村八分
『UNDERGROUND TAPES』3作

〜「伝説」なんて誰が言った?〜 (2003/2/1)

 世の常ではあるが、世間にはびこる音楽の表面的な部分をある程度味わってしまえば、あとは予想や応用で賄えるぐらいの「スキル」が身に付く。その「スキル」とは喩えば、1回しか聞いていないのにカラオケで歌えるとか、そうでなくとも雑誌やライナーなどに群れる単語や情報から音楽性を推測して、聞いてもいないアルバムのレヴューを捏造する、といったものだ。
 ところが「アンダーグラウンド」と言われるもの(「マイナー」ではない)には、それは通用しないことが多い。最も解りやすいのが、まさにその名を冠したヴェルヴェット・アンダーグラウンドだろう。内容よりジャケットが有名なファースト『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』だけ聴けばグループ自体が語れるかと思えば、アルバムごとに姿を変えるのでそうはいかない。かといって、スタジオ作をすべて聴いても、まるでスタジオと違うライヴの荒々しい即興演奏は知ることができない。
 村八分も、その一種である。何をか言わんや、スタジオ作と呼べるものが『草臥れて』のたった1作で、それとてデモ段階の音源を無許可で仕上げたものだったし、リリースされた頃にはバンドが存在していなかった。またライヴ盤もバンド存在中はたった1枚『村八分ライブ』のみで、他の作品はどれもこれも近年にリリースされたもの。しかもライヴでの楽曲はすべてアレンジが異なり、歌詞さえ落ち気味で、一般的な「ライヴ演奏」という概念ではとらえられない。スタジオ・アルバムさえ聴けばライナーだって書ける、というミュージシャンの多い中、彼らにはそれが通用しない。だからこそ、私は村八分を、ヴォーカリストであるチャー坊こと柴田和志を、好むのだ。
 そうしたことを知ってか知らずか、最近、世間では村八分の評価が高まっている。それも私のような若輩者にまで。
 別にそれは悪いことじゃない。私とて『ロック画報』での「最も危険なロック」という特集で、頭脳警察と並んで研究されていたのを見てから熱中した質だ。だからこそ私にとっての村八分の原風景は『村八分ライブ』ではなく、『三田祭』に収録された「くたびれて」である。なぜならそれを収録したCDが、同雑誌に付録として付属しており、それが私の「はじめての村八分」となったからだ。
 けれどね、高まる人気が、単なる「マイナー嗜好」のような気がしてならない。みんな知っているものよりも、知らないものを知っている方が恰好いいんじゃない? というもののように感じられる。そこにある音楽への思い入れは、まず存在しない。そして昨今の評価の高まりと共に、何ということはない出来の楽曲も崇高に繕われているように見えて仕方ないのだ。
 などと文句を並べつつも、発掘・再発専門を謳う「ハガクレ・レコード」の登場によって世に出された3作には、私は狂喜して飛び付いた。そして「世間の捏造された評価で買った野郎ども、ざまあみろ」という気持ちで満ちている。音質は良いとは言えないし、収録時間も短いし、演奏だってプロフェッショナルなものと比べると酷いものだ。「伝説」を捏造することを好む連中は、偽物をつかまされたような気分だろう。ざまあみろ。
 しかし、ここに収録された演奏は、「村八分の伝説」を崇拝する者ではなく「村八分自体」を好む者にとっては素晴らしいものだった。だからこそ、今回こうして筆を下ろしている。騙されたと思った連中、高いうちにさっさと売っちまえ。これは好きな奴だけが聴けばいいんだ。「究極のアマチュアリズム」の味が解らないカラオケ野郎、とっとと失せちまえ。
 という乱雑な文章で始めるというのも、村八分のレヴューらしくないかい? そうでもない? じゃあ読まなくてよろしい。さようなら。


 さて、『UNDERGROUND TAPES』という共通タイトルのもと同時発売となった3作は、メンバーが最も安定していた黄金期が2作と、最初の再結成(90年にチャー坊と松田幹夫を中心としてもう一度再結成されるので「最初の再結成」)となるライヴが1作。どれもこれも、前述のように時間・状態・演奏からして値段に釣り合わないものばかりだ。おっと、これは文句じゃない。録音環境が良好でないのは村八分の常だし、チャー坊が踊りまくって歌を飛ばすのも常。こうして音源が残っているだけでも幸運な方だ。それに価値があると思う者だけ買えばいい。村八分の音楽をいっさい未聴なのであれば72年の絶頂期を収めた『三田祭』と、現在はボーナス・トラック収録で紙ジャケCD化されている解散寸前の『ライブ + 1』を聴いた方がいい。じゃないと騙された気分になるだろう。本作はハマってから買った方が(聴いた方が)いい。なお、これは決して商売妨害目的ではなく、村八分に興味のある読者への提言に過ぎないことをご了承頂きたい。

