イエス『フライ・フロム・ヒア』
〜あなたが好きなのは「イエス」なのか「イエスのイメージ」なのか?〜 (2011/07/01)

最初に、本作に文句を連ねるイエス・ファンのあなたに、このひとことを呈しておく。
「ジョン・アンダーソンが歌っていれば、評価はまったく違っていたのでしょう?」
そのひとことに、このアルバムの評価は二分される。
純粋に、ロック・ミュージック、または類型的プログレッシヴ・ロックとして聴けば、本作はそれなりに質が高い作品である。変拍子(気味)のリズムや、イエスお約束の展開(もはや手癖、ならぬバンド癖)も多く含み、曲としてはやや平坦ながら、全体の質は高い。
だというのに、やはり。
往年のファンの評価は、決して高くない。
なぜならそこに、ジョン・アンダーソンがいないからだ。そのひとことに尽きる。
私は本作を聴いて、即、「イエスによる、イエスのオマージュ作品だ」と感じた。
カヴァーでもない、トリビュートでもない、オマージュ。イエスみずからが、イエスを誉めたたえながら、誉めすぎない「影響の作品」。そこにイエスのメンバーが、多くいるのに他人のよう。
というのも、プロデュースが「イエスを追われたイエスのヴォーカリスト」トレヴァー・ホーンであり、その同僚のジェフ・ダウンズもスティーヴ・ハウと組んだエイジアから駆けつけ、そこへあたらしいヴォーカリストの起用というところで、すでに評価が分かれてしまうのだ。哀しいことに、サウンド面以前の問題として、イエスそのものの問題として。
なぜなら、アンダーソン不在のイエス・ヴォーカリストをつとめたホーンが「てめぇ真似してんじゃねえよ」と石を投げられたりのバッシングを食らい、ステージ恐怖症にまでなってしまった、イエス・ファンの性質みたいなものがある。純粋にあたらしいイエスのサウンドを楽しめばいいのに、従来のイメージにそぐわないとすぐに文句を言い出し、「俺たちのイエス」を大切にする。
だから本作は、間もなくファンが「イエスじゃない」と言い出すのが目に見えているのだ。かつての『ドラマ』のように。
その『ドラマ』も、音楽的には低いわけでもない、むしろ高いともいえる作品だった。従来のイエス像を大切にしながら、アンダーソンに似せたホーンのヴォーカルで、ポップとプログレの折衷をおこなった、質の高いアルバムだった。個人的にはものすごく高い評価をしている。
だというのに、世間からは抹殺された。ファンからは「黒歴史」の烙印を押された。
というのも、そこにジョン・アンダーソンがいなかったから。イエスの名義所有権はクリス・スクワイアにあるのに、それを認めつつも、アンダーソンこそがイエスであるという公式から、どうしたって脱け出せないから。
現に、本作もリリース直後の「世間の声」をひもといてみると、皆が皆、アンダーソンの比較に始終している。サウンド面ではわかりやすいぐらいに、一様にエイジアを引き合いに出している。主にサウンド面のことだけど、どうしても再結成エイジアでのダウンズとハウの会合が影響つよかったらしくて、そこにエイジアの新作もあったし、どうしたってくらべたくなるらしい。
たしかに新作エイジアは、プログレ「っぽく」作ることに終始していたから、そこに親近感を抱くのもわかる。しかしそこに、アンダーソンのヴォーカルが乗れば彼らは、しぶしぶ納得していたはずだ。それなのに文句を言うのは、ヴォーカルが無名の新人、それもイエスのコピー・バンドからスカウトされた、ベノワ・デイヴィドという人物であるからだ。
これがもし仮にジョン・ウェットンだったら「イエスがエイジアになった」と言われるだろう。仮にエイドリアン・ブリューだったら「イエスが偽クリムゾンになった」となるだろう。亡くなってしまったうえにあり得ないけど、シド・バレットだったら「こんなのイエスじゃない」に陥ったはずだ。
それ即ち、イメージのみの印象。あいだにある「現状を許容する」力は、まずない。そのイメージ、虚像を実像につむぐのは、イエスのコアなファン。
