天野の画才

〜「歌手」のイメージは諸刃の剣〜

 誰かが論じそうで論じ得なかったことを、筆者は今回、敢えて論じてみようと思う。
 それは「天野の絵とその影響もと」に関することだ。
 筆者は絵画・芸術の類に関しては「かじった程度」であり、まるで明るくないので「愚者が物を言いたくとも、うまく言えない様」を馬鹿にするつもりで読んで頂きたい。

 悲しいかな、天野には画才があるというのに、歌手という立場にあるがゆえ、その技能は「サブ・イクイップメント」として認識されている。しかし、表現者が常に行うもの(この場合は歌や楽曲)よりも、時折見せる表情や表現こそが強くパーソナリティ(或いは、その人のリアリティ)を醸し出すのと同じで、天野の画才も彼女を理解するにあたっては重要な点であると思われる。
 けれども、現状では歌手であるために、彼女の絵画は歌世界の想像を拡げる付加要素としてのみ効力を発揮している。それは正当ではあるが、表現のバランスを考えれば納得のいきかねることだ。喩えば、彼女はほぼすべての曲にわざわざイメージ・イラストを設けるぐらい「絵」というものにプライオリティを置いている。なのに、リスナー側が「歌」を尊重するばかりにそちらを軽視しているというのは惜しむべきことだ。ひょっとしたら、彼女の天分はそちらにこそあるという可能性も含んでいるのに。
 それ以前に、個々人の「想像力」に委ねるしかない「イメージ」である絵画は、よほど優秀なものでもない限り、誰の筆でも疎んじられてしまう。しかし天野は、それを常に表現活動の上位に置き、歌世界とそれとをリンクさせようとしている。喩えば天野は……

 楽曲との関連性のない油彩なども多く描いており、
 自筆画をジャケット材料として提供することもあり、
 グッズやライヴVTRなどのデザインもその殆どを自ら手がけ、
 自身のほぼ全曲に「楽曲イメージ・イラスト」をコメントと共に設け、
『シャロン・ストーンズ』とその関連シングルには「ヒメギミ」イラストを設け、
 中でも「スナイパー」は特別な「スナイパー・ヒメギミ」の絵が幾つか描かれ、
『メグライオン』関連のライヴでは「アーマノ長官」の絵をそこかしこにあつらえ、
 遂には『メグとライオン』という、贔屓目でなくとも出来の良い絵本を出した。

……と、このように、天野にとっての絵画は「趣味で描いてるんですぅ。エヘッ☆」といった生ぬるい程度のものではない。「趣味」ではなく、寧ろ「表現」の一端を担っているのに間違いない。もしくは「自己探求」の一環であるのだろう。
 そういうことで、歌手たる天野であっても、彼女の絵画について論じる場所があってもいいのではないか?
 という無粋かつ愚鈍な発想のもとでの執筆であるので、この項は論文を読むというより、読み飛ばすような気分で読んで頂いて結構である。

 さて、ここで唐突にも、ひとつの「まとめ」を提示しよう(これはある事項について部分部分しか理解しておらず、なのに説得力を醸し出そうという欲深な人間によくある行為だ)。
 総じて、天野の油彩は「印象派」の影響を感じさせる。かといって、モネのような抽象ではなく、レンブラントのような具象でもない。マネやゴッホ、ゴーギャン(ゴーガン)には近いものがあるが、やはり違う……その中で筆者が比較的「近い」と感じたのは、マティス(マチス)だった。また派閥は異なり「野獣派」になるものの、ピサロとの類似性も感じられる。
 こと油彩や、対象のデフォルメ法などはマティスのそれに近い。しかしトータル性で言うなればピサロに近い。ところがデッサンになると不意にデルヴォーによる一連の裸婦画さえを思わせるものになる……という奥深さが、天野の絵画にはある。単純に「感性のおもむくままに描いてみましたぁ。テヘッ☆」という、ありきたりな絵ではない。しっかりとした根底が幾つも根を張っているような感が、その絵の下地に垣間見える。そこへ漫画などの手法を混在させ、現在の天野の画法が成立しているものと思われる。
 特にTシャツなどに施されるデザインは、具象よりも抽象を必要とする。そこで天野が描くものは、筆者にとっては「印象派」のそれを髣髴とさせる。限られたスペースで、限られた手法で、シャツという狭いキャンバスに描く絵は総じて「象徴的」なものをくり抜いたようにして描き、そこからの発展性は着用者(=リスナー)に任せられる。この構図こそが、印象派のそれと同じであると言えまいか。それらには、往々にして自己を投影した「ヒメギミ」が描かれているが、どれも抽象的な様相を呈している。時にはくっきりとしたイラスト的に、時には走り書きの線で構成されたものに、時にはドット絵として……。
 ここで前述の「想像力に委ねる、イメージとしての絵画」という言葉がよみがえる。
 それをもってすれば、音倉レコードのオムニバス盤『会社案内』の走り描きじみたジャケットも、何らかの意味を見出せる筈だ。本来は意味を持っていなかった抽象画なのかも知れないが、閲覧者には意味を作り出せる可能性がある。その絵には、他の絵画作品よりも「想像の余地」が余りあるほど存在する。
 音楽もまた然り、ある程度に想像の余地を残した具象形でもってリスナーに訴えかけているため、リスナーによってはとらえ方がまったく異なる。そのとらえ方が完全に「ひとつ」であるものなど皆無に等しく、あったところで、楽しめる人間も製作者しかいない。ある程度の抽象性を保っているからこそ、多くの人間が楽しむ余地が発生する。
 こうしたことは「小説」にも言えるのだが……「カメリア」から「インスパイアされた」小説も、結局は「ファン意識」としてのみ認識される程度の腕しか持たぬ筆者には、語る資格がないようなので割愛する。それも本論のすべても「イメージとしての表現」を認識できない、表現意欲を持たぬ者には決して理解できぬ「ただのたわごと」になってしまうのだろうから……。

