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 雑感   土井義士 

八月十三日(木)親の顔が見たい・畑澤聖悟

教育テレビでの舞台中継番組で劇団昴上演「親の顔が見たい」を見た。「昴」俳優陣の演技に普段のテレビ番組ではみられない新鮮な魅力を感じた。

 何年か前に文京区のレストランのマダムのブログにあったのを想い出した。昴の舞台の観劇の帰り道ではいつも「芸術の爽やかな風」が吹いている。そのブログを読んだ為なのか昴の舞台の「爽やかな芸術の風」がテレビの前の私に芸術の風を想起させるのであった。

 この戯曲、晩成書房刊行を読んだ。名門女子中学で一人の生徒がいじめられ、遺書を何通も遺して自殺した。遺書を巡って親達や学校関係者が責任逃れの醜い行動に出る。遺書によりいじめの実体が次第に明らかになる。
 いじめグループは女子中学生をトイレに連れて行き、裸体にした姿を携帯電話で写真に撮り援助交際を強要して、売春で得た金を皆で巻き上げる。私はいじめの悪質さに驚いた。中学生の知恵の及ぶレベルでは無いと思った。ここで売春と書いたが売春と書けば、それだけでアナログ、時代錯誤のレッテルを貼られる事であろう。
 
 ところが著者のあとがきによれば、初演を見た客が「現実はこんなもんじゃすまないですよ」都内の中学教師が感想を述べたという。
いじめの実体はもっと巧妙かつ悪質になっているのであろう。
 同級生である女子中学生が自殺しても加害生徒の様子は普段通りで罪の意識が全くみられない。この罪の意識が無いのは加害生徒の親達も同じである。
 この戯曲作者は高校の教師であるらしく教職の立場から生徒を観察して、いじめの実体を描いているのであるが著者のあとがきによれば福岡県での実際に起こった事件をモデルにしているらしい。

女子中学生、携帯電話、援助交際、いじめ等今日的な題材を現代日常語で扱うと文体は自ずから消失して仕舞うのであろうか。
文体の喪失を思うと寒々とした気分になる。
いまどきの小説はプロットとキャラクターしか書いていない、らしい。文体の喪失を問題にしなないと現在や現代は語れないと信じ込んでいる私は環境不適応者なのかも知れない。と、此処で居直っても何も出てきません。
七月十三日(月) 民主党の圧勝

 前回、ここに書き込んだ前夜にはビートたけしと東国原知事が会食したと昨日のニュースで知りました。東国原の自民党進出撤退への段取りと謂うところか。

 昨日東京都議会選挙に投票しに行くと会場で「こんにちは」挨拶を選挙係員数人から受けた。驚きつつ、とにかく挨拶を返しましたが投票会場では厳粛に私語を挟まずに厳かに行われるものであったので選挙会場まで「ハレ」の舞台でなくなって、一般日常の延長上の空間になったのでしょうか。
 やはり敬語は必要だ、皇室関係のニュースで敬語と日常語を交えて(故意に交えているのであろう)チャンポンで伝えているのには虫酸が走ります。敬語を一度でも、一カ所でも用いれば全文を敬語で貫かなければそれは日本語と言えない。敬語が無いと緊張が失せてだらけた日常しかやって来ない。選挙投票でも日常生活ではないのであるから区切る必要がありはしまいか。
 単純に挨拶は悪い事では無いとの善意で発したのであろうが、厳粛な時と空間が欲しいのです。

街頭での民主党候補者の演説に腹が立ち、あれば、石を投げようとしたがなにせ最近の道路には石が落ちていない。演説の中身であるが、単純思考で東京都新銀行が四百億円もの税金を無駄に使ったと知事を税金泥棒呼ばわりをしていた。中小零細企業の資金繰りに使われたとは言わず、新銀行発足時には民主党は賛成していたのに一転して、泥棒呼ばわりをした結果、当選するのだから民主党候補であれば誰でも当選する勢いである。有権者の損得感情に訴えれば選挙に勝てる、内閣であれば給付金を支給すれば、一時であるが支持率も増える。そういった世相に対して情けない思いでいる。
七月十一日(土) 黒幕はたけし

 世論調査なるものが信用を得て、政治家が公の席で内閣支持率は何パーセントなどと言っている。これはマスコミ各社への配慮というものではないだろうか。

 公明党や共産党の支持者は世論調査にはすすんで協力するであろうが、例えば、選挙投票未定の中間不確実層は調査に協力を惜しむであろう。公明党の支持者は三パーセント程だそうだが支持母体の創価学会の信者数が成人の三パーセントも存在するであろうか。実際は一パーセントも居ないであろう。アンケート形式によって数字結果は操作出来るのである。すなわちマスコミが権力を持ち、政治操作可能な状態にあるのです。

 東国原宮崎県知事が衆議院選挙に自民党から条件付きで立候補を検討しているらしいが、それこそ世論の風は完全に逆風らしい。
このニュースを聞いた瞬間に思い出したのは知事の師匠ビートたけしの動きである。
記憶では三月頃たけしが麻生総理を公邸に訪ねたと思っていた。検索すれば昨年十二月十八日に赤坂の料亭「浅田」で麻生総理と会食とある。おまけに古賀誠選対委員長も同席している。この時に三者で東国原知事の国政参加を打ち合わせたに違いない。根回しというやつでいかにも政治的です。
平成二十一年
六月十二日(金)  http://orange.zero.jp/doi/へのアドレス変更お願い致します。

 このホームページアドレスが自動変更(リンク)にならずプロバイダーの懈怠なのかと思っていました。再度、問い合わせれば来月、七月末でhttp://www4.zero.ad.jp/doi/でのHP表示はされずhttp://orange.zero.jp/doi/でのアドレスのみ表示されます。リンクされている場合は変更をお願い致します。

 回答率がせいぜい五十パーセント台にしか過ぎない新聞社やテレビ局の世論調査結果をマスコミ各社はあたかも世論全体であるかの如く過信しているのには首を傾げざるを得ない。回答しなかった人達の意見を集積するのは不可能であるとしても、半数を少し上回るばかりの回答率のアンケート結果に全面的な信頼が置けるとばかりの如く対処するのには数字の誤謬、騙しに配慮していない。

テレビ視聴率も同じであって数百世帯のサンプル収集で一千数百万ある日本国中の全世帯を調べ上げたと錯覚を起しているようだ。

マスコミ各社世論調査やテレビ視聴率は統計学上信頼性があると統計学者が主張すれば否定する意見が顕れないのが恐ろしい。統計学という「数字の誤謬」を正さねばならないのではないか。

 定額給付金申請書を送付したくないのだが権利を放棄するのも癪で申請書を送らざるを得ないであろうと苦々しい思いでいます。麻生総理が当初、給付を受ける人は「さもしい」と、のたまわっていた。尤も、高額所得者なのに給付金を受け取る様なさもしい人は、と、ただし書きが付いていました。しかし、給付金の発想自体が国民を見下したものである。その定額給付金が支給され始めた頃から麻生内閣の支持率が向上したのには呆れました。

民主党代表であった小沢一郎が代表を降りたのは世論調査の結果、小沢代表では衆議院選挙を戦えないと判断したからである。

 テレビの視聴率も信用おけない、石原知事は会見でビデオリサーチの調査は六十歳以上は勘定に入れてないと述べていた、何年か前の話であるから今は変更されたのかも知れない。いまは団塊の世代が控えているので六十歳以上を無視出来ないでしょう。もともと老人は消費購買層に非ず、がテレビ界の見解であったのでしょう。年長者の視聴を想定せずに番組制作を行った結果、番組が詰まらなく、下らなく、止めどなく下品になったのです。

 今のテレビ制作者は創造力の乏しい事のは万人の認めるところでしょう。テレビ放送の性質からして映す対象を定め、映像化しさえすれば番組として成立する。視聴者の感銘度は無視される。番組制作に創造力は不必要なのであろうが、それにしてもつまらない番組ばかりである。番組制作の発想が人々の欲望を刺激して好奇心を煽り、視聴率が上がさえすれば全て良い世界なのである。
そんな内で劇団「昴」公演「親の顔が見たい」は感心しました。しかし、演出を青年座の演出家に依頼したのは戴けません。インタビューでこの劇は学校という普遍的な場で、云々述べていましたが普遍性という言葉を用いれば観客を納得させられるとでも思っているのでしょう。あの劇での普遍性は親のエゴイズムにあります。学校は共通の場であります。
九月十七日(水) 自動的に移動せず
 
 URLが自動的に変更にならず、新旧二つのURLで表示されているようです。プロバイダーの都合に振り回されています。おまけにカウンターが準備されておらず近く取り付ける予定です。カウンターの具合で正常に作動しているか判明するでしょう。

 ジョルジュ・ルオーのよく知られたエピソードとして未完成品の返却訴訟があります。ルオーにすれば、ほとんどの作品は未完成品であり、未完成品を書き加えて完成品にするつもりでいたのが、画商によって未完成品が売られればそれは不本意であったろう。判決は八百点をルオーに返却とあり、執行官立ち会いの下に全て焼却している。
 未完成作品の焼却にルオーの芸術家としての誠実を見るのか、それとも焼却処分せずに完成品にまで仕上げるのが画家としての仕事であったのか。十四歳でステンドグラス職人のダモニに弟子入りしたルオーに職人気質が身についており芸術家としての気負いは見られません。

 キリスト教は霊的なものを否定しているのに係わらず、ルオーには霊的なインスピレーションが湧いたらしいのでその角度から理解するのも一興でしょう。
九月五日(金)URLが変更になりました
 プロバイダーの都合で当頁のアドレスが変更になりました。別のプロバイダーに代えようかと迷っている間にも月日は経ってゆきます。
 先月末の集中豪雨は凄まじく轟音の雨音は初めてです。本州では大雨なのに四国ではダムの貯水量が底をついて困っているようです。なんと不平等な事か。
 