それぐらいに、イエスの像というものは、イエス・ファンの像でもある。彼らの意見を大切にするのが、イエスのならわしのようにさえなってしまっている。
だからこそ新ヴォーカルのデイヴィッドも、いきなり「アンダーソンに似ている」「いや言うほど似ていない」という観点から語られている。すでに「イエス=アンダーソン」の公式から脱け出せない、そこからのスタートであるのだ。そこに彼自身のヴォーカルは評価されていない。もともとコピー・バンド出身だからコピーが基本であって、オリジナリティは皆無なので、評価できないのは無理もないのだが。
否定派ファンの意見に「桑田の居ないサザン」という表現があったが、言いえて妙だ。たしかに桑田佳祐のいないサザンオールスターズは、世間的にはサザンオールスターズではないだろう。「TSUNAMI」が薄っぺらいヴォーカルでうたわれるのには、寒気が立つ。
しかしそれは、ヴォーカルばかりを重視して、サウンド面をまるで評価していないからだ。イエスでもってそのサウンドを評価すると、すぐに「プログレとしてはいいけど、イエスとしてはどうなのか」になる。
なんなの? 「イエスとしては」っていうのは。
それというのは、イエスが何をやっても「さすがイエスだ」「イエスらしい」「これでイエスなの?」「これはイエスじゃない」と、ファンがイエス観を左右してきたからだ。そこにまるで、バンドそのものやら人脈やら諸事情やら、といったことは関与しない。すべて「俺のイエス」が基準になってしまっている。昔から言われてきたことだが、そんなファンが、イエス・ファンのほとんどを占めてしまっている。
いや、わかるよ。その気持は。
でもね、ひとつ昔話をしましょう。
ピンク・フロイドがデヴィッド・ギルモア主導の3人体制になったときも、ファンは「フロイドだけどフロイドじゃない」と言いました。脱退したロジャー・ウォーターズは「よくできたニセモノ」と評しました。キング・クリムゾンなんかはヴォーカルが交代するたびに言われています。いまだにエイドリアン・ブリューを認めない偏屈70年代頑固親父も多くいます。ジェネシスもピーター・ガブリエル脱退後はかたくなに聴こうとしない人もいます。逆にフィル・コリンズ期しか聴かないポップ・ファンもいるのに。レイ・ウィルソンを評価する人はまるでいません。
みんながみんな、バンドの「黄金期の姿」を「あるべき雛型」として、勝手にデフォルトに設定してしまっています。その時点で評価がばっさり分かれてしまい、純粋に「作品自体」の評価をするのに時間がかかってしまっています。
でも彼らのファンは、ついていきました。その変化を最終的には、認めて。
しかしそれが、イエス・ファンにはまるでない。それがイエス・ファンの傲慢なところであり、むかしから、彼らを外から見ているプログレッシヴ・ロック・ファンに「同じプログレ好きなのに、あいつらはどこかおかしくないか」と囁かれていた。まるでアイドル・グループの追っかけのようだ、と。
だからこそ、『ドラマ』の純粋な評価も遅れに遅れまくった。いまだに拒否感を抱いて聴き直すことさえしないファンもいる。一応は所有しているのが、またアイドルの追っかけのようだ。リマスター盤が出るたび「『ドラマ』は聴きたくないけど、イエスなら揃えて買うしかないなぁ」という声もよく耳にする。
やはり、おかしくないか。
本作を聴く前に、まずは純粋な心持で『ドラマ』を聴き直したまえ。コアすぎるイエス・ファンは、プログレッシヴ・ロックの、音楽の純然たる評価を忘れ、イエスの「イメージ」に執着した評価しか、できなくなっている。
だからこそ、リセットしてみたまえ。
そんな作品に感じられたのも、事実だ。
それができてしまうのが、ヴォーカリストが同じ人物でないと最初から成り立たないサザンオールスターズと、イエスとの大きな違いだ。
ここでようやく、本編。作品自体の評価に入る。
