全曲解説:Meg & Lion

〜脱皮したセカンド・アルバム〜

 英国寓話には「マザー・グース」という多くの童話の原点がある。そこにある世界は夢見がちなものばかり語られる傾向にあるが、優秀な寓話というものには、現実への皮肉を込めた残虐あるいは性的な描写が必ず裏側に潜んでいる。それを最もうまく活用したひとりとしてジェネシス在籍時のピーター・ガブリエルが挙げられるが、天野月子も彼と近い資質を備えていると断言してしまおう。
 シングル集のような趣が強かった前作はチャートでも大健闘、軒並み好評ではあったが、彼女自身が「核」を自ら隠匿しているようなきらいがあった。各曲に馴染んだ「仮面」を自ら選出し、曲ごとに被り変えていたような印象があったのだ。しかし本作では、彼女は冒頭からその仮面を剥いでいる。その先の自己表現としてに見出したのが寓話好きの彼女らしい独自の、本作で表現された「マザー・グース」的な世界観だった。
 本作のジャケットにある英題は“Meg & Lion”となっている(背や一般通称では“MEG LION”で、どのみちカタカナでは「メグライオン」と題されるのだが)。メグ「と」ライオン――ここにあるのは「メグとライオン」のストーリー。「あなたとわたし」のストーリー。その「あなた」とは不確定多数のリスナーではなく、ストーリー上に存在する「トム」のこと。彼が単一の人間であるとも限らないが、遅刻の理由が献血なら許せる正義漢、裏切り者でありながら誠実な人、だけど傷付きやすい髪の長い人……そんなありふれた人間を、天野は仮想現実的に絡めながら描いていく。一方の「わたし」は即ち「メグ」であり、アルバム中のヒロインを作り上げた天野(が少なからず自己投影した対象)でもあると判断していいだろう。
 歌詞を読まず、ただ聞き流すだけであれば、ここには心地好いポップ・ソングが集約されている。それも「ライヴ感を出したかった」という、前作よりもギミックの少ない、等身大に近い彼女の歌が。今までは曲により変えてきた声色も、本作では殆ど使い分けていない。なべて「ライヴでの天野月子の声」に近い。歌詞を眺めながら、まずは全曲を聴いてみるといい。そこにある歌詞の生々しさは、前作と比較にはならない筈だ。
 今作を制作するにあたって、キーワードとして飛び交ったのは「B面」「シンプル」「コンセプチュアル」といった言葉であったという。これらは確かに、本作で実現されている。
 まず「B面」という言葉だが、これは昨今で言うところの「カップリング曲」となる。今までの天野は、優秀なカップリング曲を常に提示してきた。それこそ、それのみでアルバムが構成できるぐらい……とは「全曲解説」にある筆者の言葉でもあるが(!)、本作の多くは、その性質の傾向として「表題曲よりカップリング曲」の趣が強い。だが「キャッチーでない」などの、ありふれた表題曲の定義に踊らされてはいけない。喩えば、ポール・マッカートニーよりもジョージ・ハリスンを愛する者は確実に存在する――筆者のように。
 続く「シンプル」であるが、これは言い換えるならば「ライヴ感を強調した音」ということになる。つまり、アレンジありきで、スタジオでの音修正を前提にしているのではなく、生々しさを武器にした作り。本作を耳にしたリスナーの多くが抱く違和感(それは前作との対比による)の原因は、これに値するだろう。今までは自身の演奏を前に出していたバンド・メンバーも寧ろ、天野を引き立てるための演奏に徹している傾向が見られる。ギター・ソロのあるシャラのギターも少し雰囲気作りに傾いているし、特にあっきー、JJによるリズム隊は演奏力を全面に押し出す場面が少なくなり、多くの部分でリズム・ワークに徹している。結果、前作ほど豪奢な音作りではないが、歌詞世界と相俟って、今までは意図的にぼやかされていた「天野月子という人物の輪郭」或いは「その現状」、といった印象を強めている。
 残る一点。「コンセプチュアル」であるが、これを「コンセプト・アルバム」と拡大解釈してはいけない。ここにあるのは彼女の活動の一端であり、これを軸として、諸々のライヴ活動、シングル『人形』封入の絵本「時計台の鐘」、その「人形」プロモーション・ビデオ、さらにはライヴ会場ほか限定販売の絵本『メグとライオン』やライヴそのものと組み合わせることによって、初めて完全に合致するものだ……いや、恐らく「完全」ではないだろう。こと本作のみをして、その判断は下せないようになっている。最終的にそれらを合致させ、本作が「コンセプチュアル」であると判断するためには、リスナーの鋭い感性と天野月子という人物への考察(単純な傾倒ではない)が必要になるだろう。
 これらの点から、本作はコア・ファンほど納得のいく内容になっていると言える。前作の延長線を期待しているリスナーには一聴しただけでは聞き捨ててしまえる可能性さえあるが、聴き込めば、或いはその世界の多角性を認めれば、その世界観にある「コンセプチュアル」な作りに気付けるだろう。それに前作の路線延長を期待しただけでも、充分に楽しめる楽曲が収録されている。また、リスナーの共感を得るべく平易に書かれた歌詞が、逆転的に具体性を有しているのも興味深い点ではある――少なくとも、筆者には。
 さらには天野のアルバム2枚間の関係が、ルー・リードに於ける『トランスフォーマー』と『ベルリン』あたりのように思えるのも、筆者ゆえの妄想じみた邪推である。
 初回生産分のみ、前作と同様イラスト・ステッカー封入。今回は、黒地に描かれた「(自画像とも言える)メグ」と、白地に描かれた「(平衡感覚を失った、隻眼の)ライオン」のいずれかが封入されている。

