報道などでご存知の方も多いかと思いますが、槍ヶ岳山荘で3シーズン、岳沢小屋で3シーズン、冬の間のボッカ兼週末アルバイトとして赤岳鉱泉で6シーズン働いていた野田賢(まさる)が3月27日 午前9:30頃に北アルプス鹿島槍ケ岳の北壁登攀後の下山中に滑落して亡くなりました。(写真は亡くなる直前、鹿島槍の幕営地からFacebookに投稿されていた写真です)

なお、ご家族の意向により、
葬儀は家族だけの密葬として静かに送りたいということです。



昨夜この重い事実に詳しいことを書けない・書かないと思っていましたが、一晩が経ち、思い出せば思い出すほど涙が溢れてくる中で、詳細・特に事故の詳細を知る者として、また野田がどういう最後だったかを知りたいという仲間がたくさんいる中で、やっぱり知らせてあげなきゃいけないかと思い、続きを記します。


事故の詳細は後半に記すとして、
まずは野田の人となり、特に岳沢小屋でのことについて記します。


野田が槍ヶ岳山荘で勤め始めたのが2008年、当時私は南岳小屋の担当で、5月6月の特別営業時に野田に手伝いに来てもらったりしていました。(写真のメインが槍であり、雷鳥であるので、こんな写真ですみません) 私のパソコンにはこれくらいしか彼の画像が入っていませんでした。

当時からそれなりに山は登っていましたが、5月や6月の休暇に西鎌や東鎌尾根に行きたいと言われましたが、「それは危ないからダメだよ」と槍ヶ岳山荘の支配人・杉山や井形と却下した覚えがあります。


3年の槍勤務後、2011年から岳沢小屋の担当となりました。
当時はすでに破天荒な性格が炸裂するキャラクターで、クライミングを始めていたり、正直言って厄介なヤツを引き受けてしまったというのが私の印象です。

ちなみに冬の勤務先であった赤岳鉱泉の柳澤太貴君に言わせれば、「あんな熱い男はいない、僕の憧れの山屋でした」と受け取る印象は違うものです(笑)

赤岳鉱泉で築いたガイド関係者の方々によれば明るい性格で人懐っこく、熱い男で評判はすこぶる良かったようです。彼を訪ねて岳沢に来てくれる方も非常に大勢いました。



山に対する情熱は年々加速し、好き放題に休みを申請したり、就寝後にトレーニングとか言って夜中に前穂まで登ってビバーグして、翌朝に出勤したり・・・
さすがに勤務中の夜間登山は危険なので、夜は「上に行くな!」と言うと毎晩30kgの荷物を担いで小屋から下の登山道をずっと往復していたり、「夜中はクマが危ないから」と言うと、何度も鉢合わせしているから鈴を持ってるとか・・・

まあ、とことん手は焼かされましたが、一応彼の熱意には最大限応えて好きなように休みを取らせていたつもりです。他の槍グループの従業員に比べると文句が出そうなくらいに好き勝手に。その分、私の休みはかなり削られましたが。



去年は6月に登山家の山野井泰史さんのパートナーとして登ったペルーの岩峰初登攀ではピオレドールアジアを受賞するなど、活動の幅を広げていきました。

岳沢小屋のブログでは、岳沢〜重太郎新道〜奥穂〜ジャンダルム〜天狗沢の周回ルートを4時間弱で1周したというのが話題になりましたが、正直言って私でも5時間で1周できるので、さほど違いはないだろうと思っていましたが、



「最後の休暇」と称して行った10月24日は岳沢〜コブ尾根〜ジャンダルム飛騨尾根〜穂高岳山荘・北穂高小屋・涸沢小屋・涸沢ヒュッテ訪問〜前穂北尾根をこなし、夕方5時に小屋に戻ってきたのには、さすがに「コイツ超絶してるな」と驚きました。

この冬は今年6月のアラスカマッキンリーを目指して、これまた毎週のように超絶な登山をこなし、それは今発売中の雑誌・岳人や来月発売予定誌でも紹介されるようです。

ただ、こういう登り方をしてるので「コイツいつか死ぬだろうな」というのは多くの人が思っていたようですし、事故の前日の3月26日に槍ヶ岳山荘社長の穂苅と昼食の際に「あいつ死ななきゃいいけどな」と話していた直後の事故でした。

やっぱり・・・、と淡々と受け止める一方で、「覚悟はしてたけど、こんなに早いとも思っていなかった」と昨夜駆けつけた野田の彼女も言っておりました。




次に事故の詳細です。
ここからはかなり生々しい関係者向けの報告になります。
一般の方は御注意ください。

同行者と2名で鹿島槍北壁を登攀後、天狗尾根の幕営キャンプ地へ戻る途中、天狗の鼻付近の雪稜からアラサワ側に9:30頃に滑落しました。同行者は前を歩いていたので、どういう原因で滑ったか落ちたかは分からないそうです。