本作は、イエスを離脱したアンダーソン(脱退というわけではなく、喘息を理由にバンド=スクワイアに参加を拒否されたらしい)の後釜として、イエスのコピー・バンドでヴォーカルをとっていたベノワ・デイヴィッドを迎えて制作された、『マグニフィケイション』より実に10年ぶりの作品となる。プロデューサーはかつて、同じようにイエスのヴォーカルに抜擢されたトレヴァー・ホーン。キーボードには、同時に引き抜かれた当時のメンバーにしてホーンのバグルスでの同僚、ジェフ・ダウンズが参加。
この時点で、おおよそのサウンドが予想できるといえば予想できるだろう。いい意味でも悪い意味でも、その通りだ。
アルバムの中心を成すのは、トレヴァー・ホーンとジェフ・ダウンズがバグルス時代からあたためていた楽曲「フライ・フロム・ヒア」を6部構成に拡大、クリス・スクワイア、スティーヴ・ハウ、アラン・ホワイトという「イエス」であらためて完成させた組曲。そこに純粋な新曲5曲が加わった11曲構成になる。
バグルス組ふたりは、以前『ドラマ』でも同じことをやっていた。「レンズの中へ」(イエス)と「アイ・アム・ア・カメラ」(バグルス)のことだ。しかし今回とは順序が逆で、当時はイエス楽曲をバグルス用にリ・アレンジしたのに対し、今回はバグルス楽曲(それもデモ段階の曲)をイエスに持ち込んだ。
当時もそれがファンから賛否両論を呼び、双方のヴァージョンを聴きくらべ、「こんなだからバグルス組はイエスを駄目にしたんだ」とさえ言われた。ニュー・ウェイヴという時代の感性を受け入れることができない拒否感を忘れ、楽曲の仕上がりのせいにして。
今回も、同じことが言えそうだ。もともと2部構成だった「フライ・フロム・ヒア」を、序章・終章もふくめて6部構成に拡大した時点で、コアなファンを「あんな曲をそんなにひろげても薄っぺらいだけじゃないか」という偏見に襲わせた。もとよりデモ段階で2部構成だっただけで、バグルスのセカンド『モダン・レコーディングの冒険』のボーナス収録曲であり、完成してはいない楽曲なのに。
だからこそ、今回「フライ・フロム・ヒア」は「完成」したのだ。イエスという名義でもって。
ソロでデモを作成した曲をバンドに持ち込む例は多くある。しかしそれを、バグルス組、とくにホーンがやってしまうと、どうしてもファンは拒否感が生まれるものらしい。ましてやイエス停止中、メンバーは多くのサブ活動をおこなっていたが、ハウとダウンズが再結成オリジナル・エイジアで活動していて、そこからダウンズがイエスに参加する運びとなったことも関与しているようだ。すでにファンからの「これ、イエスじゃなくてエイジアでしょ?」という意見がちらほら見られる。
思えば『ドラマ』でのダウンズも、イエスを、むしろリック・ウェイクマンを意識しながら自分のテイストを醸し出すというスタンスで健闘し、しかし「やっぱり違う」と批判されもした。今回も同じく、イエスを意識しながらも「イエスじゃない。エイジアだ」と言われてしまっているわけだ。瑣末のサウンドやテイストのみを判断材料として。
だが、『ドラマ』でも本作でも、ダウンズのキーボードは「エイジア」などではない。きちんと「イエス」になっている。サウンド面でのダウンズの特徴はむしろ、ジョン・ウェットンとのコラボレイト作品あたりでこそつよくわかるものだが、そういったテイストはエイジアでも加減をしており、イエスになった本作にはさらに、さほどつよくは感じられない。しかし感情的なまでに「エイジアじゃないか」と言われてしまっている。
たしかに、鍵盤の選色はエイジアっぽく感じられるかもしれない。しかしそれを言ったら、ハウのギターはどうなるのか。イエスでもエイジアでもソロでもゲストでも、ぜんぶ同じじゃないか。ハウなら許されるのに、ダウンズでは拒絶されるのか? どうしてもエイジアが基本となるダウンズに対し、ハウは基本がイエスだからいいのか? イエスのメンバーとして許しているのか? となるとまたしてもファン視点による判断なのか? そういう人はハウの代打となったトレヴァー・ラビンも功績は認めつつ嫌いだっただろう? リック・ウェイクマン以外の鍵盤奏者にもそうした態度をとってきただろう?