 因みに「寓話の表裏」は、さながら「月の表裏」にも似ている。本来的にはひとつである筈が、明るい側面しか見えていないあたりが特に――前作『シャロン・ストーンズ』を月の表側、本作『メグライオン』を裏側としてとらえてはいかがだろう? どちらも同じ「天野月子」という人物によって紡がれた詩篇でありながら、その趣は異にする。どちらを求めるか、どちらも求めるか、或いは、それらをひとくくりにした「月世界」そのものを求めるかは、すべてリスナー次第だ。


01.人形(Meg Mix)
 通算7枚目となる、セカンド『メグライオン』よりの先行シングル。シングル・カットはこの1曲なので、コンセプチュアルに構成されるアルバムからのそれは寧ろ「アルバム『予告』シングル」と呼ぶのが、筆者には相応しかったように思える。
 自傷癖さながらに、言葉の塊が鋭いナイフの如く胸を刺す。苦しげに吐き出す天野の声が、悲痛に響く。演奏陣も今までになくソリッドで、エッジの効いた尖った演奏を施しており、本作のその後の展開への期待感を誘う。負の要素を擁した楽曲中では、間違いなく「菩提樹」などに代わる代表曲となるだろう。殊にディストーション・ギターが秀逸で、ベースとドラムは進行を促す役に徹している。その中に透明なアコースティック・ギターの響きがあることで、全体が統一されている。ストリングスも(今までよりは)大仰過ぎず、曲に流れと起伏を作っている。
 男性特有の「お人形趣味」に始まる歌詞は恋愛じみたものこそちらつくが、ひどく救いがなく、辛辣なものになっている。現在形と過去形が交互に使われ、しかし未来形の言葉がひとつもない。願いはすべて過去形で「知らせたかった」「抱かせたかった」と遅まきに告げられ、現状は、糸を切られた「わたし」という人形が動けず、もがく様を描いている。かつて「HONEY?」では「笑った顔が好き」と述べていた筈の笑顔の請願も一変。繰り返される「笑って」という願いは明るい笑顔を促すようなものではなく、哀願するものでもなく――鬼気迫る、相手の笑顔なくば死に繋がるかのような、懸命なギリギリの願い。本当の自分を見て、笑ってほしいのに、人形としての自分しか見てもらえない……これは天野が急速にメジャー化したことを考えると、感慨深い歌詞でもある。積極的に「笑って」と哀願するその様は、何かを求める方法が直接的になっているようにも思える。それが喩えば、アルバム全体に敷かれた「ライヴ感」というコンセプトに具体化されているのではないだろうか。
 そう、天野は前作『シャロン・ストーンズ』の魅力となっていた隠匿性やフェイク感を、本作では冒頭に配置されたこの曲から放棄することを宣言しているのだ。
 しかしその歌詞世界と、冒頭と末尾に配された悲しげなオルゴールの音色に嘆くのは早い。冒頭に比べて末尾のそれは、音色が1オクターブ上がっている。そして仮面を脱いで解放された「わたし」は、明るい次曲「日曜日」に表現された「日常」へ旅立っていくのだ。
 アルバム収録にあたり、シングルでは弱めていたストリングスを随所に「重ねて」ある。その付随箇所は冒頭、ギターがパワー・コードでも弾ける演奏主題部分、コーラス部分前、エンディング。弱められたり抜かれた音はないようだ。また冒頭とエンディングでは丹念に聴けばオルゴールの音がするので、置き換えではないことが解る。但しコーラス部分前の、せり上がるストリングスは「加えられた」というより「強められた」が正しいのかも知れない。他部分(喩えばコーラス部分、特に最終部とその直前部分)のストリングスもレヴェルが若干だが上げられているように感じる。他にも音調整がされているのだろう、心なしかベースが強くきこえる。
 最後のオルゴール部分はシングル・ヴァージョンでは2回の繰り返しには丁度1小節(主旋律2音分)が不足し、唐突に切られていたが、こちらでは丁度2回の反復になり、切られていたオルゴール音も加えられている。
 ビデオ・クリップでについてはこちらを参照。
 ライヴでは「めぐり逢えタワー」で初披露され、以降、イヴェント以外の長時間でのライヴでは後半の開始を告げる曲として定着した。