 まずは1972年の「KBS京都スタジオ・ライブ」から始めよう。
 これはメンバーが黄金期の5人(柴田和志:VO、山口富士夫:G、浅田哲:G、加藤義明:B、村瀬シゲト:DS)になってから間もなくの録音で、3作中最も音の状態は良好。しかし一般的なスタジオ盤の尺度で聴いてはいけない状態だし、セッション状態なので収録曲は6トラック中の5トラックがテイク違い、曲数だけで言えば、たった3曲のみの演奏だ。テイクは違えども劇的な違いはなく、本当に「ヴァージョン違いではなくテイク違い」といったものと言える。この時点で「伝説好き」は引くか圧倒されるだろう。
 録音環境に(少しは)恵まれた、スタジオということもあって、フジオとテツのギターの絡みが3作中最も味わえる。ギタリストだった筈のヨッチャンはベースでも堅実なプレイだし、シゲトもドラムを始めたばかりとは思えない。チャー坊はと言えば、スタジオでもやっぱり歌詞を落とし気味だ。歌詞も既発音源とはまったく異なり、特に「鼻からちょうちん」はヴァース部分がなく、ブリッジとコーラスのみで構成されている。「ぐにゃぐにゃ」では「ケイコ(?)」という名前がしきりに叫ばれる。「のうみそ半分」もタイトルを連呼するばかりで、まだ歌詞ができあがっていない時点のもの(その後も『チャー坊遺稿集』が出るまで全尺の歌詞は判然としないままなのだが)。あとはきっと、スタジオでも変わらず踊り続けていたのだろう。
 そんなチャー坊を「ヴォーカリスト」としてだけ考えると、本作は即失格となりそうなものだ。しかし「柴田和志」という人間のドキュメントとして見詰めると、このうえなく貴重で、価値ある音源でもある。3作中最も未熟で、それゆえの魅力が聴ける。

 次に1973年の「京都大学西部講堂」でのライヴ。
 流動的だったメンバーがようやく固定化され、場所も村八分の活動基点ということもあってか、演奏はなかなか安定している。喩えば前述のスタジオ・ライヴにテイク違いばかりが収録されていた2曲。スタジオでは殆ど歌っていなかった「のうみそ半分」もだいぶ声をあげているし(呻き声ばかりだけど)、「ぐにゃぐにゃ」は歌詞が落ちまくってはいるものの、曲はほぼ完成に向かい、最も知られる演奏にかなり近くなっている。「夢うつつ」「くたびれて」「にげろ」といった既発曲も、『三田祭』と『村八分ライブ』の間にある過程として見ると興味深いものだ。特に「にげろ」のギター・ソロなど今までの演奏より数段、素晴らしい。また、全編でシゲトのドラマーとしての成長も実感できる。
 しかしこの作品での最大の目玉は、未発表のままだった「天まで昇れ」と「むらさき」の2曲。前者「天まで昇れ」は琴に喩えられることのあるギター・アルペジオから始まり、熱狂的なジャム状態を挟んで、またアルペジオで終わる。村八分にしては珍しいぐらいその開始と終了が美しく、そのため中間部の荒々しさも際立つ。チャー坊は「天まで……」と叫ぶばかりで、彼の詩集『チャー坊遺稿集』にも歌詞が載っていないので、もとよりインスト主体の曲だったのかも知れない。一方の後者、「むらさき」は詩集では「紫」として掲載されているものの、そこにある歌詞はまるで歌われていない。「恋しや……愛して……」というチャー坊の言葉が続くので、恐らくは今まで「恋しや」と呼ばれていたものだと思われる。それどころか「カズー」とも叫ばれるので、まさか「さよならカズー」の原点か? などと思うもののそれは『チャー坊遺稿集』収録のデモ音源と比較すると余りにも違う。楽曲自体は彼ら(というよりフジオ)の武器のひとつでもあった「和」の旋律を多用したもの。そのフレーズが魅力的で、秘蔵にしておいたのがもったいない曲だ。
 3作中、最も「村八分の一般的イメージ」に近いのは、フジオとテツのギターの絡みも存分に楽しめる本作だろう。また、未発表2曲の価値も高い。