それ即ち、「イエスが抱かれるイメージ」に対する評価であって、「イエス」そのものを評価していないことになる。
そもそも、なにごとも肯定するぐらいのポジティヴさをあらわしたのが「イエス」というバンド名ではなかったのか。それがファンはこうした交代劇があると「ノー」と言い出す。
しつこくなったので閑話休題。本編に戻る。
たしかに作品としては、どの楽曲も抜群にいいわけではなく、平均点の曲を拡大して水準以上に仕上げた感がある。バンド・メンバーのみの力では、拡大はできるものの逆に分散して、ここまではまとまらなかっただろう。つまり、プロデュースの勝利。これがバンドだけのアレンジなら、間違いなく「もうイエスじゃないね」などと苦言を呈されたことだろう。
それをまとめたホーンは、以前にヴォーカル参加して苦い思いをしたことを、今回の新ヴォーカリスト、デイヴィッドには味わってほしくなかったのではないだろうか。そしてまた、そのさいのファンの反応など、イエスとして活動するための多くの教訓をもとにしてのプロデュース・ワークができたのではないだろうか。
だからこそ、ブックレットにはホーンを含めた6人が並んだショットが掲載されているのだ。それもヴォーカルのデイヴッドではなく、リーダーのスクワイアでもなく、ホーンが中心に立っての。
このようにメンバーにとってもホーンは特別な存在云々、などと再び面倒な話に持っていくわけではなく、それはサウンド面でも実質的にホーンが中心になっている、ということのあかしでもある。これは同じく、しがらみを棄ててプロデュースをつとめた『ロンリー・ハート』では、アンダーソンが自分と入れ替わって戻ったばかりで、肩身が狭くてとても実現できなかっただろう。売れっ子だったが、それができるほどの名プロデューサーとしての地位も貫禄も、まだ確立される寸前だった。
そういえば、名匠ブルース・フェアバーンの遺作となったのも、イエスの『ラダー』だった。イエス・ファンには評価が低い作品だが、作品としての全体的な質は高く、個人的には大いに評価している。イエスはプロデューサーというものを、セカンド『時間と言葉』のプロデュースをつとめたトニー・コルトンと、コ・プロデューサーのトニー・コックスでもって「面倒臭い存在」として認知してしまう。思い通りにできず、逆にプロデューサーの趣味にあわせた仕上がりになってしまう。そのため続くサード『イエス・アルバム』からはセルフ・プロデュースをメインにおこなってきた。
だがもし、本作がセルフ・プロデュースであったら、どれほどに「薄い」作品になってしまったことか。それもトレヴァー・ホーンという「一度は主要メンバーになったのに歴史から抹殺されるレヴェルでファンから嫌われたものの音楽的なアプローチは充実した人物」のプロデュースだからこそ。それを考えると、ホーン抜きで正規メンバーになっているダウンズは、もっともっと肩身が狭いことだろう。
しかし楽曲的に、とくにメインである表題組曲「フライ・フロム・ヒア」は、イエス・ミュージック、とくに長編曲の特徴であった「交差〜拡散〜収束」といった展開が少ない。とくに「収束」に欠け、最後にインスト置けばいいでしょ、という投げやりにも見えてしまう。アンダーソンのテイストだった「牧歌的あるいは古楽的アプローチ」も無論なく、新ヴォーカルだからなのか? スクワイアのコーラスやベースでのハーモニーも少ない(おそらくライヴでは発揮されているのだろうけど)。だからこそ、ごくごく平凡かつ平坦な楽曲に思われてしまう。決して出来は悪くないのだが、たしかに「イエスとして」この曲を聴くと、ファンさながらに「イエスっぽくない」と思ってしまう。
かつて『リレイヤー』でパトリック・モラーツがジャズ的なアプローチでのキーボードをイエスに導入して、クラシカル雰囲気アプローチ大好きファンをヤキモキさせたものだが、すぐにウェイクマンが復帰してしまったので、やはりイエスのキーボードはクラシカルで透明な音色、に落ち着いてしまった。だからこそ本作でも、ダウンズがそれを心がけつつどうしてもニュー・ウェイヴ的になってしまう、そんな自分も隠しつつも晒しているのだが、表面だけなぞれば「真似」としてきこえてしまうだろう。
そしてニュー・ウェイヴ全般には、激しい「拡散と収束」が少ない。だからこそ本作、その中核曲である長編曲「フライ・フロム・ヒア」は、平坦でただ長いだけの印象がぬぐえない。それを印象づけているのは、まぎれもなくダウンズの鍵盤とホーンのプロデュースだ。