02.日曜日
 本作には数少ない、シングル・タイプと判断できる曲。よって、前作の延長線を期待して聴いているリスナーも、この曲までは安心できるだろう。それでいながら後述の「時計台の鐘」と並び、過去楽曲との類似点が少ない楽曲であるのは大きく評価できる。
 その本質は「何もない日」にも、何かしかはあることを語る楽曲と言える。「パジャマのような上下(=喩えばジャケットのジャージ)」や「剥がれ途中の(=手入れされていない)爪」はそれら「日常」の具象化であり、対となるように存在する「非日常」を表すのが「外食」や「ジャズピアノ」といった単語だ。それらの並列により、ここには「日常」と「非日常」の対比が行われていることが解る。そのうえで、それらは連綿とした流れの中にあり、寧ろ別の存在ではなく「一体」であることが表現されている。「道草」はその掛け橋(飽くまで「あなた」ではない)であり、先にあるのが「たからもの」である。
 そのうえで想像力を活かせば歌詞は楽しめるものだが、敢えて他にも触れておきたい部分が2点。まず「帰れなくていいよ」という箇所は、従来の天野のイメージを捨て去れずにいると「(あなたは)帰れなくていいよ」と曲解してしまいそうだが、前後の展開からするに「(あなたと一緒なら)帰れなくていいよ」と読み取りたい。そうして前後の歌詞を楽しもう。もう1点、「きつく締めた時計を鞄に隠して」の部分は、要するに「キツキツの時間を忘れて」ということ。天野は「時計が好き」という旨の発言をしたことがあり「壊れた時計もつい見てしまう」とも述べている。こうした個人嗜好が役立ったのがこの曲や「時計台の鐘」であると言えるだろう。
 因みに「しずくの波紋」の後に入る「キイイッ」という音は、続く歌詞にあるバスの停車音を表現しているものと思われる(ライヴではシャラがギターで表現する場面も)。少なくはなったが、そうした効果を催すギミックは健在。シャラの、歌メロディを発展させつつ雰囲気作りに貢献しているギター・ソロも特筆に価すべき。
 繰り返しになるが、本作収録曲の殆どは過去曲とタイプの類似を指摘できる(こうした過去との比較は天野に限らずミュージシャンにはつきまとうものだ)のだが、この曲と後述の「時計台の鐘」に関しては若干の類似性あれど、他の曲ほど直接的に結び付かない。何より、ここまで否定的ではない天野は珍しく、また、肯定的でもないところが興味深い。
 ライヴでは『メグに逢えたら』から「人形」に続く曲として定着していた。