 そして1979年、最初の再結成直後の「京都大学西部講堂」でのライヴ。
 メンバーは大きく変わり「柴田和志:VO、山口富士夫:G、松田幹夫:G、浅田哲:B、榊原敬吉:DS、隣雅夫:KEY」となっているのにまず驚かされる。テツがギターからベースになっているし、キーボード奏者までいる! しかも内容さえも(今までの村八分という尺度からは)比較にならないほど「キャッチー」なものになっている。チャー坊は今までになくきちんと歌っているし、アマチュアゆえの強さだけでは生き抜けない世界で過ごしてきた者を含んでいる(それに対して永遠のアマチュアリズム体現者、チャー坊がフロントであるのが面白い)からか、演奏が(村八分としては)奇妙なぐらいまとまっている。
 この作品は、そうした「やっと安定した演奏」が多いので聴きどころも比例して多いのだが、中でも以前から曲はできつつあったのに公表されていなかった「RED LETTER」と、初期にライヴ演奏されたのみだった「裸の街」収録が魅力だろう。前者「RED LETTER」はオープニングに配置されていることからも解るように、ノリの良い、カッチリとしたブルース・ロック。村八分のそれまでの作品を愛好している者にとっては、演奏開始直後から「これが村八分?」と耳を疑う筈だ。歌詞は赤軍兵士に向けた日本語詞だった筈だが、ここでは殆どが英語によって、まったく異なるものが歌われている(ききとり不可)。後者「裸の街」は、バラード・タイプの曲調に「浮世と自身の孤独を少ない言葉で現した(『チャー坊遺稿集』より)」歌詞が絡み、彼の歩みを考えると感慨深い虚しさで一杯になる。
 他の曲も演奏は素晴らしく、アレンジなども今までになくまとまって楽しめる。よもや「どうしようかな」にコーラスが入るなんて想像できたことか! フジオの荒々しいヴォーカルによるカヴァー「Money」も収録されている(ブルース・ハープを演奏しているのは、ひょっとしてチャー坊?)。過去の演奏と比較すると最も成長度が聴き知れるのは「水たまり」だし、最後は「くたびれて」というのも、実に「らしくて」素晴らしい。
 演奏のレヴェルで言えば、3作中最も高いだろう。ブルース・ハープやキーボード、コーラスなど、既発盤では多くは味わえない要素も多い。


……というわけでこの3作は、村八分を「伝説として」ではなく「村八分として」聴くことができるリスナーには、楽しめること間違いなし。逆に「伝説とか言われてるから聴いてみようか」という気持ちでは聴くべきではない。なぜなら、そこにあるのは伝説でも何でもなく、純粋に自由を求めた青年の葛藤であるからだ。
 ただ、こうした「演奏よりドキュメント性が強い」作品特有の不満がないわけじゃない。それは音質とか演奏のクオリティなんてものではなく、収録曲とその具合についてだ。
 1972年のスタジオ・ライヴについてはおよそ知らなかったのだが、瑣末な資料を見てみたところ、2作のライヴではこれ以外にも演奏していた曲があった筈だ。またどれも、曲間がすべてバッサリ切られていて、時には曲中でさえ編集の跡がやたらと目立つ。『三田祭』と『村八分ライブ』では存分に味わえた、チャー坊の味と毒のあるMCも聞くことができない。それらのために収録時間が短いのに価格が高いというのは、村八分愛好者としてはともかく、消費者としての納得は確かにいきかねる。
 でも、別にいいかな、とも思う。
 これほど「楽しめる人だけ買えばいい」という作品は久し振りだからだ。購入目的が「義務感」や「資料目的」となるCDが多い中にあって、これだけ「聴きたい奴だけ聴けや」という潔い作品は、今や皆無だろう。商業主義の手垢の味が、この「録音」にはまったくしない。究極のアマチュアリズム、ここにあり。そのため私は、この3作を好きなだけ聴くべく愛好している。
 偶像化なんてまっぴらだ。伝説とか言われている「ごみ箱のふた」を早くあけられ。そして「らりるれ」だったチャー坊の実像を見詰めて、ただ「さよならカズー」と言えればいい。
 こんなヒネくれたレヴューを読んでも愛好したい方は、まず現状で聴けるだけの作品を聴いてほしい。そのうえで楽しめ、この3作を購入できたらば、ぜひとも、間違いなく必携の『チャー坊遺稿集』も併せてお楽しみ頂きたい。未発表スタジオ・デモ音源CDが付録になっており、「柴田和志」という「いち人間」への憧憬が深まる。そうして「彼こそが村八分」であり、「自ら村八分となった」人間だと解る筈だから。
 あとは、今後もこうした発掘音源がリリースされることを待つのみ! もはやここまで来れば、音質なんて関係ない。伝説なんかくそくらえ! 人間が叫ぶ人間の詩を、伝説という偶像のごみ箱に捨てたままにしないでほしい。
 ただそれだけだ。
 さあ、にげろ!


UNDERGROUND TAPES
「1972 KBS京都スタジオ・ライブ」 「1973 京都大学西部講堂」 「1979 京都大学西部講堂」
1. ぐにゃぐにゃ(Take 1) 1. 夢うつつ 1. RED LETTER
2. のうみそ半分(Take 1) 2. のうみそ半分 2. どうしようかな
3. ぐにゃぐにゃ(Take 2) 3. ぐにゃぐにゃ 3. 裸の街
4. ぐにゃぐにゃ(Take 3) 4. くたびれて 4. Money
5. のうみそ半分(Take 2) 5. 天まで昇れ 5. 水たまり
6. 鼻からちょうちん 6. にげろ 6. くたびれて
7. むらさき

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