SION
『鏡雨〜kagamiame〜』
〜「表現者」ではなく「唄人」として〜 (2009/07/15)

SION、22作目(前作は宅録なので除外)のスタジオ作となる本作は、あいかわらず酒に合うSIONらしさに満ちた作品で、安心してグラスを傾けながら聴くことができる。
主にTHE MOGAMI(松田文、池畑潤二、井上富雄、細海魚、藤井一彦)と、The
Cat Scratch Combo(藤井一彦、清水義将、相澤大樹。通称「猫ひっかき楽団」)というメンツで録音されているのだが、統一感がある。それはSIONの信念が本作にも貫かれているからだ。それは「現実的でちょこっとシニカルで、実は遊び心もある歌心」というSIONファンなら説明するまでもなく解っているだろう基本指針。
「いつものようにドカッと、そして繊細に。楽しいレコーディングでした。ぐっとくるレコーディングでした」とはSIONの弁。その言葉通り「いつものように」という感が、いい意味でも悪い意味でも強い。即ち、いい意味では「いつものSION節だぁ」と楽しめるのだが、欲を言えば、「もうちょっと変化球があってもいいんじゃないかね」とも思えてしまう。
しかし、そんな贅沢は言ってはいけない。SIONは「アーティスト」を標榜していない。高が歌ごときで芸術を語れるなどと奢ってはいないのだ。だから本作は、SIONファンならではのとらえ方、「唄人SION」として聴くといい。逆説的に言えばSIONにアーティスティックな姿勢は見られないということになるが、それゆえに自覚的な普遍性をそなえたナンバーを歌うことができるのではないか? 「ウチ、アーティストやでぇ〜」などと平気な顔で言ってしまうAvex系のような、「歌、即ち芸術」というとんでもねえ勘違いを、SIONはしていない。それは「新宿の歌うたい」であった彼だからこそ、解っているのだ。ある作品にはCCCDというものを許容せざるを得ず、苦しい思いをしたもののインディー回帰して表現の自由を選んだ、彼ならではの方向性なのだ。
SIONの目指す歌は、芸術ではない。メッセージだ。
だからこそ冒頭の表題曲「鏡雨」での「人はひとつだと みんな同じだと バカ言ってんじゃねえ みんな違うから殺し合ってんだろ」という詞は、単純な平等主義を望まない(あるいは現実的に認めない)SIONの強い姿勢が前面に出ているのが解る。イントロでグイッとつかんでくるのは、THE
MOGAMI結成以降のSION作品に強く見られる傾向だ。「サビが『住人』と似てる」とか無粋なこと言っちゃいけない(言ってるか)。歌声までいつもと少し変えて、強くしっかりとしたものに変えたSIONの姿勢が垣間見られる。
強靭なギター・リフで始まる「おまえの空まで曇らせてたまるか」は、本作が「雨」のアルバムであることを受けた歌詞が際立つ。タイトルのように、暗い姿勢にさせてやるものか、という意思が伝わる歌詞だ。2曲目にはふさわしい繋ぎ曲と言える。
「お前がいなけりゃ 何もないのと同じさ」と切々に訴える「お前がいなけりゃ」は、純粋にラヴ・バラードとして楽しめる。基本キーボードのみというシンプルなサウンドは、歌詞を味わってほしいという意思の裏返しだ。それだけに、この曲の歌詞は味わい深く、純粋さに満ちている。大切に想う誰かがいる人には、心底響く曲だろう。
一転してバンド・サウンドになる「放つ」は、「消されてたまるか」という「意思」が最も強くあらわれた曲。自分が自分を苦しめているという歌詞は、それこそ自己愛的に解釈できる。「俺」を作るのは「俺」であり、かつ、消すことができるのも「俺」であるのだ。そのうえで「俺を捨てて 心を放つ」という歌詞を、重く味わうといい。自己愛を棄てて、自らの真意を見出すという、自己愛に生きる男が自己愛を消してまで自己を求めるという深い歌詞なのだ。
「うつろ」や「幻」に「鬼」を喩えた「鬼は外」はソリッドであり、ヘヴィなナンバー。「くだらん事が多すぎる」と言いながら、その実「くだらん俺が多すぎる」と、再び問題は自己にありと見出している。本作のSIONは曲こそいつも通りだが、歌詞はひそかに内向的であるようだ。そのうえで「誰にも慰められたくないくせに お前に慰めてほしい」という歌詞は、実は純愛主義者のSIONならではの歌詞だ。