急峻な岩場を転げ落ち、最後は大きくバウンドして50mほどの落差で雪面に叩きつけられて停止。およそ200mほど滑落したようで、おそらくはその際の衝撃で即死したものと思われています。

特に大きな外傷や大出血はなく、顔も擦りキズ程度できれいな顔でした。病院で面会した時は、いつも従業員部屋で酔っ払って寝ていた時と大差ない顔で眠っていました。

その後同行者が現場まで降下し、稜線上の立木からザイル2本分下った場所で頭から雪に突き刺さった形での野田を発見、掘り起こしたが心肺停止を確認。それ以上流されないようにザイルで固定して稜線上まで戻って12:50に警察へ電話で救助要請の通報。

午後2時半、県警ヘリが現場に到着するも、その後の小規模な雪崩で野田の身体は雪に埋まっていて発見できず、身体を固定しているザイルのみが見えていたとのこと。風も強く、気温の上昇で雪面状況も悪く、現場に降下しての作業は危険との判断で収容作業は好天と冷え込みが見込まれる翌朝へと繰り越されました。

なお、身体が発見されない状態で現場をすぐに特定できたのはこの固定ザイルのおかげです。これがなければ捜索・救助はより困難なものになっていました。この点に関しては同行者に感謝いたします。


28日 午前6時に県警ヘリは松本空港を離陸、
大町市のヘリポートから県警の隊員が順次乗り込み、現場付近の稜線へ6名が到着。
 (現場は急峻な地形で岩盤が至近すぎてヘリで直接の降下は不能)

1名の隊員が現場まで下降し、野田を発見。ただし、前日の雪崩(小規模)で身体を埋めていた雪は朝の冷え込みでガチガチに凍っていて掘り起しが難航。

11時頃になってようやく身体の掘り出しが完了、シートなどで固定したあと、
稜線上までおよそ120mを引き上げ、午後1時半頃に稜線まで到達。

同じ頃、宝剣岳で発生していた遭難事故の救助を終えたヘリが現場へ戻り、
14:45機内収容完了
15:00大町市内のヘリポート到着
その後、救急車で大町総合病院へ搬送され、死亡が確認されました。

4時間にも及ぶ検死作業ののち19:00に家族や関係者と面会。顔はさきほどの通り、きれいなもので目覚ましのアラームが鳴れば起きてきそうでしたが、丸一日以上水が溜まって濡れたグローブに突っ込んでいた手は白くふやけて氷のように冷たく、それを握った時に初めて野田の死を実感しました。

その後、葬儀社の車で母親と一緒に横浜の実家へと帰宅の途に就きました。

以上が私の知りうる状況の報告になります。




最後に、救助にあたった6名の隊員の皆さん、
困難な状況のなかで本当にありがとうございました。

弦間係長、野田の掘り起し本当にありがとう。松本署時代に一緒に現場へ行った野田の掘り出し・収容は本当に無念だったと思います。危険な場所で数時間も本当にありがとう。

稜線まで引き上げてくれた、母袋分隊長・村上、本当にありがとう。
二人の悲痛な顔を見たら、ちゃんと礼も言えなくなってしまって申し訳ない。
でも本当にありがとう。

武田も小澤もありがとう、あと一人名前しらなくてごめん。
でも本当にありがとう。

無線での情報を逐一教えてくれた森君ありがとう。

北部遭対協の方々、長い待機時間ありがとうございました。

山口課長も丁寧な説明と対応をありがとうございました。

パイロットと整備士の方、厳しい中でのフライトありがとうございました。

まっ先に連絡をくれた岸本係長、加島副隊長、山田直さん、ありがとうございました。



これまで遭難事故に際して、ヘリに載せるまで・救急隊に引き継ぐまでが自分たちの任務と思い、ヘリに載せれば一件落着とホッとしていた自分ですが、その後のことがどんなに大変なことか思い知らされました。

警察・消防・病院、多くの方々のご協力があり、そして遭難者の背景には多くの関係者がいることを改めて認識させられました。御礼と感謝とお見舞いを申し上げるとともに、野田の死に最大限報いるためにも今後の遭難者の対応・ケアに対して今回自分が感じた部分に留意しつつ救助活動にあたっていきたいと思います。

野田賢君の冥福を切に祈るとともに、
残ったものはその分もよりいっそう活躍をしていかなければなりません。




だけど、死んじゃったらダメだよ。
登りに行ったらちゃんと帰ってきて仕事しないと。
やっぱ、仕事に関してはまだまだだな、お前。
いっつも後始末悪いし、散らかしたまま寝てしまうし、戸締りちゃんとしないし、
そんなことで槍の支配人が務まるわけないだろ、バカ。
何度も言うけど、周りは認めても俺は小屋番としてお前をまだまだ認めないからな。
野田、もうおまえホント全然ダメダメだよ。