しかしそれは、実は意識しておこなっているようにさえ思える。それが今回の作風であり、をれを受け入れられる器があるかどうかが、イエス・ファンにためされているのではないか。
今作でのいちばんの苦労人は、実はライト・アップされるだろうホーンではなく、ダウンズであるとも思うのだ。プロデュース・ワークのみ(実はコーラス参加もしているが)のホーンに対して、正規メンバーになってしまったダウンズが、ファンから集中的に非難を浴びるのが、目に見えている。というより、実際にネット上ではそんな声が多い。ましてやダウンズの演奏能力・スタイルについては罵倒に等しいまでの感情的な意見(「感情的に嫌いだ」というのを、無理矢理「理論立てっぽくして」強引に説得力を持たせようというもの)が多く、それこそが彼の「個性」であると、なぜ許容できんのかが不思議なぐらい、ヒステリックな反応だ。それを受け入れ、許容して、あたらしい音を目指したのが「いまのイエス自身」であるのだと、まず認めなくてはいけないんじゃないか。
それに、だ。過剰な「イエス像」を期待せずに聴けば、実際そんなに悪いわけでもなく、むしろたゆたうようにぼんやりと、音の世界に身をゆだねることができる作品になってはいまいか。
激しいリズム展開、広大な世界観、そんな「過剰」こそがイエスではない。
「楽園に流れる夢の音楽」
それこそがイエスの本質ではないか、とあらためて思うのだ。
だからこそスクワイアのリード・ヴォーカル「ザ・マン・ユー・オールウェイズ・ウォンテッド・ミー・トゥ・ビー」で始まるアルバム後半の小曲が、中核曲よりずっと個性的で、最後は一時的にメンバーだったオリヴァー・ウェイクマン(リック・ウェイクマンの息子)も作曲参加した「イントゥ・ザ・ストーム」でシメられるのが、心地いい。それら1曲1曲を味わっていくのが、前半の組曲でもってじわじわと広がっていった夢の世界に、舞い降りた具体的なよろこびを見出すようで。
さて。
本作と『ドラマ』の共通性を何度か言及している私であるが、過去に『ドラマ』について記したレヴュー記事がネット上に残っていた。
そこから、本作にも通ずる、主だった文章を抜粋すると……
「方向性の転換は、一貫して行われれば、やがて実を結ぶものなのだ。ではイエスの方向転換も、そう、本作(ドラマ)も再評価されているのか?……これは難しい問題である。一方では、感情に踊らされず音を楽しめる人間がいるのも事実だが、やはり感情ゆえに切り捨ててしまう人間も多いままだ。そして現在でも、本作に於いては後者が大多数であるのも事実だ」
「一介のファンであったトレヴァーとジェフだからこそ『ファンの思い描くイエス像』を読み取り、イエス・テイストを抽出、凝固、及び具現化できたのではないだろうか。実際に、全曲に亘って『イエスらしい』と言いたくなるような雰囲気や音色が散りばめられている。メンバーこそ違えども」
「そこにあるのは、この時期のイエス・メンバーが繰り広げるイエス・ワールド。それは異郷にも見えて、実は最もイエスの求めた理想郷のひとつ。ただその場所で理想郷を築き上げたのがジョンとリックではなく、ジェフとトレヴァーであったということ。それだけのこと」
うむむ、今作についてもまったく同じことが言えているではないか。
哀しいことに、このレヴューにはすでに、今作にも使える結びのことばが、そのまま使われていた。
「(ファンがイエスのイメージを作っている、という文章から)だからこそイエスは、トレヴァーとジェフは、バンド・イメージの模倣という手段を方向転換に選んだのだ。ファンの声に応えるべく、夢を崩さないよう、繊細なガラスの城を作り上げて見せたのだ。そうしてできあがった本作は、どうだろう? イエス・イメージを踏襲してはいまいか?」
「回答は、未だに大半の人間にとってはノーである。理由は、何度でも言うが、そこにはジョン・アンダーソンがいないから」
「どんなに巧く模倣してみせても、ファンは本人でないと納得しない。感情が先走り、音をきちんと聴こうとさえしない。こうしてトレヴァー、ジェフ両名の健闘はむなしく、感情でもって聞き捨てられてしまった」
今回も、哀しいかな、これと同じことばを結びに持ってくるほか、なくなってしまった。
というのも、ネット上の「古参ファン」が過剰なまでに、そういった拒絶反応を見せているからだ。
そういう聴きかたをすると、間違いなく損をする。たくさんの音楽を、偏見と思いこみのみで聴く前から拒否してしまうことになる。というより、そうしたことを不断にやってきてしまったファンが根づよいのが、イエスであるのだ。
だから本作は、イエスが投げかけた、