 筆者は基本的にTシャツは「ファン限定アイテム」であると考えるので、進んでの購入はしない。幸い、天野のそれはデザインに凝っており、そこいらへんの「ロゴべったり」「ジャケ写べったり」ではない。「天野月子」というキィ・ワードを踏まえつつも、ポップな独自のデザインに導くことに成功している。だがしかし、まだ「キャラクター・アイテム」の域を出ないものが多いのも事実だ。
 しかしそれでも、迷わず購入したデザインがある――「HONEY? Tシャツ」だ。
 筆者は「ファン意識」よりも「デザインとして優秀」と思い、日常より「HONEY? Tシャツ」を着ている。実際に、他のTシャツの多くは「キャラクター・グッズ」の域に収まってしまうデザインであるのに対して、これだけは(抽象度を高めた絵画が祭られるのと同じで)芸術性を強く感じる。もはや「天野月子デザイン」という枠を越え、筆者の中では優秀なデザインがひとり歩きしている。そのため、何の恥じらいもなく着ることができる。西洋的な抽象性と和の色使いが合致し、簡素ながら奥深さを感じる。かつては「自分用」であったそれを、強く気に入った末に商品化した天野の判断は、筆者には正しかったのだと思われる。
 ひとつ、面白い話がある。
 それを着てAlternative Symphonic Elements(以下A.S.E.、彼らについて詳しくはこちらにて)という、即興主体ながら歌を出発点/着地点としてその場で楽曲を作る、深い知り合いとなったバンドのライヴを観た時のことだ。
 即興主体となれば、その場で感じ取った感覚や空気で楽曲が進行する。特に演奏陣は耳、肌、目から得られるものを楽曲にフィードバックするだろう。そうした「外部影響」を望む人々はステージ上で客席から何から考察し、逆に嫌って「内部宇宙」の表出を望む人々は観客に背を向けたりする。A.S.E.は前者で、視覚・聴覚から得た情報を感覚に活かし、感性を楽器という手段で音楽に変換する。得てして、インプロヴィゼイションとはそういうものだ。
 その演奏終了後、A.S.E.や、根本となるelementsの中心人物、maxにこんな言葉を頂戴した。
「演奏中、そのTシャツがすごく目に入って、何度も見ていたよ。抽象的な人の顔になってるんだね」
 maxは「HONEY? Tシャツ」からイメージを受け、演奏に活かしていたのだ!
 その日のA.S.E.はインプロ主体でありながら、いつになく解りやすく「ポップな」楽曲進行となり(といっても即興だから充分「普通のポップ」じゃないのだが)、大好評を得たのも、ひょっとするとこのTシャツがちょっとした役目を果たしたのかも知れない。
 他の場でも、筆者には音楽や文学、または芸術の愛好家達と接する機会がしばしばあるのだが、誰しもそれを「キャラクター・アイテム」であるとの認識は口にしなかった。誰もが単純に、それを「デザインとして優秀」であることを認め、それがいち歌手の筆によるものであると明かせば、意外さを隠さなかった。
 これが筆者が「HONEY? Tシャツ」を気に入り、またそのデザインが優秀であり、それを描く天野月子には画才がある……という証拠にはならないだろうか? 主観的であることは無論、承知のうえではあるが。

 或いは筆者には、シングル『人形』初回盤のブックレットに描かれている「メグを持つトム」の絵が忘れられない。それだけのことなのかも知れない。
 あの絵は特に、彼女の描いたものの中でも特筆に値する。「リスナーから人形のように見られていた/リスナーに人形のように見せていた」自分、というコンセプトを「メグ」と「トム」に置き換えたのは容易に連想できる。しかし絵画も音楽も詩もそうであるが、ここで抽象性が活きてきて、他のとらえ方も可能になる。筆者は、それが「女性を人形のようなものとして崇める男性の像」のように感ぜられた。或いは「見られることを前提とした女性/見ることを前提とした男性の像」、または「男女とはそのように存在している事実」……そうしたものが、また自分にフィード・バックしてくるため、筆者はあの絵を好む。
 そうやって、閲覧者の想像力を喚起することを天野の絵は実現している。その才を評価せず、見過ごしたままではもったいない。絵本「メグとライオン」でその才を遺憾なく発揮した天野ではあるが、今後は物語を挟まない純粋な画集なども期待したいところだ。それでも閲覧者にイメージを喚起させるものであるのか、筆者は、それを知りたい。
 ところで、あの純粋さあふれる絵本を読んで、涙できた者はいるかい?
 ひょっとして、飽くまで「天野月子の絵本」として読んでいて、アイテムとして無粋なとらえ方をしていないかい? 表現者にとっては、そうしたことは「理解ではなく誤解」に繋がると思うのだけどね。どんなに天野が優秀な絵本や絵画を描いたところで「天野の作品」というレッテルが、諸刃の剣として輝いてしまうだろうから。
 そう考えると、天野との共通性を囁かれることも多いCoccoが、歌手業を引退して絵本創作に進んだのも頷ける気がする(後に復帰)。

 つまり何が言いたかったかというと、
「天野の絵を『歌手、天野月子の筆によるもの』というイメージを外して評価してみよう」
 というだけのことさ!