 先月、十七日に終わりましたが日比谷の出光美術館にてジョルジュ・ルオー大回顧展が開かれていました。館内に入った瞬間にルオーのパワーに圧倒されました。精神の「勁さ」が我々を別の次元に誘いました。最終の金曜日は夜七時まで美術館は開いていたので案外大勢の人が押し寄せました。
 キリストの『受難』をテーマにした連作油彩画八十四点のうち六十四点が出光美術館に所蔵されていて、今回は全てが展示されていました。出光が受難を収めるに際しては多くの作家や画家の後押しの賜物であつたようです。
 これは驚嘆すべきなのか。受難の何点かにキリストの頭の周りにオーラが描かれていた。色は黄緑であり、十字架のキリスト二枚には橙色のオーラが描かれていた。昔の人はオーラが見えていたという話は眉唾ものだと思っていたらジョルジュ・ルオーにはオーラが見えていたのでありましょう。
 オーラが見えるか見えざるかは重大事では無く、ルオーが多彩に表現したものを受け止めるのに苦心しました。
 一度の鑑賞のみでは何も身に付かないと観念して出光美術館をあとにしました。
六月二十八日(土) アンポ反対
 米国が北朝鮮をテロ支援国家指定解除の手続きの方向へ向かっているのに、政府が拉致被害者救出に何ら手を尽くさなかった如く見えるのは万人の感じるところでありましょう。拉致問題は今後も日米で協議するので今後を期待しましょう。との意見を持つ人は誰もいないのでしょう。
 米国は日本を見捨てたのであろう。 
これでは日米安保を破棄せざるを得ない。自衛隊は軍隊として武力行使を行い。拉致被害者を奪還するしか方法が無い様に思われます。
 その前に北朝鮮は核兵器を日本に落とすに違いない。ブッシュは何を考えているのであろうか。悲観的な見方しか今の所は出来ません。
日本は米国の属国どころか奴隷国に成り下がったようだ。

 話題を代えて、裁判員制度実施を前にしておかしな判決が続きます。肉親を殺害した者が裁判で無罪になるケースが増えている。判決理由として犯行当時は心神喪失であったのが理由だそうだが本当に心神喪失であったなら殺害行為自体が成り立たないのではないか。
裁判官のヒューマニズムとやらが温情判決を導いているようだ。日本は腐りつづけている。
六月九日(月) 人はパンのみにて
 こんなに永くサボっていると書き込まないのが苦痛になりました。この間一体何をしていたのかと申しますと趣味でカラオケの伴奏で歌っていました。昨年の夏から始めました。 このカラオケは伴奏キーの上げ下げのコントロールとテンポを速くしたり遅くしたり個人に合わせられるのです。月に五百円と税が必要でパソコンにダウンロードします。
 曲目が昭和四十四年から以前の曲はほとんど入っておらず、すなわち歌える曲の大方は歌えない状況であり、しかもアレンジと呼べない程手抜きアレンジなのにキーを合わせられるという利便性が私を虜にしました。
「是れで良いのか日本の歌」も尻切れ蜻蛉状態ですので若干題を代えて加えて行きたいと考えています。

 冷静に考えるとカラオケは自己陶酔と自画自賛でしかありません。これを読んで下さる方には迷惑な書き込みとなるでしょうから。
不快に思われる方はこの頁を無視される事、お願い致します。

前回書き込みました青色発光ダイオードを自室で灯せば雰囲気が変わるので無いかと思い立ち常夜灯と小さなランプを灯してみました。いずれもワット数が少ない為効果の程は明確では有りません。悪い感じはしませんからランプを増やせば幻想的になるのでしょう。
 先月二十五日の産経新聞オピニオン欄にsc先生の「腹が立つ節約美徳論」が再掲載されていました。昭和四十八年の論文でオイルショックの混乱に冷静になれとの警告が今日にも当てはまるとの見解で再録したのでありましょう。『人はパンのみにて生きるものではないと悟ればいいのである。』
三月十二日(水) 青色発光ダイオード

  片隅にあったウェブニュースを紹介します。JR西日本では、大阪の阪和線と関西線の三十二踏み切りを鉄道自殺が年間四件から九件発生する要注意踏み切りと判断し、踏み切りの照明を青色発光ダイオードに代えたら、効果てきめん。この一年間自殺者が出なかった。
 青色は精神を落ち着かせる効果があるとされ、英国グラスゴー市では青色発光ダイオードを景観改善の為導入したところ、犯罪件数が激減した。わが国でも平成十七年に奈良県で初めて導入。現在では広島、静岡、石川などの自治体に普及しているようです。
 記事では青色照明灯の鎮静効果を記述しているのみで、青色発光ダイオードによる鎮静効果なのかそれとも照明灯の色が青であれば効果を齎すのか、判明しません。
 青色発光ダイオードの発明が人間の精神にも好影響を及ぼすなら思いの他の発明といえましょう。

 右の記事紹介は私とは何の関係もありませんので記述を止めようかと迷い続けました。 この「雑感」の意味を確認できない日々であります。最近では自分のブログにサイパン旅行に行くと掲載したが故に現地逮捕された疑惑の銃弾野郎がいました。ネット上の言葉と自分との距離測定が難しいです。
平成二十年 戊子 一月七日(月)

 謹賀新年 明けまして御目出度うございます。今年も新年早々から天候に恵まれました。
 元旦に電車に乗り車中見渡すと、晴れ着姿は見当たらず、誰も彼も晴々とした表情をしておりません。沈鬱な顔でも無く、のんべんだらりとした、平凡な日常の延長に過ぎない人達ばかりでした。
 これは偶然に車中で眼にした光景なのですが近未来的風景でありました。

 祭日とその儀式は生の充実感を得る為の型では無くなって、単なるレクリエイションの日々と化してしまいました。
サラリーマンは暮れから年始に掛けて九連休の人もいるようです。何と永い連休な事か。今日は皆さん、家族サービスとレクリエイション疲れの果ての正月明けの初出勤となるのでしょう。

 或る解剖学者によれば、胎児の心臓をばらばらにして細胞一個にすると、あるときからひとりでに拍動を始めるそうです。その自発性が生じる源を科学では解明出来ないようです。生物は細胞の連携で生きているので、細胞一つでは動く筈は無いのです。「これは最も良く出来たシステムで動いている」と学者は説明するのですが定義になっていないと自覚しての説明なのである。
 それでは、「魂」で胎児の細胞が動いていると結論を急ぎたくなるものです。

 最近制作された「万能細胞」でクローン人間が出来るようだ。クローン人間が出来れば「魂」の実体が解明されるかも知れない。しかし、解明されなければクローン人間すなわち「悪魔」の誕生になるのであろうから深刻な問題であります。人類滅亡の切っ掛けはこの辺りに有るのかも知れません。
十二月十二日(水)舛添も無能だったのか

 安倍前総理が高尾山に登り健康の快復をアピールしたようだ。参議院選挙での大敗が病気の原因と見なせば、急性のそれであった事になり元気になられたのであれば喜びたい。
 
 昨日のニュースでは年金記録漏れについて、安倍内閣以来の約束であった「最後の一人、一円まで記録を統合する」と選挙公約していたのに来年の三月末を待たず、白旗を揚げてしまった。舛添厚生労働大臣は記録の不備について「是れ程ひどいとは思わなかった」述べている。持ち主の分からぬ年金が二千万件近くもある。
 社会保険庁の職員で年金を着服した者に対して七年という時効の壁があり追求できない。そうだが国会は立法府なのであるから、時効の壁など全党一致して撤去の法案を成立せしめれば年金問題は一歩、前進するのは子供でも分かる理屈なのに、国会議員達は仕事をする気が無いらしい。

見渡せば花も紅葉もなかりけり
 浦の苫屋の秋の夕暮れ
     藤原定家の歌が身に沁みます。
九月二十六日(水)
 安倍前総理の衰弱ぶりに驚かれた向きも多かったようだ。あの病気の進行時は幾ら休んでも疲れが溜まる一方で快復の兆しが見えず、本人に焦りが生ずるようだ。安倍さんは総理として、松岡大臣を自殺に追い込んだとの自責の念が病の発症の原因であろう。
 現職の総理が大臣をそこまで追い詰めた例は過去には無く、マスコミをはじめ余人には窺い知れぬ苦悩を安倍さんは抱えていたのであろう。

 中秋の名月はくっきりと冴えていた。この月を来年も見られるのかと不安がよぎったがこの感傷癖は何時までも直らないようだ。

 二十五年近く前であろうか、千駄ヶ谷の東京都プールに通っていた。全面改築で四年近く休館する旨の告示を読んだ瞬間、自分は改築完成時には死んでいると感じたものだ。
しかし、今、別のプールで腰痛のリハビリの為に泳ぎ続けている。自分の予感に不審を覚えた最初であった。
 そういった感覚は不安から生じるもので、不安感が脳にダメージを与えるようです。
脳の未解明なところは不安感の解消にあるでしょう。
九月二十二日(土)「どうにもならない」
 「より大いなるもの」についてここに書くのは躊躇せざるを得ません。特別な書く機会が有ればそう致しましょう。
明け透けな書き方は私の趣味に合いません。

安倍総理の突然の辞任には驚かされました。
会見で辞任理由が解りました。安倍さんは「うつ病」であると。サラリーマンの出社拒否症は出勤前に神経性の下痢で何度もトイレに走り、本人の意志に反して会社に行けない症状であるが、総理も同じであろう。
 ここまで書いて、東京MXテレビ「いいたい放題」スイッチを入れた、出演の立川談志によれば談志師匠に安倍総理から電話があり「どうにもならない」と述べたようだ。私がテレビスイッチを入れたタイミングが三十秒程開始から遅れたので総理からの電話の時期は定かではありません。
談志師匠はうつ病なので師匠なら解ってくれるであろうと同病合い哀れむ心情で安倍総理は電話したのであろう。
 雅子様同様、快復には時間がかかりそうだ。
総理を非難するのは簡単だ、会見で病気を退任理由にしなかった総理を罵倒する連中の無神経さが腹立たしい。福田康夫が今度総理になればその姓を呼ぶのさえおこがましくなるが、媚中の康夫ではねぇ。
七月九日 より大いなるものの存在
 数日前日本テレビのインタビューに安倍総理が答え、社会保険庁の未納給付金問題の解決にあたって消費税率を見直す必要があると。従来から自民党を中心として消費税率の見直しをマスメディアに働きかけていたではないか。それは社会保険庁の詐欺まがい行為の以前から叫ばれていた。ならば今度の問題が発生したので消費税率を急遽大幅に上げるとでも画策しているのであろうか。