軽快な「雨に混ざらず」は、SIONのユーモアが活きた歌詞に、調子のいい演奏が小気味よい。それでも雨のゆくえを思い、「おまえ」を想っている「俺」の純朴な気持が見られる。「俺はまだ 雨に混ざらんぜ」とは、「烏合の衆にはならないぜ」という意思表示にきこえる。純粋に明るい気分になれる曲だ。
「karan」は宅録曲のスタジオ版。アコースティック・ギターとピアノの演奏に再アレンジされた曲は、原型を残しておきながら力強さが増している。時期的に、歌詞が他界したばかりの忌野清志郎へのオマージュのように感じられてしまった。実際は彼が亡くなるより以前に書かれたものなのに。こうした「偶然のフィット感」を醸し出すのはSIONの「遊び」があるからだ。
アコーディオンが大フィーチュアされ、バンド・サウンドにリメイクされた「Slide」も、もとは宅録曲。正直、原曲では余り強い印象のなかった曲だったが、きちんと作られてすごく感じられるものになった。「生まれた街での暮らしより此処で暮らした時間がいつの間にかずっと長くなって あの時のあなたの歳になった」という歌詞世界が沁みる。「慣れ親しんだ世界」を語ったアルバムの珠玉となる曲だ。
激しいドラミングで始まる「Teardrop」は、ブギー・スタイルで「ピエロ」を歌う。それは「何をしたってひとり芝居のピエロさ」という皮肉にもきこえるが、実際には「どんなヘマをしてもピエロだから許される」というものであり、そのうえで「あなた」への想いを貫いている。それは「演じる側」の悲痛をうたっているようにも思える。「哀しいピエロ」とは、「演じることがあたりまえのピエロ」に与えられた最大の訓辞だ。
安心してゆったりとしたMOGAMIサウンドに浸れるのは、「今日の全部を」だ。SIONのチャーミングな歌詞が可笑しい。しかし真摯な姿勢に涙が出そうになるのも事実。「初めから終わりまで悪いのはこの俺で お前の優しさに甘え過ぎた ごめんな」という歌声に、純朴に感動できる。
ラストは、宅録アルバムでもラストを飾っていた「磨りガラス越しのオレンジ」。MOGAMIでのバンド・アレンジなのでアクティヴに、しかし原曲の素朴さを殺さない、いい仕上がりになっている。「ささくれた昨日が生きててよかったな」というのは、人間が「過去の積み重ね」であることを自覚した歌詞だ。それでいて「何もなかったように今日は動き出」すのだ。そのうえで「どんな世界の名だたる朝日より お前といるこの磨りガラス越しの朝が好きだ」という、日常に生きるいち人間である自覚をあらわしている(それを「個人主義」だとなじるのは全体主義的な君の生活を鑑みてからにしようではないか)。ここに、「アーティスト」ではなく「唄人」であることがくっきりと姿勢にあらわされているのだ。
そうしてアルバムは、ゆるやかに終わっていく。
SIONの「いつもの」アルバムは、「いつものだからこそ味わえる」いい感じを与えてくれる。「偉大なるマンネリズム」とはよく言ったものだ。「いつものSION」が許容できる温和な人には、大いに受け入れられるだろう。メッセージはやや内向的になっているきらいがあるが、それだけに、味わい深いものになっている。サウンド的には正直言って延長上の産物でしかないが、それはSIONの「唄人」としてのスタイルが変わらない限り、通底したものだから、変わらない。「芸術家」の作品を聴きたい人にはお薦めできないが、「日常にひそむカオス」を追求する素直な人種にはぜひとも聴いてほしい、派手ではない、寧ろ素朴な作品だ。
それは「SIONならでは」の独特の味わいが活きているから、そうなるのだ。
「芸術家」ではなく「唄人」として、の素朴であり実直なSIONが、ここに立っている。
| 鏡雨〜kagamiame〜 | |
| 1. | 鏡雨 |
| 2. | お前の空まで曇らせてたまるか |
| 3. | お前がいなけりゃ |
| 4. | 放つ |
| 5. | 鬼は外 |
| 6. | 雨に混ざらず |
| 7. | karan |
| 8. | Slide |
| 9. | Teardrop |
| 10. | 今日の全部を |
| 11. | 磨りガラス越しのオレンジ |
(UGCA-1023)