03.ダンデライオン
 前作「青紫」の姉妹版とでも言えるだろう、リズムを強調した楽曲。雰囲気のみならず、スラップ・ベースの多用などもその連想の理由に挙げられる。そのせいで楽曲が過去からの逸脱と雰囲気作りに傾き、少しばかり退屈なものになってしまったが、それは聴き慣れれば味が出てくるもので、なおかつ前作からの流れをこの曲が最初に食い止めているからこそ感じる違和感でもある。転じて、歌詞は初見でも解るぐらい本作中でも味わい深いと判断できる部類。喩えば「わたし」は「あなた」に会えない/会わないことが前提になっている。そう考えたうえで歌詞を読んでいけば、リスナーなりの理解が得られる筈だ。冒頭周辺が特にそうだが、「あなた」になぞらえての「過去からの脱却」を感じさせる。楽曲と共に。
 タイトルは無論「ライオン」と引っ掛けた言葉遊びだろう。そのうえでタンポポの綿毛に自らを投影し、どこへ行くのか解らない様を描いている。と同時に、ここには虚飾を捨てた天野の感性も投影されているのだろう。
 もともとは、誰か(後述のBrand New Worldであると類推される)に提供する予定の楽曲であったという。なるほど、この曲を歌う天野の姿は、前作の延長からでは少しばかり想像し難い。特に冒頭だが、全体的に「昨今R&Bと呼ばれているもの」を思わせる。決して、生粋のR&Bではないのだが。ライヴでは『メグに逢えたら』にて披露され、シンセ部分をダンサブルにリミックスしたイントロ部分が設けられた。


04.時計台の鐘
 この曲こそ「人形」と直接的にリンクし、本作の核を成す楽曲だ。それは全体に浸透する寓話性がこの曲の歌詞に凝縮されていることや、天野が「人形」のシングル初回盤に同タイトルの絵本を組み入れたことからも、その存在の強さは推し量れるだろう。アルバムに於いては、その予告編となるシングル「人形」を上回る最重要曲として構わないだろう。いっそ、この曲も「初のアップ・テンポではないシングル」としてカットすれば、多面性をアピールできたのではないだろうか(後にそれはシングル『蝶』で実現される)。しかし2度あったアルバム発売前のミニ・ライヴで、2回とも演奏されていた事実には、この曲に対する自信が感じられる。
 特に2度目のコーラス部分と、それに続く、このあたたかい曲を一瞬にして凍り付かせる一節――「静かに その手を切り落として」――を挟んだ部分は、高い声やファルセット多用が功を奏し、琴線に触れる。本作のリズム録音を黒磯市文化会館というホールにて行った際、同じ場所で録音された仮歌がそのまま採用されている曲なのだが、その事実はそこで歌い遂げてしまえる天野の力量的成長を感じさせる。また、冒頭に述べた「ライヴ感」は、或いは、こうした形で培われているわけだ。
 これほど寓話的な雰囲気に満ちる楽曲なのに、なぜ切ない雰囲気に満たされるのだろうか?……歌詞をよく読んでみよう。「わたし」は時間に遅れ、結果として待ち合わせには間に合っていない――いや、結果は出ていない。結果を出さないながらも「時計台の鐘 耳もとでざわめく」という一節で、約束の時間を経過した(或いは「わたし」が悲観的にそう思い込んでいる)ことが告げられている。守れない約束、叶わぬ願い……それなのに、時間が止まってほしいと願う歌詞と歌声が虚空に舞う。守れなかった約束の大切さが、滲むようにして伝わる。
 それらがあるからこそ、この曲は「せつなさ」を生んでいるのだ。一瞬が連続している時間というものの「刹那さ」を封じ込めた、その歌詞があるから。
 また、この曲はフェイド・アウトして終わるが、ヴォリュームを上げて聴いてみよう。楽曲は一応、先に発表されているライヴ演奏と同じようにギターの音を残してリズムが停止し、きちんと完結している。しかしフェイド処理したお陰で、続く「羊」が沈黙から湧き起こる効果を生んでいる。
 この曲の魅力は、以上のような点だけではない。やはりこの曲に関しては前述の「日曜日」と並び、それまでの楽曲に若干の類似性こそあれど、他の曲ほど直接的には結び付かないのだ。それこそが最も評価に値する点でもある。
 ライヴでは、「天野月子 in 昭和音大」が初披露。その後もアコースティック・コーナーなどで登場した。