余りにも無計画、無節操なその場限りの言い分に安倍さん貴方も政治家失格なのかとガッカリした。

 「私の幸福論」では現代かな遣いに変更してあるがsc先生の人間観がすなおな形で書いてあり恆存は難しいとの見方を一掃してくれるでありましょう。
 最終章は「快楽と幸福」で『自分や人間を超える、より大いなるもの』を信じる大切さを説いています。特定の宗教に帰依できなくても大いなるものへの信仰は普遍的な心情ではないかと述べています。

これからはより大いなるものの存在について書きたいのであるが躊躇する気持ちも大である。テレビ「オーラの泉」について書いても賛同を得ないのは確かであろう。なにも賛同を得る為に書いているのではありませんが。
六月十三日
 ほのかな悩みがある。現代小説が読めないのである。例えばケータイであるとかコンビニ等の今風の単語が活字となっていれば、たちまち拒否反応を起こし本を閉じて仕舞う。これも不適応症状の一種と断定すれば思考はそこで停止する。
 毎月七日の朝日新聞二ページ目には文芸雑誌四誌の広告が掲載されている。著者名がほとんど分からない。文芸誌には大御所が名を連ねるものとの思い込みから脱っしないと現代の小説は読めない事になる。読めなくとも一向に支障の無い日常だけに少しだけ情けない。
 少し無理をして芥川賞受賞作を読み始めても「これば文学でない」との認識が支配するとたちまち読めなくなって仕舞う。「これば文学でない」恐ろしい言葉である。「こいつは偽物である。」この言葉も効力を発揮する。偽物とは文学以外のほとんど全ての分野に当てはまるのであるが、やはり芸術分野で用いるのが妥当であるまいか。かつて岡本太郎というタレントがいたが彼などは偽物の典型と断定する。マスメディアにさえ乗れば商品価値が上がるのである。芸術作品の価値では無くて商品としての価値なのである。
六月十二日
 随分書き込みを怠りました。最近のニュースに接しても以前にここで書いたのと同様の意見しか出て参りませんので重複は意味が無いと気後れて今日まで来ました。
 社会保険庁の年金記載漏れ問題を一言で述べると、政治家が役人に遣われ利用され続けていたという事でしょう。現今の政治家で役人を使役できるのは石原都知事只一人しかいないと言えます。
 近代化の効率を上げる為の高級公務員制度が破綻をきたしているのにそれを放置して来た政治家や国民の責任は重大とも言えます。
政界再編が指向されているいるようですが、公務員制度の改革を基準にしての政界再編を目指すのが真の改革のような気がします。国が腐れば役人も民も根っこから腐りました。

 我が日本はたまに起こる奇跡と、今だ起こらない関東大震災との狭間で辛うじて命脈を保っているかのようです。
 耐震偽装建築疑惑うやむやの内に幕が引かれてしまいました。正解(欠陥建築の総体量)は大震災後に解るのでしょう。

 地球温暖化問題では中国や米国の国家エゴイズムに対処する術が見当たらないのはこれもお粗末です。近年の温暖化に恐怖心を持たれるのは万人共通でしょうに。
四月三日  三百人劇場活用法
 疾いもので今年も四分の一が過ぎてしまった。八日は知事選挙だが朝日新聞の石原批判は度が過ぎている。朝日は存亡を賭けて石原落選への世論誘導に懸命だった。読者には免疫になっているのだろうか。世論調査で朝日の購読者の何割が石原へ投票したのか調べてみるとよい。都合の悪い調査は行わないだろうが。
 歴史的名知事の石原慎太郎にも失点はある。かのコンテンポラリー・アート支援がそれである。他の芸術分野の発展振興には力を注がなかったからである。そもそもコンテンポラリー・アートは芸術といえるのか。建築や室内デザインに寄与しても決して芸術の純粋性を保っていないのである。あれを誰も芸術と認めはしないであろう。
 新劇のなかで政治色を排除し、演劇の純粋を追求した劇団は極少数である。三百人劇場を新劇(演劇)発展の為にも東京都が買い取り貸し小屋とする方法もあったと今になって地団駄を踏んでいる。

 衆議院議員宿舎が完成し総工費三百四十億円という金額に驚く。家賃が相場よりも安いとマスコミは批判しているが耐震偽造しなければ総工費はこんなにも高額になるのか調べる事はいくらでもある。家賃の九万二千円が高いのでは無く、家賃相場が高すぎると批判すべきである。石原批判しかり、宿舎家賃もマスコミは目先の事にだけに目を奪われている。慎太郎の功績を讃えなければ公平を欠くという視点を持たなければマスコミは自滅する。
二月十七日 ON砲
 前回更新してすぐに星野仙一がオリンピック野球監督に就任との報道に不愉快な気分になり、長嶋茂雄の気持ちを忖度するに気の毒で仕方がなかった。ようやく今週号の週刊文春に「なんで星野なんだ。なんで俺じゃないんだ、何も途中経過が聞かされてないじゃないか、何のためにここまで努力してきたんだ。何のためのリハビリだったんだ」話したと載っている。読んでいて、涙を禁じ得ない。
 王監督の野球人としての品格を讃え、北京での参加を拒否したイチロー選手の判断に賛辞を送りたい。

 長嶋選手のホームランは凄かった。レフトの守備位置あたりから二段ロケットのように勢いを増して伸び、スタンドに突き刺さるので観客はよくも怪我をしなかったものだ。王選手のそれは角度が一定に高く上がり、ストンと落下したものだった。
 ONの凄さを書くと団菊じじい扱いされかねぬ。団菊じじいぶりを発揮するなら本業でと話題を変えて、去年の「夏の夜の夢」素晴らしかったですね殊に若手の三組のカップルの演技力とても十年選手とは思えぬ初々しさに驚嘆しました。ここまで書いて、sc先生が遠藤周作の戯曲を読んだ感想を思い出した「君の作品を読んでかんしんしました。かんしんとは寒い心と読むのですが」お後は宜しいようで。
一月二十三日
 宮崎県知事選挙でそのまんま東が当選しました。選挙なる民主主義手続きの結果、落選すれば地獄とも化する状態に陥るのを了解済みで政治家を志すのであろうから門外漢が口を挟む余地は無いのかも知れません。しかし、民主主義とは罪なもので選挙や世論調査の結果、人間の命運を決めかねない結果となる事
に至らぬのであろうか。世論調査の結果を金科玉条の如く信用してよいものか、安倍政権の支持率がまた下がりましたと嬉しそうに述べるマスコミには、不信感しか残りません。
小泉はマスコミ操作が上手くて安倍は下手であると謂うだけでは無いものがあります。
 いつぞや、そのまんま東と新宿、紀伊国屋ですれ違った際に私の視線は(目線に非ず)彼の頭部に固定したまま行き過ぎました。すぐ後の番組で、顔を見ずに頭だけ見て通りすぎる奴には腹が立つと話していたのに私も怒りを買う一員であったと気付いた事がありました。不用意な目の動きが禿げ男を傷つけると知ったのであります。
 納豆にダイエット効果あるというのがでっち上げ、虚偽の放送であったらしい。とニュースで知りました。正月以来餅を毎日四個食べ続けたので最高体重になったので、ヨガのあとウオーキングを三十分、合計約二時間で一キロ三百グラムが減りました。その後は計二キロ体重減となりました。私の場合特別かも知れませんがヨガもしくは気功のあとのウオーキングをお試しあれ。
平成十九年一月六日 謹賀新年
 明けましておめでとう御座います。穏やかな新年の幕開けに一安心といったところであります。
 昨年は初夢が正夢となり、私の問題意識はあの世とこの世のはざかいを行き来する日々でした。あの世への義理立てをこれで果たし得たのか死んでみないと分かりませんのであやふやなものです。
ホリエモンは初夢で「皆んなに追いかけられている夢を」みたのが昨年の正夢となったようです。彼の場合は検察の手が伸びていたのを察知していたでしょうから追いかけられる夢を見たのでしょうが私の場合は環境が逆転する夢でしたので現実化するとは信じられなかったのです。現実の対応に追われて更新が滞りました。
 さぼり癖が付いて仕舞い、このページの展望は開けませんが今年も宜しくお願い致します。
 コンピュータの発達で文明批評が阻害されているのではないか、文明と人間性の相関関係がいかなる形で成立するのか人間の根本に立ち返って考えてみたいものです。
十二月十三日 いよいよ閉館
 前回紹介するとした(古典は現代化の必要ありや)は、全集第六巻四百五十九頁に「言葉の芸術としての演劇」(幕間)(幕切)と共に集録されています。題名が顕すようにsc恆存は演劇の重要要素として、言葉の芸術を追求していた。ここでは江戸っ子、sc恆存の啖呵の切れ味が鋭い。
 sc先生の美学である、「新劇には美がなければならない」美学の一端が書き下ろし(幕切)に「夏の夜の夢」を通じて記されている。
 「夏の夜の夢」には唯一人シェイクスピアによってしか表現し得なかった美があると述べている。それは、『微笑に近いもので例えば生まれて間もない赤子が両親の顔を見て初めて示す、影の様に現れては消えて行くはかない無心の笑い』を表現するのが美学にかなうのである。この無心の笑いに雲の旗上げ公演の時は未だ気づいていなかった。ようです。
 旗上げ公演では気付かなかったこの『無心の笑い』を読み取る能力が古典の本質を掴み取る能力に他ならないとしている。『無心の笑い』と、ここで引用しても作品が無いのであるから納得させられません。