「本当にイエスが好きなのかい?」
「イエスのイメージが好きなのかい?」
「それとも、音楽そのものを本当に好きなのかい?」
という問いかけに、きこえた。
そこにアンダーソン不在を持ち出さず、純粋に「プログレッシヴ・ロック音楽の、イエスの、最新作」としてだけ、聴いてみるといい。逆にこれが、アンダーソンがいたら日の目を見ることもなかった作品だ、と思えばいい。なんせホーンとダウンズが作曲面で『ドラマ』以上に大々的に関わっているのだから。
すべては、可能性の問題。「レバとタラは食うだけにしておけ」ということばのとおり、これが現在の結晶、それを認めることからすべては始まるのだ。
イエスの音楽性は本来かくあるべき云々、といった、面白いまでの感情論は、見て見ぬふりでもして笑い飛ばしておこうじゃないの。
けっきょくは、聴いていて気持いいかどうか。
音楽なんてそんなもんだ。
これからもイエスは、アンダーソン抜きでも気持いい音楽をつくっていくだろう。本作はそれを味わえるかどうか、の可能性を濾す、イエスとイエス・ファンの未来へのザルだ。
なお、蛇足となるが、日本盤には「アワー・オ『ヴ』・ニード」(「オブ」が「オヴ」表記なのはここらへんのレーベルではあいかわらずのこと)のフル・ヴァージョンがボーナス収録されている。おそらくは海外でシングルか配信音源などの、いわゆる「シングル・ヴァージョン」として用いられたものなのだろうけど、なぜにエディットされたものをアルバム収録してしまったのか。海外盤を買った方には、それはちょっとした不満になるのではないか。シングル・リリースにあわせてエディットするのが「いわゆるシングル曲」の常套手段だと思っていたのだけれども……まさか、80年代の「12インチ・ヴァージョン」みたいなとらえかたをしろ、とでも言うのか。バグルス組が入った本作にあわせて考えると、らしいっちゃらしいけど。
また、初回盤には18分ほどのドキュメンタリーDVDが付随。とくに面白味はない映像だが、あわせて見れば本作にいくばくかの愛情が湧くかもしれない。そのうえロジャー・ディーンによるジャケット・ポスターも封入。さらにはライナーノーツには楽曲に関することはあまり書かれていないが、『マグニフィケイション』から本作までのイエスの動きがまとめられているので、イエスの歩みを見るうえでは、かなり参考になる。
| FLY FROM HERE | フライ・フロム・ヒア | |
| <CD> | ||
| 1. | Fly From Here - Overture | フライ・フロム・ヒア〜オーヴァーチュア |
| 2. | Fly From Here Pt I - We Can Fly | フライ・フロム・ヒア パート I〜ウィー・キャン・フライ |
| 3. | Fly From Here Pt II - Sad Night At The Screens | フライ・フロム・ヒア パート II〜サッド・ナイト・アット・ジ・エアフィールド |
| 4. | Fly From Here Pt III - Madman At The Screens | フライ・フロム・ヒア パート III〜マッドマン・アット・ザ・スクリーンズ |
| 5. | Fly From Here Pt IV - Bumpie Ride | フライ・フロム・ヒア パート IV〜バンピー・ライド |
| 6. | Fly From Here Pt V - We Can Fly Reprise | フライ・フロム・ヒア パート V〜ウィー・キャン・フライ・リプリーズ |
| 7. | The Man You Always Wanted Me To Be | ザ・マン・ユー・オールウェイズ・ウォンテッド・ミー・トゥ・ビー |
| 8. | Life On A Film Set | ライフ・オン・ア・フィルム・セット |
| 9. | Hour Of Need | アワー・オヴ・ニード |
| 10. | Solitaire | ソリティアー |
| 11. | Into The Storm | イントゥ・ザ・ストーム |
| <Bonus Track> | ||
| 12. | Hour Of Need (full length version) | |
| <DVD> | ||
| The Making Of FLY FROM HERE Documentary | アワー・オヴ・ニード(フルレンス・ヴァージョン) | |
(MIZP-30001)