05.羊
 3拍子ということで前作「刺青」の姉妹版としてとらえられそうだが、そんなことはない。エッジの利いたギターは叙情を呼ぶよりも、別の楽曲としての印象を強めるだろう。
 眠れない夜に羊を数える代わりに「あなた」を数える、という着想が面白い。後にはコートを買おうか迷う場面で「ウール100%」という言葉に変えられ、こうして「羊」というタイトルが立証されている。
 ここで奇しくも「あなたとわたしのストーリー」というフレーズが現れ、ひっそりと本作にまつわるコンセプトの核をちらつかせている。詳しくは冒頭に記した通り。また終盤の「レプリカかどうか答えてほしい」という叫びは、前述のフレーズと並んで、本作中で最も価値のある言葉だろう。今まで比較論ばかりを浴びせていたリスナーに対する、天野からの挑戦状だと思えるのは筆者だけではない筈だ。普遍的に言えば、他者と見比べられて自己個性を認められない女性の苦悩とも考えられる……というように、聴こえは良いものの、実はアルバムの重要な箇所を担っている楽曲でもある。それを大々的に誇示するのではなく、寧ろ「ひっそりと佇ませる」ところに、天野の才能と資質を感じる。後はリスナーが味わい、邪推すればよし。
 この曲と「ライオン」「pigeon」の3曲がまず制作当初に挙がり「動物の名前だけでアルバムを作ろうか?」という案もあったという。そうなれば、ピンク・フロイドの『アニマルズ』を筆者には髣髴とさせたに違いない。その名残が、続く「銀猫」と言えるだろう。
 またこの曲は、ライヴなどでコーラスを担当するRieのソロ・ミニ・アルバム『One』でカヴァーされ、天野本人も(その関係性に於いては逆転的に)コーラス参加している。
 ライヴでは『メグに逢えたら』にて披露された。


06.銀猫
 ダンス・ミュージックと80年代歌謡曲の融合。より下世話に表現してしまえば、ABBAと中森明菜の混成とでも言えるだろうか。幾らプログレだハウスだエレクトロニカだと言ったところで、感性的に、これに馴染める「日本人的な」リスナーは少なくない筈だ。それは別に恥ずかしいことではない。
 歌詞中の「わたしをわたしで葬る」という一節が魅惑的だ。これは今まであった自らのアイデンティティを、新たに獲得したそれでもって葬る、つまり、過去の仮面を被った自分を滅し、生まれ変わるという意味にとれるのだから。その具体手段が「写真を焼く」という行為なのであり、「わたし」は、その途中過程を「見ていて」と訴えている。さらには、過去の自分を求められるのであれば「死なせて」という、痛々しくも直接的な、と同時に婉曲的な言葉で、拒否反応を示している……筆者にはどうしても、これは天野自身の叫びであるように聞こえてしまう。捏造した、或いはされた自分の虚像が肥大化し、実像化する前に葬ろうとする姿勢が見えるのだ。こうした「告白」を楽曲として昇華できる天野の強さが、筆者には快くも痛い。またそれらすべてが二重の「フェイク」によるもの――つまり「仮面を脱いだ天野月子」を天野本人が演じているだけだとしても、それはそれで賛辞に値する。
 また、この曲に寄せられた天野のコメント――「暖炉に火を灯す『わたし』と、その火で暖をとる『あなた』」――が印象的だ。ここには、前述の「死なせて」などと相互して、自己犠牲精神にも似た響きが感じられる。これまでに「待つ女」のスタンスを見せていた天野であるが、それが全面に出ると、即ち自己犠牲となる。そこにはある種の勇気と、奥ゆかしささえ感じられる。
 因みに「銀猫」とは一般に「チンチラ」の別名。ペルシャ猫をしてそう呼ぶこともあるし、単純に銀色の毛をした猫を呼ぶことも多い(天野によるイラストからするに、こちらの意味と思われる)。読みは「ぎんねこ」。或いは「ぎんびょう(ぎんみょう)」とも呼ばれ、聞き慣れないながら、古くは西行法師あたりにも使われている言葉でもある。さらには、江戸時代の娼婦をして「銀猫」とも呼んだ。娼婦の歌だと思えば歌詞も深みのあるものになるだろう。
 余りライヴ演奏されない楽曲だが、「プライベートライオン リターンズ」ではアコースティックで演奏され、会場を唸らせた。