 十月の昴「夏の夜の夢」や「億満長者夫人」の演出者は果たしてsc先生の演劇論を読んでいるのか疑わしい。全集第五巻の覚書の末尾を引用します。

 私は、四半世紀前「雲」を作った時の夢をそのまま持ち続けてゐる同じ私である。が、その私はもはや若くはない、このまま一体どれほどの人がついて来てくれるであらうか。

 三百人劇場閉鎖にあたって、sc演劇を継承するべきなのかそれとも(愚かな)新しい演劇を目指すのか、現代演劇協会創立声明書と(古典は現代化の必要ありや)を読んで考えて戴きものです。
十一月八日
 保坂和志が小島信夫の追悼文を読売新聞に書いていたので、小島さんが亡くなったと知りました。情報が無いので、普段は見る事の無い2チャンネル掲示板で小島さんの死を確認しました。先月二十六日肺炎で、享年九十一歳。小島さんの小説は後世読み継がれるであろうに文学も現代社会から必要とされなくなったのであろうか。近年の月刊文藝春秋グラビア頁、「日本の顔」で小島さんの書斎の写真が載っており、sc先生考案の書き物台兼書見台が写っていました。木製で十度の傾斜角度を付けて書き物にも読書にも最適と作り方を詳細に書いておられたが、どこに書いておられたのか覚束ない。同じものを中村光夫の書斎写真でも目にしました。
 小島さんの戯曲「一寸先は闇」を昭和四十七年十二月に劇団「雲」日経ホールで上演したのを拝見しています。ロビーにはsc先生、安岡章太郎氏の顔も見えました。この芝居の演出は小島さん自ら担当されたが演劇上の成果は挙がらなかったと思いました。中村伸郎の凛と響くセリフが印象に強く残っています。
 上演パンフレットに「幕間」をsc先生が「古典の現代化は必要か」について書いておられるので次回は紹介するつもりですが「せりふと動き」もしくは全集に転載されていると思われるので調べてからに致します。
十月四日 いつの世も淡谷の批評が必要
 小林秀雄の一文で、江利チエミの日本語の発音は確かなものだ。を読んで彼女の歌を聞く機会を伺っていますが流れるのは「テネシー・ワルツ」ばかりではなんとも判定の仕様がありません。「酒場にて」はなじんで覚えていますが、この歌は惨めったらしくて聞く気になりません。江利チエミ物語を上演中で、島田歌穂がテネシー・ワルツを歌っていましたが良くない。一つの科白は一つの想念で成り立っているように、歌も同じです。歌唱に於いても作曲の想念を捉えて歌わなければなりません。そうでなければ歌がバラバラになりただ声を出しているだけ、ただ歌っているだけとなります。楽曲の想念を確実に捉えると、有機的必然性を感得して、その曲に於いての基本(ベース)となる声の発見があります。小林の一文から外れましたが、期待とはうらはらに余りに酷い歌唱が跋扈しています。
 高音を出すのは苦しいからと裏声を用いてはいけない。など最低限の常識が守られていません。淡谷のり子自身の歌唱評価は別にして、彼女の辛口批評が懐かしくもあります。
 有線で流れる今様の歌に殺意を催す毎日なので、これでは身が持たないと悲鳴を挙げている次第です。
八月二十五日   アポカリプスに還る
 怠け癖が付いて、長く休んで仕舞いました。
本日書き込まねば踏ん切りが付きません。
 小林秀雄が入江隆則にパーティで「入江君不思議だねぇ。人間というものは、おぎゃぁと生まれたその場所に、最後は必ず帰るんだよ。」入江氏は小林がなぜこんなことを言ったのか、分からない。と記している。この分からないのは分からない。小林との会話で、入江は小林に、いまロレンス論を書いていると告げていて小林の「ああ、それではsc君だな」を真に聞いていないから分からないのである。これ以上書くと悪口になるので控えます。
 早稲田実業の斉藤佑樹投手の超人的なスタミナに驚きました。ニューヒーローの誕生は野球界の為に歓迎すべきであります。斉藤投手をテレビ観て、ひさかたぶりに日本人らしい顔に出会ったと嬉しくなりました。戦後暫くは、彼のように凛々しさと優しさを併せ持つ日本の男が随分多くいました。その後、日本人の顔は押し並べて卑しくなりました。何故こんな国籍不明な顔の人種に成り下がったのか、若者達は特に、三国人なのか日本人なのか見分けが付きません。若者流行のポップスから日本語を駆逐したのも一因でしょう。全ては敗戦に帰するのでしょうが、敗戦記念日を終戦記念日に置き換えたのは・・・長くなるので止します。
 今夜は家族揃ってカレーライスを食しましょう。
七月五日 テポドンと危機感
 北朝鮮から我が国への弾道ミサイル発射準備報道に危惧やら期待していたら、今朝六発が発射されたらしい。
政府は早速、万景峰号の入港を半年間禁止にしたが、何故、乗員を降ろして万景峰号を沈めないのか。経済制裁も行うのだろうが、何故ミサイルの準備段階で制裁を発動しなかったのであろうか。実際に発射すれば、制裁を一層強力に進める絶好の機会であったのに、なんと周辺諸国に対して、甘く優しい政府である事か。これでは拉致被害者を帰国させる気概が無いと判断せざるを得ません。

 役人天国の国にしてしまったのが全ての禍根なのか、日本は危機意識の無い国になって仕舞った。テポドンが命中すれば現実に目覚めるというのか。

 先月観劇した「億万長者夫人」作者が企んだ笑いの壺に観客は大いに笑っていました。
散文の味わいを堪能し、昴の芝居は安心して観られる事を再確認しました。劇団昴の観客は笑ったが、果して演劇鑑賞団体の客は笑うのであろうか、そこまで現代の観客は成熟しているのであろうか。観客の成熟を求めるのは早計かもしれない。
六月十一日   懲りないNHK
 此処では迂闊な事は書けないと思いつつ里の修行も大切にしなければならず、人に裏切られて泣いたり喚いたり、ジタバタするのも修行だと前回書いたら、たちまち現実のものとなり、いくら自ら招いた環境にしても、里の修行の下らなさに辟易しています。
辟易の内容は通っているスポーツクラブ経営者との軋轢にあります。
 筋の通らない事に我慢出来ない性分がスポーツクラブの改革に駆り立てたのですが、目を外に転じて、拉致被害者家族が北朝鮮にいる拉致被害者に短波放送で呼びかける電波が北朝鮮政府筋の妨害電波でかき消されているのをニュースで知りました。
 ところで、我らが皆様のNHKは海外に向けて二十二の言語で国際放送「NHKワールド」を放送しています。国語(日本語)での海外向け番組もある筈で、簡単に妨害される短波放送よりNHKの放送で北朝鮮へ向けての横田夫妻達の声を北朝鮮に住む拉致被害者に届けられないものかと思う。放送局側に、北朝鮮を刺激したくないとの政治的判断が働いているとすれば、その政治的判断は誰が如何なる責任に於いて下された判断であるのか、明確にして貰いたいものです。NHKは聴取料を我が国民から徴集して、顔は東アジアに向けての追従番組を放送しているのでは無いか。これはNHK存亡の問題と捉えるべき事柄ではないでしょうか。
五月十八日
 遠藤周作の言葉「国のことよりも自分のことだ」で私は独り合点して、納まり返ってしまいました。人間は修行の一生であるとして、修行にも二種類あるようです、山に籠もってのものと里でのものと。自分で選択すれば俄然、山での修行をえらび少しばかり実践して来たのです。が、「オーラの泉」なる番組で近所のよしみの須藤元気さんへのアドバイスが私の身に沁みました。前世で山での修行は散々行ったのであるから、これからは里の修行をしなさい、人に裏切られて泣いたり喚いたりするのが修行なんですよ。
 世俗嫌いの私ですから、元来、聞き流す筈の言葉が江原さんの忠言故に納得しました。
 霊能者の言葉を信じなくとも小林秀雄の講演での発言なら信じる人も多かろうと思い「信ずることと知ること」から孫引き引用します。

 今の知識人の中で、一人くらいは、念力というようなものに対してどういう態度をとるのが正しいかを考える人がいてもいいでしょう。ところがいない。彼等にとって、理解出来ない声は、みんな不正常なのです。知識人は本当に堕落しています。皆おしゃべりばかりしていますが、そういうことに対する正しい態度がないのですね。

 小林の知識人批判は現代も生きていて、茂木健一郎はこの講演テープを聴いて(小林は)最も近しい人になり、同志と勝手に思い込むようになったようです。しかし、ここで引用した如く、念力に対しての正しい態度を持ち得ないのも茂木の限界なのだという事を指摘しておきたい。
 茂木は言う。経験のうち、計量できないものを、「クオリア」すなわち感覚質と呼ぶ。小林が生きていてクオリアという考え方に接したら、僕がいいたかったのはそれだよと述べただろうと、茂木は確信しているようだ。
 茂木はクオリアが分かればノーベル賞が十個だか百個だか取れると述べていたが、佐藤栄作も大江健三郎もノーベル賞受賞者なのでノーベル賞も大した事はない。クオリアとは計量できない経験の事らしいが、クオリアとは「五感」という言葉で充分です。茂木は第六感を認識出来ないだけの人間です。
 彼はクオリアを解明するのは「人間とは何か」を知る事だとも述べていたが、sc先生の著作「芸術とは何か」「人間この劇的なるもの」に茂木の知りたい事は全て書いてあります。読んでみるべし。
四月二十四日 
 前回で茂木健一郎の取材が中途半端なのに不満を述べました。茂木氏は著書で霊の存在を信じておらぬと表している、そうであれば何も恐山まで取材に行く必要はない。
 遠藤周作のあの世からの言葉「国のことよりも自分のことだ」には含蓄を感じます。まずは西村眞悟氏からこの言葉を肝に銘じて貰いたい。と、冗談はさておいて、海外で物故作家が霊媒師を通じて作品を仕上げた小説があり,その真贋論争をここで紹介するつもりが、資料が何処へ行ったやら見つけられぬ儘月日が過ぎて仕舞いました。
 野球の世界選手権(WBC)で日本が優勝したのは不人気をかこうプロ野球界にとって好材料でした。王貞治監督にスポットが当たったのは嬉しいが長嶋監督が健康であれば世界一の監督の座に就いていたかも知れず、王監督を羨ましくも有りました。
 野球人としての立派な品格が王、長嶋にはあるが、星野には無いので、北京オリンピックの指揮はどちらかに執って戴きたいものです。
 野球選手に限らず人は成長の糧となる切っ掛けやアドバイスを受けるチャンスが到来するもので、松坂投手にもそれは訪れたとテレビのイチロー選手の言葉で知りました。WBC決戦前の練習終了時にイチローが松坂投手に笑顔で語りかけた「貴方は練習するのを舐めているでしょう。君自身、何処かで手抜きをしているのが、僕には分かるよ」この言葉を松坂は如何に受け止めたかは分かりません。
 一流が超一流に成長するにはイチローの言葉を真摯に受け止める必要を感じましたが、散漫な松坂には無理な注文かも知れません。
三月十一日
 文藝春秋三月号は「小林秀雄の霊が降りてきた」茂木健一郎から読みました。
 何故著者は編集者を伴って、遠く青森県の恐山に行ったのかイタコの口寄せに頼ったのか分かりません。イタコなんぞに頼まなくても昨年よしもとばななと対談した江原啓之氏にお願いすれば正確な小林秀雄の声が聞けるではないか、思っていたら週間文春で江原バッシングが始まった。江原氏を、過去に交流のあった五人の証言で信用ダメージを与えようという見え透いた愚劣な記事で、裁判に訴えられれば文春側の敗訴は過去の判例で明瞭です。
 週刊誌との関連で月刊誌は江原氏の起用を見送ったというのが真相でしょうが、小林の声を聞く機会を失った我々の損失は大きい。
小林秀雄は新潮社の新注全集では新字体、現代仮名遣いに改竄してある事にお怒りだと思う。これだけは許せないと仰るに違いない。
 
