であると、筆者は類推する。
トムと王女の関係性は、本書中にはいっさい記述されていないが、描写からするとトムの家はサーカス小屋から遠くない。観客として、サーカスに赴いていた可能性も考えられる。しかもメグは、サーカスで見た夢に出てきた「ピエロの被っていた仮面に覚えがあった」という。またライオンの家にあった「R」のマグカップも、ひょっとすると彼女のものではないだろうか? という思惑さえそこに被さる。そして、見逃せない要因がもうひとつある。トムの家の棚、メグが幽閉されていたそこには「小さな女の子の写真」が飾られていたということだ。
これらについてはもはや、想像の域を出ない。ゆえに断定などできないが「もし」そうであるとすれば、王女も「ファザー・コンプレックス」にまみれていた人物だ。父親から疎ましがられ、やがて彼をも失脚により失い、必然的に「父性を失った」状態。それがトムの造形により投影されたのがメグである、とすれば納得がいく。
メグに関しては、このように「ファザー・コンプレックス」での説明が可能だ。しかし本書の面白いのには、他の登場人物――トムとライオン――にも「コンプレックス」の影が見えることだ。
まずトムは、明らかな「ロリータ・コンプレックス」である。しかし第一項で記したような「女子側」のそれではなく、寧ろ「それに愛情/補完を注ぐ側」でのもの。つまりナボコフの著作『ロリータ』で言うならば、主人公「ロリータ」ではなく、主人公格の男性「ハンバート」側の視点のものになる。「誤解されたロリータ・コンプレックス」であったとしても、説明できるのは明白。「お人形趣味」の具現化がトムであり、それらコンプレックスからの脱却を意味するのが「花屋になっていた」ということ。それは今までの自分を棄て、新しい活路を見出すことができた証となるだろう。
ライオンは「マザー・コンプレックス」をこうむってはいるが、彼の場合、その傷を明らかにはしたがらないほど深いものであるので、トラウマと同じく「拒絶反応」を示している。メグがサーカスの夢を見ても、つまらなそうにするだけで「話したがらない」のはその現れであろう。奇しくも、それは前述例示済のロジャー・ウォーターズにとっての「父親喪失感」と同じものであり、生まれた時から母を知らない、ということに「存在しないことがコンプレックスとなる逆転的なコンプレックス」がひそんでいる――平常のコンプレックスは、存在するものに起因するものだ。
こうしたバックグラウンドが、メグの「ファザー・コンプレックス」と噛み合って、本書の味を深めている。
それを「じゃあ天野はファザコンなんだぁ」などと馬鹿げた誤解をせぬように。まだ作者と物語とを切り離して考えられないのであれば、本稿を頭から読み直したまえ。そして理解できぬなら、誤解を理解としてしまう恐れがあるので、天野とメグの関連性について言及しないこと。または、あらゆる創作物について、作者と対象の関連性を直接的に考える愚行をやめることだ。
脱線終わり。
「コンプレックスを武器に変えましょう」
天野は、「Love Dealer」で既に、そう歌っている。
そして彼らは、それぞれ、コンプレックスを武器に変えている。
――即ち。
本書をまとめて表現するに、筆者にとっては、以下のような表現が可能となる。
「暗にコンプレックス克服をはらんだ成長の物語(諸作品への相互を含む)」
筆者はそのように、本書を読み解いた。
本書を持つあなたなら、いかがだろうか?