07.ライオン
 今まで、好きな異性のタイプを「ライオン・タイプ」などと発言していたことの具現化。そう考えると、齢を重ねることで変化した顔の皺や瞼の厚さにまで言及した歌詞はとても意味深だ。まるで天野本人の実話であるかのように――それがどうあれ、この歌はそうして自分の過去を回想するというスタンスを用いることにより、主人公「トム」即ち「ライオン」の具体化を図ることに成功している。そうしたことからも、本作収録曲中では最もストーリー性を感じさせる歌詞に仕上がっていることに相違ない。
 一定間隔で「キシュゥイッ」と鳴り続けるバックの音は、カメラのシャッターを切る音をイメージしているのではないだろうか? それが「今は昔」とばかりに写真を見詰める歌詞に繋がり、さらには、順序こそ逆であるものの、写真という過去を燃やす前曲「銀猫」にもリンクする。寧ろ、「銀猫」での写真を燃やしている間のワン・シーンを拡大したものが、この「ライオン」であると解釈すると面白いだろう。いやしかし、ライヴで付加されるイントロS.E.でのそれは檻を破るために格子をチェーン・ソウの類で切っている音のように響く。実際には、そうしたリスナー独自の解釈が望ましい。
 天野にはそれほど多くない、追憶型の歌詞の中で最も響くのは「また似てる人を探してしまうだろうか」というフレーズ。恋愛経験の積み重ねがあるリスナーほど、この曲は聴き込めるに違いない。そして変拍子的に配された“I love you so much, I love you sorry”の連呼に、せつなくなるだろう。
 そして、檻を破って出ていくのは「ライオン」だけではない。「わたし」も「あなた」も、「ふたり」で出ていく……「わたし」という絵の具で塗り潰せると思った「わたし」も共に。しかし「わたし」には「あなた」を自分色に塗り潰すことはできなかった。なぜなら「ライオン」である「あなた」にとっては、檻という表現枠は拮いものだったから。「わたし」という表現枠では「ライオン=あなた」は収めきれない。でも「わたし」はあなたに着いて、折から抜け出そう……ここへきて、前述の日本的な「自己犠牲精神」の再来となる。これが感動を呼ばないのであれば、リスナーの経験か感性を、筆者は問うとしよう。
 ライヴでは『メグに逢えたら』にて披露され、隠れた人気曲として後にも演奏された。

 とは言え惜しむらくは、その楽曲配置だ。アルバム中、比較的目立たない前後曲に挟まれたとあっては、この中核曲さえも(歌詞は赴深いのに、楽曲自体が平凡とされる類のものであるため)目立たないものになってしまう危険性が強い。そのため、前曲「銀猫」とこの曲の配置をスウィッチする(或いは「ライオン」「pigeon」「銀猫」と変える)などして聴き直してみて頂きたい。それだけで「流れ」の印象が大分変わる筈だ――この「中核曲」は、ひろく構築主義に支配される「アルバム」の中にあっては「隠れ中核曲」である「羊」のに続くのが望ましい(だからこそライヴDVD『メグに逢えたら』では、必然かつ納得の配置になっていたのではないか? と筆者は深読みしてしまう)。その2曲が続くだけで、かなり印象が異なることは保証しよう。馴染みやすい楽曲ゆえに、単体でも活きる「銀猫」と、楽曲としては最も凡庸な「pigeon」の間に配置されたのが、逆に痛手になっている。そうやって、楽曲単体では大いに楽しめる本作は、全体の流れの中では「中腹」こそが弱点となってしまっているのだ――無論それらは、筆者にとっては、なのだが。