 遠藤周作は生前、佐藤愛子に「死後の世界があれば『あった!』と幽霊になって教えに出てきてやるから」と、一方的に約束したそうです。
遠藤さんが亡くなった翌平成九年五月中旬、佐藤さんは江原啓之さんと電話で長話の途中に江原さんが会話を打ち切り、遠藤周作が佐藤さんの部屋を茶色の着物姿で訪れ、書きかけの原稿を人指し指で下の方のも持ち上げてニヤニヤと見ながら話しだしたのが江原さんには見え、遠藤周作の言葉を佐藤さんに伝えています。
「死後の世界はあった、こっちの世界はだいたい、君がいった通りだ。作家というものはみな怠け者だから、こうして時々見回りしなければならないんだ・・・この前も見てたら、佐藤くんは机に向かったままじーっと動かない。そんなに行き詰まっているのかと思ってそばへ寄ってよく見たら、居眠りしとった・・・」遠藤さんは幽界の一番高い所にまで行き、「ぼくの人格が高いから真っ直ぐにここへ来た。人の役に立ってきたからなあ。沢山の寄付もしたし・・・」
その後一、二度遠藤さんは現れ、「こうしているのも今のうちだ。仕事が待っている」どんな仕事かと問うと、「世直しの手伝い」と言った。別のとき、この国の先行きについて訊ねると返事は「国のことよりも自分のことだ」私ははっとした。急所をグサリと突かれた思いだった。そうだった、大切なことは人、一人一人が自分の波動を上げることだった。
(略)一人一人の波動の高まりが優れた政治家を生み出すのだ。

 以上佐藤愛子著「私の遺言」より引用しました。遠藤周作の言葉、国のことよりも自分のことだ。深い言葉です。
三月五日
 先週の朝まで生テレビの題は「皇室について」でした。司会の田原総一朗はテーマを次々と移動するので議論が纏まらず、私は欲求不満でした。あれでは井戸端会議に過ぎないと遅くまで付き合ったのに時間の無駄でした。中盤で憲法と天皇制は矛盾しないのかと田原がテーマを振ったのですが数分で別のテーマに移動して仕舞いました。憲法と天皇制は矛盾しないのか。このテーマ一本で討論するぐらいの気概で番組制作を願いたいものです。憲法改正と皇室典範改正とは密接な繋がりが有る筈と言うより、有るのでそこを考慮しての改正を考えたいものです。
憲法と皇室典範を同時に考えると民衆は余計に混乱するとの意見が出たならば、sc先生が三島との対談で述べられた如く、一度、明治の欽定憲法に戻せば良いのです。 
二月五日
 ライブドア事件についての感想を書こうと思いつつ何も無くて今日に至りました。堀江貴文逮捕との報に、内心で喝采を叫んだので、彼への嫌悪感を自覚しました。人間活動において公益性や公共性を認識、自覚しない行動には興味が有りません。ゆえに、この事件から何も得るものが無い気がします。かつてのオウムがそうであった様に「ガキの集団」を監視しておかないと暴走するという教訓のみであります。
 それよりも耐震建築偽装問題の方が重大です。
 耐震偽装問題の罪状は未必の故意での大量殺人未遂です。阪神淡路大震災で建築物の崩壊にヒントを得たのでしょう。すなわち大震災が起これば耐震偽装を追求される余裕の無い大混乱に陥り完全犯罪になると計画したのでしょう。大震災を隠れ蓑にしょうとする仕業は絶対に見逃せない前代未聞の犯罪計画では無いでしょうか。
 刑罰が一般に軽過ぎます。モラルが喪失して刑罰の軽い社会は人間性の崩壊した社会になります。モラルの確立と終身刑を設ける必要に迫られているのではないでしょうか。
モラルの確立の気運が生じて来るのを待つのか、仕掛けて行くべきなのか分かりませんが、人間には期待しないのが賢明なのでしょう。
平成十八年
 一月一日
 明けまして御目出度うございます。元旦は曇り空で年が明けました。
 昨年終盤発覚した建築設計偽造と中韓媚態外交、西村議員逮捕それぞれの裏で蠢いているのが与党内の売国勢力であるのは明白ですがその上、今年は内閣が皇室典範の改悪案件を国会に提出する予定ですのでわが国の行く末は曇天が続くのでしょうか。
 憲法を今更改正したとて何になるのか、それより公明党と創価学会の関係が現行憲法の政教分離に抵触しているのは明確なのに放置しているのは政治的決着というものなのか。自民党が大勝したいま、公明党と清算しなければ弱みを握られた犯罪者のように、選挙協力し続けなければならないであろう。

 権力に逆らえば西村眞悟議員のようにこじつけ逮捕される暗黒の時代が来るのであろうか。立ち小便や銜え煙草で歩いても逮捕される事態になるのであろうか。小泉政治に歯止めを掛けなければなりません。

 九月の衆議院選挙で自民大勝の翌日からとたんに厚木基地での米軍機は離発着時に大騒音を連日撒き散らしました。大騒音に誰も抗議しなかったようです。二週間ちかく我慢の末、防衛庁に抗議しました。その三日後騒音が収まったのは抗議の成果なのか偶然なのか解りませんがとにかくわが国は米国に舐められ続けていると体感しました。

 パソコンとディスプレイ接続の説明を追加致します。パソコン本体にビデオカードが必要です。ビデオカードのビデオコントローラにデジタル外部モニタ出力ポートが装備してあるのが条件です。以上の条件はパソコンメーカーにデジタル接続の旨を問い合わせれば簡単に答えてくれます。
ディスプレイの選択は仕様書にビデオ信号がデジタルRGBがある事。信号入力コネクターがDVI-Dと記入してあればデジタル接続出来ます。最近の製品ならケーブルも付いており使えるでしょう。国内メーカーなら三年保証も付いています。求め易いと思われるパソコン工房PCサクセスにリンクを貼っておきます、セール時は十九型液晶で二万円を少し超える金額でした。解説のページもリンクしておきますのでテキスト版のページからお入り下さい。
十二月十九日
 パソコンのデジタル接続は購入時に計画しておけば案外安く導入できます。私は、パソコンはエプソン製AT955・ペンテァム4でディスプレイは液晶十五型をネット通販で購入しました。合計金額十一万でした。メモリーのデュアルチャンネルは威力を発揮します。これらの情報はネットの価格コムで得ました。
 
 十四日水曜日は国会で証人喚問が行われテレビ中継のチャンネルに一度は合わせたのですが別のトーク番組に劇団「昴」の藤木孝さんが出ておられたので拝見しました。心に残る一言、として藤木さんはsc先生の言葉を紹介しておられました。四十年近く前「億万長者夫人」の稽古中「あー山が見える」この科白が上手く言えずに十回程繰り返した時、先生の「それが最低だな・・・」の一言に恐ろしくて縮み上がったと話されました。情景が眼に浮びそうで、なかなか感じのある話です。藤木さんもさりげなく来年の宣伝をされる点は芸が細かいと感心しました。
 来年の劇団「昴」公演は記念プログマムとして sc訳で二本を上演、三月に「チャリング・クロス街八十四番地」十月「夏の夜の夢」創作劇で六月「億萬長者夫人」が予定されているようです。三百人劇場は老朽化の為来年で閉館になるそうですが、劇団「昴」のさらなる発展を心より願っております。
十二月十一日
 パソコンのディスプレイを凝視すると眼が疲れて困ると愚痴をまえに述べました。眼精疲労を緩和させる為にパソコンとディスプレイを結ぶケーブルを前はアナログ接続でしたのをデジタル接続にしました。画面のチラツキとにじみが消えて眼精疲労が軽減しました。
 パソコンは元来デジタル仕様なのに接続部分がアナログ仕様とは矛盾しています。この矛盾の原因はパソコン制作費の削減と相場は決まっているようですがユーザーに無用な苦痛を与えても痛痒を感じないメーカーの姿勢は利益優先主義と言う精神病の氾濫を意味しております。
 利益優先主義などと勿体ぶった物言いをするのも不愉快ですが、かつて、命よりも大切なものが有ると叫んで自殺した作家がいましたが、現代人は金銭よりも大切なものを見失った振りをしているのでは無いか、人間としての矜持を持たない、持てない振りをしているのでは無いか、余りある羞恥心ゆえのポーズとしての利益優先主義であると判断したいものです。

 デジタル接続の方法はパソコンにDVIビデオカード、DVIモニター、DVIプラグがそれぞれ必要です。NECと富士通の製品にもコネクタで使えるようですが二種類あります。なにしろ接続が複雑ですので(DVI接続)で検索してお調べ下さい。
十一月二十七日
 自己規制ばかりしていては更新出来ませんので思いついたままを暫くは書き込むと致します。
 タレントの美輪明宏が三島の理解者だそうで昨夜のテレビで三島は本物だとか天才だとか述べていたので気分が悪くなってスイッチを切って仕舞いました。美輪さんに関しては今後、大げさな程褒めあげるでしょうが、それは歌手として、霊能者として褒めるのであって、役者や文化人として評価するものでは決してありません。昨夜の番組では三島は辞書を一等愛読していたようです。広辞苑では「俗」の反対語を「雅」と載っています。三島も広辞苑を鵜呑みにしたのか、俗の反対語を雅びとする人間観で小説や文学論を書いていました。
 かつてsc先生に話を伺った際に、三島にとって俗の反対語は雅びのようです。と、私が述べました。先生は「俗の反対は粋です」そこで粋について詳しく伺ったものでした。この話題の最後に先生は、辞書を信用しては駄目ですよ。端然と話されました。

 三島の公開日記「裸体と衣装」から昭和三十三年八月十六日付から引用します。

  久々の快晴で暑い。福田氏の家族と一緒にプールで遊ぶ。妻とビーチ・パラソルの下にゐて海を眺めてゐると、砂浜の斜面をふしぎな人が近づいて来る。黒い絽の着物に角帯を〆め、なよなよと、銀の扇をひらいてかざしながら、足もとおぼつかなく砂の斜面をのぼつて来るが、サン・グラスの下の唇は大そう丹い。海水浴の裸ん坊ばかりの中で、その姿は異色といふも愚かである。いよいよこちらへ近づいて来て挨拶するので誰かと思つたら、たまたまここで行われるテレビ放送へ出演するために来てゐる丸山明宏君であつた。

 sc先生、三島、美輪明宏と三者の場面はこれぐらいであろうから引用しました。
十月二十七日
 この人物の言動を精察したくも無いのですが、この愚男は公人中の公人なので述べます。この前の靖国神社参拝で参道の中央(まんなか)を歩いていたのは英霊に対して失礼です。参道の中央は神。靖国神社では英霊が通られる場所で、人間共は参道の脇を通るものです。神道神社に参れば、二礼二拍一礼をせずに参るのはこれまた英霊(神)への冒涜だと因縁を付けられても仕方ありません。敗戦記念日の靖国参拝を総裁選の公約として挙げている程だから以上のマナー違反は確信的なのでしょう。中国や韓国へ「私は、心ならずも参拝していますよ」との弁解じみた所作なのでしょう。
 小泉は単なる選挙好きの政治屋でしか過ぎないのは明白です。中国が台湾を軍事攻撃すれば、わが国はいかに対処するのか、それが問題だ。
 今年もあと二カ月、光陰矢の如しを実感します。私事ですが、三十年前のこの日が一番幸せな日でありました。
十月六日
 またも衆議院で郵政民営化法案が審議入りしたようです。
 解散前にもこの法案は審議され、衆参の予算委員会で討議されました。予算委員会で政府首脳は徹底的に野党に追い詰められて答弁に四苦八苦、返答に窮し、立ち往生もしばしばの醜態を演じたのでした。あのとき、野党が本気で郵政法案を廃案に追い込むつもりならば廃案になったでしょう。法案は杜撰で貧弱なものでした。なぜ野党は「答弁になっていないので廃案」と、強行に出なかったのでしょうか。
自民党の国会対策が有能で且つ、資金が潤沢にゆきわたったのでしょうが出来レースの感は否めません。
 予算委員会での与党のもたつきぶりをテレビで再放送すれば選挙結果は違ったであろう。野党はこれをなぜ利用しなかったのか。テレビでなくても国会中継をインターネットで見ることが出来るので、与党がいかに無能であるかを喧伝する機会であった。
 今回の選挙で反小泉で戦い、破れていった元議員達は権力に逆らった、世渡り下手な人達であるのか。社会の落伍者なのか。当選はしたが亀井静香議員は自民党での自派閥が消滅してしまった。「長いものには巻かれろ」式の風潮が流れているのには暗然たる心持ちになります。奢れる権力者の末路が悲惨であるのは必定であります。
九月六日
 更新を野暮用で留守にしてしまい、お詫び致します。
二カ月間の野暮用とやらをブログでの公表も考えたのですが未定です。なにしろ内容がお粗末なものですから。
発売中の「発言者」九月号に『解つてたまるか!理解への反逆』金子光彦氏の論考が載っています。目配りとメリハリの効いた文章、愉しく拝読しました、金子氏へお礼を申し上げます。改めて「解つてたまるか!」の台詞が良いのに感嘆します。この戯曲については何処やらの不届き者により冷水を掛けられ、なにやら消沈の態ですが、金子氏の論考で元気を頂戴しました。
金子氏は、戦後の日本人は社会の恥部を恥部として感じる感覚そのものを喪失させてしまい、それを助長させたものについての考察を述べておられ、原因として、戦後の浅薄な人間観の横行を挙げられています。

今度の解散から衆議院選挙の経過をみても首相の人相から言っても全ては浅薄そのものです。選挙前(最近)の世論調査で自民党がなぜ強いのか、理由が掴めませんでした、急に民度が低くなったのかと不思議でしたが、日経平均株価が四年二カ月ぶりに一万二千七百円の大台に乗ったとの記事を読んで、自民党好調の原因は株価の高騰にあると独り合点しました。価値基準は金銭の高でしかないのでしょう。
日本人の人間観の喪失は永遠に続きそうです。
社民党の福島党首の発音はキーボードをローマ字入力する様なローマ字発音です。これが今風なのか、未来の日本人の発音形なのかおぞましい限りです。
八月三日
 今朝、めずらしく小林秀雄の夢をみた。交わした言葉は僅かであった。晩年の氏はあまり原稿が捗らない様子であったが、私に強烈な印象を残し、その存在自体、すなわち小林秀雄その人が作品であると感じて、目が覚めた。なるほどそういう事かと、独り合点したのだが、芸術家はその存在を証明する必要は無く、証明せんが為の試みこそが芸術家の不在証明であるとの逆説を思い出した。
 本物はそれを証明する必要は無く、偽物は本物を主張する事自体が偽物としての馬脚を露す。芸術家の創作意欲の質が問われているのであろう。「解つてたまるか!」村木の台詞で「天才が無いんだよ、自信が無いんだ、こいつが無いと何をやつたつて駄目さ・・・・・。」

次に紹介する「新潮」特集号がおそらく今朝の夢の起因であろう。
 新潮社からでている小林秀雄生誕百年記念に吉井画廊の吉井長三氏は小林氏の思い出を、幻の「ルオー論」を書いている。

昭和五十一年に小林氏は「ボクは、ルオーを書こうと思っているが今、宣長をやっているだろう。宣長が終わったら、ルオーを書くよ、(略)聖書を読み返さねば・・・・」
ルオーの「古びた場末で」と題する二十号程の油絵は台所で物思い沈んでいる白衣の男が一人静かに座っており、頭上にかすかに光らしいものが射しているからこれはキリストです。実に色が深く美しい絵です。これを購入した、赤坂の小料理屋の女将の部屋を訪れた小林氏は帰り途、少し興奮しているように見えた「おれはルオーを書くよ。書ける。ルオーはキリストを描いているんじゃない。ルオーは絵の中にキリストの仮の姿を描いているんだ。それが解ったよ。だから女将があんなに惚れたんだ。惚れて神棚の傍に飾ったんだ。ルオーを書くには聖書を読まなければならないと思っていたが、そんな必要はなかったんだ。ルオーは書けそうだ。そうだろう」小林先生は大きな声でそう言われました。
           以上、引用終わり。

集約され、示唆に富んだ小林氏の言葉に勇気を頂戴した気持ちになったのでした。
七月二十八日
 この半年ばかりの間に二度、テレビドラマの時代劇と舞台の源氏物語で、ら抜き言葉を聞かされて我が耳を疑いました。テレビドラマも芝居も上演まで、何人も何回も台本を読み、リハーサルや稽古を重ねている筈で、演出者の了解を得ずに役者のアドリブで、ら抜き言葉が発せられたのであろうか。
ら抜き言葉が今生きている言葉であるから時代劇でも生きた言葉遣いを用いるべく遣ったのであろうか。これはシェイクスピア劇の現代語化の是非とも関係するのでしょう。
NHKの或る女子スポーツアナウンサーは鼻濁音拒否主義者なのか、鼻濁音無しで「が」を大声で強調して、が・が・が・と、がなり立ています。

フランス語は数が勘定できない言葉で国際語として適してしない。石原知事の発言にフランス語教師達が訴えたようですが、朝日新聞が知事批判を展開してくれるのを見越した上での訴えでしょうが、朝日はでっち上げてでも常日頃知事批判を展開しており、先日更迭された浜渦元副知事は見出しでは極悪人扱いである。
石原知事の記者会見での反論、何でも裁判にすればいいってもんではないと思う。には同感ですが、同感できないのは、会見最後に、
「私は、言葉ってのは、かつてのままに踏襲されるものじゃなしに、生きているものですからね、それが文化ってことですよね。」
マジョリティーに重心を置き、俗受けする見事な政治家の言葉です。しかし、文化人の言葉ではありません。石原氏は総理の座が遠のき失意にあると伺えますが、政治家として全うしていただきたい。
 石原氏はsc先生との対談番組で先生の、朝日新聞非カク三原則に賛意を示していたが、
「私の国語教室」(文春文庫)を読んでないのでは。
各家庭に一冊、「私の国語教室」常備運動を起こしたいものです。