08.pigeon
 冒頭からして80年代的ディスコテックなシンセが導入される。しかし……かねてより「青紫」に感じていた違和感、煮えきらなさの原因が、この曲との対比で明確になった。楽曲自体は平凡以上であっても、歌詞が強く存在するため、その均衡が破れてしまっているのだ。つまり、曲が歌詞に負けてしまっている。ライヴで「青紫」のイントロがディスコ・アレンジされていたのは楽曲の力配分を取り戻そうという苦肉の策であり、或いはこの曲のようなタイプの楽曲を作るための要素として発展したのかも知れない。歌詞は実話であったそうで、コミカルでおっとりと楽しめるのだが、それに対すると楽曲はいかんせん平凡に思えてしまう。悪いわけではないのだが……但し「寓話性の現代劇としての表現」を意図したものであるならば、それなりの評価には値する。
 ライヴでは「天野月子 サマーフェスティボー 大阪夏の陣」にてようやく演奏され、Mr.Qなる謎の人物(?)が登場して会場を呆然とさせた。その模様は『おもひで』ディスク3に収録されている。
 なお“pigeon”には、俗語として「騙されやすい人」という意味がある。つまり「わたし」はおとなしい「鳩」に騙された、というダブル・ミーニングが(意図的かどうかは判らないが)ここに成立している。


09.トムパンクス
 昨今の風潮で言えば、これも確かにパンク。歴史を追った言葉ではオルタナティヴの一種。本来的にパンクとは音楽性ではなく、思想やスタイルを表すものだが、タイトルが言葉遊びになっているように、ここではパンクが追求されるわけではない。それに演奏陣の腕は稚拙さを武器とするパンクを演奏するより格段に達者だし、何より、天野の声はパンク向きではない。「スタイルとしてのパンク」として、とらえるのが妥当だろう。
 ユーモアでくるまれた歌詞や疾走感溢れる曲調は、前作で言う「ロビン」と対比できる(奇しくも、位置も似ている)だろう。また双方とも連綿と続いてきたアルバムの流れにあり、物語ではエンディングに向かう前に多くある、それまでのフラストレイションの起爆点となっているのも同じだ。また、ストーリーの流れとしては主人公「トム」の爆発ととらえてもいかがだろうか。2分30秒あたりで響く目覚ましの音も、彼にまつわる何らかの「覚醒」を表現していると考えられる。
 歌詞は映画好き、いや、トム・ハンクス好きであれば微笑みっ放しに違いない。彼自身や彼の出演作をモティーフとした表現が殆どを占めている。それでいながら、そこにいる「あなた」はモデルとなったトム・ハンクスのみならず、普遍的な男性に置き換えることもできる。そのために、どちらにも連想できる「パンクス」という仮の名称を、曲調になぞらえて登場させているのだ。出発点は駄洒落であったとしても、結果として発展性を孕んだその発想の勝利。
 コーラスは、天野の楽曲提供により音蔵レコードと強い関係ができたBrand New Worldという広島県の4人組女子高生ユニットが担当しているが、契約上や話題性などの関係なのだろう。
 この曲は発表後すぐさまライヴ・セットの常連と化し、3連バス・ドラムやスネア乱打などの細工を減らしたストレートな演奏が毎回大好評を得ている。
 ライヴでは「めぐり逢えタワー」にて披露され、以後後半のクライマックス・シーンで登場していた。

 個人的には、90年代に活動した、「ローリー寺西」主導の、70'sロックへの模倣やリスペクトをオリジナリティに変換したバンド「すかんち」が、当時の「黒夢」に代表されるヴィジュアル系のサウンドを(意図して)「表面的に」真似た「Black Dream」という曲を聴いた時に抱いた感心を思い出した。技巧的に卓越した集団は、表面的な理解などもとより、模倣さえすぐさま行える。そのうえで自己流の味付けを行えるし、歌詞や楽曲の中核だけは自らのものを用いて、結果、自己の曲として昇華してしまう。これは敏腕な演奏力と、楽曲やムーヴメントをすぐさま理解できる感覚、それらを持ち合わせなくては容易ではない。つまり、プレイボーイズの面々は技術も音楽というものの理解度も卓越した人間であり、天野はそれを束ねることのできる存在であるということだ。つまりこれは、ストーリーを貫きつつ楽曲のヴァラエティ性を高めるために、「パンク・ロック」ではなく「おとぎの国のパンク」を「模した」ものとして設計されている、ということが言える。