旧くからの知人松本弘氏が積年の研鑽を経て作品社から「一休往生」を上梓されました。
ここにリンクしておきます。
一読下されば幸いであります。
六月二十六日
 家族会・救う会の座り込み最終日ですが新聞、テレビの報道を全て詳しく調べた訳ではないのですが扱いが少ない気がします。マスコミは御家族の永年の御苦労に報いる事が出来ない心苦しさ故に、報道を萎縮ないしは自粛している訳では無いでしょう。
何かに怯えて自粛しているのであれば事態は深刻です。例えば、首相の首席補佐官である飯島氏の顔色を伺っての自粛であってはならないのは当然です。まさか人権擁護法案が成立したとの勘違いではありますまい。
御家族を座り込みの事態にまで追い込んだ無能内閣を倒せないのは歯がゆいばかりです。いま、郵政民営化法案の是非と拉致問題で解散総選挙の好機ですが、民主党の岡田代表が首相と同じく腑抜け男ですから政局になりません。
座り込みに最後まで参加したのは西村眞悟議員ただ一人であったのは国会議員の実態を象徴しているのでしょう。今回も情けない話題に終始しました。御容赦願います。
六月三日
 「解かつてたまるか!」についてsc先生自らお書きになっておられるので紹介する事とします。
 戯曲の最も表面的な主題は社会諷刺であり、もう一つの主題「解かつてたまるか!」がその底にあり、それをさらに突き詰めて行くと「明澄なる孤独」にぶつかる。『せりふと動き』玉川大学出版部刊の七十八頁に全集では第七巻二百四十六頁に載っています。引用します。

 四季の演出(昭和四十三年・劇団四季初演の演出は今回と同じ浅利慶太氏)に私が不満を感じ、自分自身の手で演出し直して見たいと思つた理由の一つは、浅利氏が村木を村木自身のせりふにある通り田舎から出てきたばかりの無知な人間として扱つた事である。アメリカ大使館をコカコーラの会社と本当に思い違ひしてゐる様な人間が、あれほど人を手玉に取る様なレトリックを弄べる筈は無く、それでは最後に一人残つた時のせりふ、つまり人気(ひとけ)に汚染されない自然に憧れる気持などどうにも理解の仕様が無い。
 村木はインテリジェンスを持つた芝居気たつぷりな意識家である。自分のせりふのどれ一つ、無意識に喋つてはゐない。相手にそれがどういふ効果を与へるかはすべて計算済みである。私はさういふ風に演出したかつたのである。(略)真の主題、あの「明るい死」はやはり表現し得なかつた事を意味する。

 先月の上演を前に、演出者が「せりふと動き」に目を通していれば、違った舞台になったであろうにと嘆いているのです。
 戯曲「解かつてたまるか!」理解というよりもsc恆存を理解する上での肝要な言葉が「明澄なる孤独」と「明るい死」であり、そこからニヒリズムを超克した世界が拓けて来るのです。
五月二十四日
 二十日に「解かってたまるか!」観劇しました。原作の魅力が上演によって半減しているので失望しました。上演時間四時間のところを二時間半に台詞を割愛したのが失敗の原因でしょう。カーテンコールにあれほど時間を割くのであれば、カーテンコールを一度だけにして、より原作を取り入れるべきであった。観客の身とすれば休憩時間が二十分と充分に取ってあるのが有り難かったが、一層の事カーテンコールと休憩だけで劇は上演しない方が良かった。何事も中途半端はいけないという教訓を思い出して貰いたい。
 電話で村木の声が流れる場面で、村木の声は録音の再生しているようであった。聞いている警察人達が人形にように止まっていたの
は聞く演技が出来てないのでしょう。

 観客が笑う筈のところで笑わない箇所が何度もありました。錯覚や誤解で言葉を間違って受け取った場合、例えば、原罪と現在が挙げられますが、村木の真剣味がおかしみを産むのですが真剣に犯罪を侵している切実さや切迫感が伺えないから笑えないのです。
台詞と台詞の間に間(ま)を取るべきなのですがそれが無いので笑いをさそわなかったのです。
「昴」の「明暗」の時にも感じた、戯曲を忠実に上演すれば成功間違いないのに何故こうも詰まらない舞台になってしまうのか。
謎は謎のまま残さずに、何とか解明したいものです。これは先生から与えられた課題かも知れません。
そもそも私の原作を読んでから観劇するのは、喧嘩を売る為に劇場に足を運ぶ様なもので、健全では無いのかも知れません。演出家、sc恆存と浅利慶太を比較する事自体が無謀なのでしょう。再演するなら台詞を割愛しない事を望みます。今度は是非、劇団「昴」で「解かつてたまるか」を観たいものです。
演劇(芝居)をストレートプレイと呼ぶのはみっともない、芝居は全て台詞劇(ストレートプレイ)なのです。新劇と呼ぶのがお嫌なら真の劇「真劇」と呼ぶのが正しいのではないでしょうか。なに、真劇と呼ぶのは私の造語ですがね
五月一日
 あと五日で「解かつてたまるか!」でなく「解ってたまるか!」初日を迎えます。sc作品は当たらないと評判になるのは避けたいので劇団四季との連名でダイレクトメールを送らせて戴きました。マスコミ用の公開稽古では反応良く、皆さん大いに笑っていたようで、紙面等で評判を呼ぶ事でしょう。
 当會から申し込みの方へのせめてものサービスとしましてS席を購入して下さった方には公演プログラムをチケットと共にお届けすることと致しました。当會宛にチケット申し込みメールを下されば手続きの手筈を取り、後日、担当者から御希望の座席を伺うなど連絡いたします。メールはこちら公演案内はこちらです。(雑感・PDF版ではリンクが貼れませんのでHTML版を御利用下さい。)
 劇団昴から五人が客演で加わり、劇界初めてのコラボレーションです。
 プログラムのsc・浅利対談から一部抜粋しますが、sc先生のこの劇を書き上げた高揚感が伝わって参ります。

sc 僕の批評活動は芝居を書くつもりでやっていたのですからね。からかうのも諷刺するのも芝居の原理に従ってやっていたんです。非常に居直って言えば、いままでの批評が劇作家の批評なんだ。(浅利氏の発言を割愛します)そういう意味で社会事業をやったつもりでいますがね。
浅利 これはまた大げさだ(笑い)。こういう浅利ふうに素直に観客が楽しめるもので、しかも観客が内的な一つの体験を自分なりに持つという芝居がぼくは創作劇だと思います。(終)

新潮社版「人間不在の防衛論議」のなかに『解かつてたまるか!』を解かつていただく為に。が、収録されています。昭和五十二年に劇団昴が上演した際の機関紙の文章ですが、主人公、村木が終幕で感じる孤独がこの芝居の究極的な主題であり、それが全体から浮上らない様にせねばならないので、四季の初演では四九九回も笑ったのを三分の二に減らさねばならないと書いておられます。
 前田嘉則氏が早くも四季の再演を観劇されたようで、観劇記が載っています。前田氏は
観劇後に「なんて寂しいのだろう」と感じたそうですが、sc先生の主題である孤独を感じたのであれば、舞台として成功であったと言えるのでしょう。しかし、恐らく前田氏の「寂しさ」はsc先生の「孤独」とは別物でしょう。すなわち前田氏は先生没後十一年経った現在からトータル時間の経過を得て現在の総合的な「寂しさ」を噛みしめられたのでしょう。
 上演時間が四時間から二時間半に短縮されたのも原作や初演と異なった劇の印象となるのは当然でしょう。これ以上、あまり憶測で書いては前田氏に失礼に当たりますのでこれで止します。

「解かつてたまるか!」はこれから何度も上演の機会があるのでしょう。「昴」のとき心底から面白い劇を観た、これこそ本当の劇だと思ったものでした。当時の精神的飢餓状況と現代社会の微温湯に浸かっているような飢餓感の無い状態とを比較するのは困難です。
唐十の芝居に充足しているひとびとは、これを観れば目が覚める事、保証します。
わが国の新劇史は、左翼演劇がイコールで重なります。その中での孤軍奮闘された先生の深い「孤独」感を追体験できるのかも知れません。

「初演の思い出」日下武史氏の文章から一部引用します。
 福田さんの毒舌、悪口雑言の語彙の豊富さ、たんかを切る時のきっぷのよさ、そして諷刺の精神も楽しかったが、誤解も恐れずに言えば、あえてきわものに挑み、そこに徹して観客をよろこばせようとするしたたかなサービス精神、その中に自分の「芸術」は自ずと顕れる筈だというような信念が感じられて、私は非常に幸福になつたのである。 以上引用終わり。
 日下氏には村木役で出演して欲しかった。sc先生は日下氏が村木役を演じるのを念頭にお書きになったと思えるからであります。
四月二十一日
 このところネットで見るのは価格コムばかりで他は見向きもしません。若者の歌は昨今のものは愚劣と言いましょうか、ギャーギャーわめいているだけで音楽性の向上姿勢はみられません。ゆえに指向の視線は自ずから古い時代、レコード時代に向かいます。いま、視線なる言葉を遣いましたが、目線なるテレビ用語が跋扈しているのに問題がありますが、話がそれるので目線は後述する事にしましょう。
 最近耳にした曲から、菅原洋一の「今日でお別れ」菅原さんは相変わらず物足りないなと苛立ちます。何が足りないのか、それは「語り」が無いのです。この歌手にすれば歌に「語り」の要素など認識外でしょうが想像以上に重要なのです。
 歌を「語る」とは詩の音声表現とも言えるのです。音楽性を無視して語りすぎると森繁節になり注意しなければなりませんが、一般に語りすぎる事はないでしょう。
 「語り」の出来ない歌手がほとんどですが、女性で語れる人を思い浮かべて共通点をさがせば、皆が宝塚の出身なのにおもいあたりました。
三月十九日
 どのページであったか一度しか拝見していないので確たるものではありませんし、どの頁であったのかも不明ですが、内容は覚えております。sc先生が、日本は駄目になった、慨嘆されたのについて直接伺った人物もページ制作者も先生の申されている意味が分からないと述べているのを読んで急速にホームページそのものに対して興味を失いました。
sc先生の日本は駄目になった、もう駄目だ。は常々繰り返し話されていました。テレビの世相を斬るでも話されていて、その認識(日本及び日本人への絶望感)はsc恆存の読者全員に通底しているものと思っていました。sc先生の危機感を読者は肌で感じ取っているものだと思い込んでいました。
高度経済成長下にうつつを抜かして大切なものを失った。失ったものの正体を述べる必要性がいま、あるのだろうか。
やれやれ日本が堕落してしまった現象やら原因やらを噛んで含めるように説明しなければならないとすると暗澹たる気になります。
 
「解つてたまるか!」を劇団「四季」の自由劇場で五月五日から上演するようです。村木役は初演と同じく日下武史である事を願いますが年齢が問題なのでしょうか。四季はベテランと中堅、新人との演技力格差が大きく、アンサンブルに欠けるのですが、劇団昴等から
の客演で穴を埋めるのでしょうか。
「昴」の初演は北村総一郎が村木役でした、今の風貌から当時の面影を伺うべくもありません。

 sc先生は四季上演時のマスコミ等への不満を秋山駿氏のインタヴューで述べておられるので引用します

 僕にとって心外なのは、僕は進歩的文化人批判なんかやっていないのです。一部にそれで出てくるだけです。(略)要するに主題はものわかりのよさという現代の風潮ですね。人間を理解することは簡単にできるという風潮に対する僕の風刺であって、人間というのは非常に孤独なものだ、ということを最後に出したかったのです。主人公の孤独というものを作劇術、演出、演技ということで出す、(略)
途中に出てくる進歩的文化人批判、これは一つの建物でいえば一つの窓、一つのドアの役割でしかない。(略)百年経ってしまえば、そういうものは全部消えて、その作品の言わんとする筋だけは残るだろうということですね。
(略)現代のすべてがごまかしがきく世の中になっている。そして人間の存在が薄弱なものになってきているということに対するもがきですね。どうしたらいいのかということが元なので、それを読みとってくれないとちょっとお相手しかねるという感じがするのです。『解つてたまるか! 』に関するかぎり。
                                           引用終わり
二月九日
 NHK番組ゲストとしてソプラノ歌手鮫島有美子さんが出演していました。アナウンサーが鮫島に、きれいな言葉遣いでいらっしゃるのは何故ですか。尋ねたら、「テレビを見ると悪くなりますので、テレビは見ません」
この強烈な皮肉をNHKアナウンサーが、充分に理解したとは見えなかったのがテレビ界の現状を現しております。
鮫島さんの新譜を紹介しており岩谷時子作詩・訳詞「ウナセラディ・東京」「夜明けのうた」「いいじゃないの幸せならば」「旅人よ」「ラストダンスはわたしに」等、カラオケで歌いたくなる曲ばかりでした。最後の曲を流しましたが、聞いて、困りました、発声が人工的過ぎるのです、味わいの無い無味乾燥な歌唱でオペラなら良いでしょうが、日本の歌となると風景が見えて来なければ、人間がいなければ作品としては欠品であります。反対に地声で歌えば良いのかというとそうでは有りません。
日本の歌はすでに存在しないのではないか、疑問と同時にしかし、残っているのならば、本物を提示しなければなりません。それは、後述いたします。
一月二十六日
 日本の歌の続きです。テレビのコマーシャルソングから聞こえる日本語の発音には耳を疑うものばかりです。生理的嫌悪感を催すのは私ばかりでは無いでしょう。前述しましたが限りなく英語風の発音でローマ字を読んで歌っているのではないか。まやかしともインチキとも言える発音のコマーシャルソングやポップスを否応なしに聞かされるのは精神衛生上はなはだ好ましくありません。sc先生のエッセイ「テレビにはスウィッチがある」を見倣ってテレビを見ない様にしているのですが、それでも耳に入って来る事があるものです。

 民間テレビではコマーシャル時に音量を大きくする設定がしてあります。民間放送連盟では、毎年これを改善すべく本番組との音量差を設けない提案が出されるのですがスポンサー連の反対で毎年、否決されています。音量を下げれば宣伝効果が下がるとのスポンサー側の思い込みなのでしょうが、逆宣伝になる事もあると決断願いたいものです。
テレビを見るなら騒音まき散らしコマーシャルの流れないNHKに限りますね。 
一月二十二日
 昨年末のスマトラ沖大津波ではなんびとも予想し得なかった大規模の被害を出しました。マスコミは移り気で被害者数や疫病の報道が減少しました。この天変地異を「全体とは何か」を捉える格好の機会ですが、あまりにも現実が残酷ですので、実験室で人体実験を平気で行う神経の持ち主でないと全体を把握し得ないのかも知れません。

 朝日新聞虚偽報道事件ですが、朝日の新聞作りのパターンは安保騒動以来変わっておりません。書き得と申しましょうか嘘でも何でも景気よく反体制をブッテいれば左翼陣営の中では恒久に評価される。もし、裁判で負けても裁判官の偏向と批判すれば記事になるのです。永遠に「自己批判」しなくても許される風潮を作り上げたのです。今度は騒動が大きくて完全には逃げきれないでしょうが反省や謝罪の文字は伺えないでしょう。

 安倍晋三氏は朝日新聞に訂正記事の掲載を求めていますがあの会社に訂正記事を求めるのは難しいでしょう。何年か前、つかこうへいが韓国で氏の作品を上演しそれは韓国が日本の演劇を受け入れて、許可する最初の上演で歴史的偉業であると朝日の記事に載りました。しかし、sc先生率いる劇団「昴」が昭和五十四年十月「海は深く青く」を日韓親善演劇交流で上演しております。初日前夜に朴正熙大統領暗殺事件が起こり戒厳令下での公演となったとsc恆存全集の年譜に記載されています。「孤独の人、朴正熙」を帰国後すぐに月刊誌、文芸春秋一月号に書かれている旨を朝日新聞に通知しました。早速、朝日で調べたら、劇団「四季」も唐十も公演していると誤報を認めました。私は、訂正記事の掲載を粘り強く求めたのですが、敵は応じませんでした。抗議するのが私一人では、多勢に無勢で致し方有りません。sc先生の名を聞くと先方が息を呑んだのがなんとも印象に残っております。
平成十七年一月四日
 明けましておめでとうございます。 正月三箇日、関東平野は晴天に恵まれ清々しく正月でした。
大気が澄んで、高所から眺望しますとかなたの地平まで見渡せました。ジーゼル車排気ガス規制のおかげなのでしょう、確実に大気の汚染環境が改善されました。石原知事は総理となるべく決起の年となるのかも知れません。
 北朝鮮に弱みを握られたのか、全く機能しない小泉内閣を崩壊させなければなりません。

「これでいいのか日本の歌。」最初から結論が出ています。良い訳は無いのです。日本人の頭が悪くなりましたが耳も悪くなりました。おまけに腹が黒くなりました。古来、日本人は日常生活のなかにも洗練された美意識を発達させて来ました。それは話し言葉の発音、発声に於いても同じです。日本人の耳が悪くなったと書きましたが環境、すなわち周囲の騒音が耳を悪くさせた一因でもありましょう。
 西洋建築は主に、石とレンガで建築されており、比較的広い空間ですが、わが国のそれは木と紙で、狭く区切られ静かです。西洋建築は声と物音がよく響き、木と紙の環境は音を吸収します。この住宅環境の違いからでも有りましょうが日本語の発音は繊細で美しいという特徴を持ちました。
日本人の美質として、静かな狭い住居空間で相手を思いやり、相手の状態を察知する細やかな気遣いの精神が養われ、言葉遣いが研ぎ澄まされて豊かな言語感覚として結実したのです。音声言語としての美意識へと発達したのでした。
大げさに美意識と言わずとも言葉を自在に操る能力に長けていました。落語の発展、普及をみれば理解して頂けるでしょう。
 ところが現在の日本で消費されている歌の全ては言語の美意識とも言葉を自在に操るレベルとも隔絶しているのが現状です。美意識どころか植民地根性丸出しで皆が、ラ行音を巻き舌で発音しています。横文字を真似るのがカッコイイと思っているのでしょうが。英霊は泣いているぞ、と今日のところは述べておきましょう。

十二月十九日
 なんとかPDFファイルが開ける状態にまで辿り着きました。未だ試運転の心持ちでして、当方の環境では把握しにくい部分もございます。開くまでに時間を要してしまうのでは無いかと危惧します。ファイルを圧縮する対策が有りますので、お気付きの点、御指摘下されば幸いであります。

 福田先生の思想を理解する為の助けになると思える書物があるのですが古本屋で入手できますかどうか。書名は『生き甲斐といふ事』新潮社刊、昭和四十六年初版。有意義と思える書物をホームページで公開して後世に残せる法はないものか。著作権等の問題があるのですが、検討して行きたいと思います。
 インタビュー「反近代について」聞き手は香山健一氏。見本として少し引用します。

福田 「人間棺を蓋ひて事定まる」と言うけれども、実は棺を蓋つても定まっちゃいないのに、二十ぐらいで棺を蓋って自分を位置づけてしまう奴がいるんですね。あるものを絶対化して、イデオロギーで死んでしまったり、ニヒルになってしまったり・・・。生き方が決まってマナリズムになってしまった奴は死んだ人間なんだ。ロレンスに惚れてもこれで終わってしまえばもうこれでその人は死んじゃったんです。(略)
 演戯なしに人生は成り立たない、つまり仮説なしには成り立たない。誰だって必ず演戯しているんです。(略)二人の(人間)関係に真実があるのであって、この真実を生かすために一つのお面をかぶるわけです。真実というのは、一つの関係のなかにあるんです。個々の実態よりはその関係の方が先に存在しているのですからね。人生というのは関係が真実なんで、一生涯自分のおかれた関係のなかでもって動いている、それを私は演戯だというんです。生まれながらに、ある何かを固定的に考えてしまい、いつもそれはかわらないと思っている人もいるけれども、そうじゃないのです。

 以上、一部引用してみましたが、どうもつまみ食いのようでうまくないです。やはり全編掲載に限る様です。
後記で福田先生は語ってゐる対象が社会問題であれ、文学の事であれ、両者を通じて結局は一つ事しか述べてゐない。それが解つて頂ける為に、気軽な浴衣掛けのインタヴューを二つ収録した。とあります。もう一つのそれとは秋山駿氏相手の『文学を語る』です。講談社刊「対談・私の文学」インタビューアー秋山駿にも掲載されていますので古本でも図書館でも手にとり易い本です。