10.クレマチス
 前作に因み、本作も(実質上の)ラスト・ナンバーは植物の名を冠している。「クレマチス」とはキンポウゲ科の宿根草で、所謂「ツタ」の一種。壁を這うように伸び、春には種類によるが、一面に赤や白、そして青の花を咲かせる。天野が「青」の花を選んだのは、前作『シャロン・ストーンズ』ではジャケットなどに起因するアルバム・イメージが「赤(天野の衣装によるイメージが強い)」であったのに対し、本作のイメージは同じくジャケットにも起因して「青」であるからだ。因みにクレマチスの花言葉は「精神的な美しさ」「旅人の喜び」であり、花占いでも「空想癖」「不注意」「うわのそら」「夢見がち」「現実逃避から現実への着地」などの意味を持つ。そこから天野の楽曲世界や、彼女自身を結び付けて邪推するのも、熱心なリスナーにとっては楽しみとなるだろう――夢見がちで、空想癖のあるリスナーには。Rieと、同じく音蔵レコード所属のQoonieが参加したコーラス部分などは、特に夢想を掻き立ててくれるだろう。
 重厚なストリングスと、本作中最もシンプルな言葉との折衷が魅力を生んでいるこの曲には、天野が「青」いジャージ姿(オークションされた自前品)でゴミの上に放り出されたジャケット、それを意味するフレーズが挟まれている。つまり、この曲が存在することで、本作はジャケットを含めて一貫したものとして仕上げられているのだ。それはライヴ『メグに逢えたら』のアンコール曲として配置されていたことからも明白だろう。またこの曲は「人形」のアンサー・ソングであるという。
 本作のジャケットと歌詞を対比すると――「山積みのゴミの中落とした宝石」とは天野自身であり、もしくは、彼女の中核となる、真の姿。今まで虚飾的なもの(ゴミ)によってひた隠しにすることで保っていたもの(核)を晒け出す勇気を、彼女は得たのだ。仮面を脱ぎ棄てる宣言となった「人形」より至るこの曲が、その証拠となるまいか? 豪奢な装飾感が武器となっていた前作では、天野は至上的装飾のひとつと言える「十二単」を着込んでいたが、虚飾からの脱却が魅力となる本作では、シンプルなジャージに身を包んだうえにゴミの上に乗っている。それはアルバム全体の音作りや歌詞、または「人形」のクリップと対比すると、非常に面白い。ついでに、ジャージ姿の天野の靴下にも注目。“PLAYBOY”のウサギがプリントされている。演奏陣の愛称「プレイボーイズ」を意味するのは明白だろうし、それがこの大きさにとどまっているというのも、今作に於ける彼らの「一歩引いた」存在感を表すようだ。
 前作の実質的な最終曲には、自傷癖の示唆さえ感じさせる「首切り花」の異名を持つ「カメリア」の名が冠されていたのに対し、ここでは「際限なく枝を広げる」という前向きな「蔦(つた)」が表現される。「わたし」も「あなた」も含む「すべて」を繋いでいく、幾つも、枝分かれを繰り返しながら伸びる蔓(かずら)――今までの彼女には考えられなかったほどのポジティヴィティを感じさせる。
 なお、この曲は今回のレコーディングにて、最後に生み出された曲。物語のエンディングはあらかじめ設定されるよりも、その流れに合ったものが自発的に生まれる方が美しく、整合性も高い。
 そして「クレマチス」は、冬は枯れたように見えるが、確実に生きている。一見、枯れたように見える各所も切らない限り、再び花を咲かせる――まるで、今後の天野の行動を予言しているようではないか! そして花が枯れたように見えたその時、その枝を切るかどうかはリスナー次第でもある。
 とりあえず筆者は、水だけは遣ることにしよう。他の花に気を取られず、その「華」に対して自分の可能な力だけは、注ぎ続けられるように……。

 最後に私観ではあるが、天野が「音倉レコード」のグッズ出張販売の支店に選んだのが、椿咲きつつツタの絡まる「青山アパート」であったことに、筆者はこの楽曲などと相俟って強い感慨を覚えた。