「影の動く音」


 男は薄汚れた水色の制服を緩く着崩し、帽子を目深に被り直した。

髪は肩口まで伸ばされ、明らかに手入れは行っていないと解る。口許と顎を覆う無精髭は、大凡『清掃員』という職業に似つかわしくなかった。耳に宛がわれたヘッドホンからはパーカッションの音が漏れており、相当なボリュームになっているのだろうことを予測させる。

真っ白な軍手は最初の色を所々に残し、あとは黒っぽく煤けてしまっていた。此の男が仕事をしていても、其の場所は全く以って綺麗になりそうにない、そう想っても仕方の無いような外見。
此の雑然とした場所では其の存在も目立たなくなっている。清掃してもきりが無いほど、此の街は汚れており、そして、あまりに人々が多過ぎるのだ。


行き交う人々は皆冷めた目をし、或いは楽しげに笑っている。
何処までが本当で何処までが偽りか。男は其れを見て毎日含み笑う。
表の路地を掃いたゴミを纏め、指定のビニル袋に乱暴に押し込んだ。其れを更に箱に収め、通路脇まで抱えていく。

通りの喧騒も薄らぎ、差し込む光はビルの谷間から少々。そんな場所。男は一段落着くと、大概其処で一服すると決めていた。
胸元から、最近お気に入りのシガレットを取り出し、一本を器用に弾き出す。昨日のパチンコでの戦利品だ。中には十数本ほど残っている。
百円ライターで火を灯した。紫煙を含み、鼻から吐き出す。堪能するように息を大きく吸って、彼は満足げに笑った。

「一服中、失礼する」

頭上から降る重低音。聞き覚えのあるような無いような、そんな声だった。
声の主は丁寧に帽子を取り、一例してみせた。街頭演説で見たことがあった―――代議士秘書。

「此の男を。報酬は望むだけ、チェックを切ろう」

男は慇懃な態度で、コートの内ポケットから写真と、小切手の束を取り出した。
手馴れた一連の動作を睨んでいた清掃員だったが、不意に顔を歪め、嘲るように笑った。

「・・・何のハナシでしょう?」

煙草を咥えていた男は名残惜しそうに指先で揉み潰し、其れを仕舞い込んだ。後でまた吸うつもりなのだろうか。
少々其の態度に腹が立ち、代議士秘書は云う。

「・・・・・・ミスター・KK。此方は前金として受け取ってくれ」

男の裏の名を口にする。其の言葉を聞くと、KKは立ちあがり、差し出されたままの一〇〇万円分小切手を払いのけた。

「キャッシュで頼むぜ、俺は表立って換金だのしたかねえんだ」

第一俺みたいな男に、あんたのところから金が流れたとしれたら、マスコミのいい餌食だぞ。KKは不敵に笑った。


代議士秘書は食べ物を咽喉に詰まらせたように呻いた。咳払い。沈黙が支配した。だがじきに、反対側のポケットへ手を伸ばす。中から札束を引き出し、場に棄てるように放った。KKは其れを拾うと、人差し指で軽く弾いた。一五〇。重さと音で、解ってくるものだ。

「兎に角だ。業界ナンバーワンの腕を見込んで頼む。云わずとも解っていると想うが此のことは」

「他言無用。一応俺の稼業も『信用第一』なもんでね。守秘義務ぐらいあっから、安心していい」

其処まで話し合うと、代議士秘書はこそこそと立ち去った。そして矢張り、何事もなかったかのように、あの雑踏へ紛れていくのだ。


写真を改めて眺める。SG(セキュリティ・ガード))の固さで有名な政治家だった。前金一五〇万は安かったか、KKは舌打ちした。
まあ、いい。成功させれば、倍は要求してもいいだろう。ライバルを葬ってやるのだ、其のくらいの"誠意"は期待したい。

KKは立ちあがり、其の飄々とした風体からは全く想像の出来ない男へと変貌する。
夜の闇に紛れ、彼は、本物の『掃除屋』となるのだ。
今までに失敗したことは、一度といってない。任務だけは、真っ先に遂行するのだ。
無論、其れに伴って傷を負ったことくらいは、ある。然し総て致命傷には至らず、前線にも数日から数週間で復帰できることが多かった。

所属している『清掃局』の更衣室で私服に着替えると、転々と移り住んでいる自室のひとつに戻った。目立たない黒のジャケットを羽織り、中もボーダーのトレーナーに着替えた。口許の髭は剃らない方がいい。急激な変化はかえって不自然だ。風などで煽られると面倒なので、後ろ髪もゴムで束ねた。帽子はアーミーハンチに変え、鏡の前で一度確認する。印象に残ると面倒だからだ。ヘッドホンは飾りのキャップだけを外し変え、素の黒い状態にする。
ズボンは改良した作業着。スラックスとも布パンツとも取れるような具合にしてあれば、万一目撃されたとしても証言にばらつきが出るからだ。
・・・KKは反射した自分の顔を、改めて拝んだ。眼は翳り目立たないが、其の光は強い。淡々としており、其れこそ、彼が『其の世界の』人間であることを証明していた。


「・・・・・・・・・・・・・バン。」


真っ直ぐに自身と向き合い、人差し指をぴんと伸ばす。額のど真ん中を指していた。目蓋を閉じ、思い浮かべるのはトカレフ。
夕闇の中で笑う姿。俯いた所為で、其の顔は暗い闇の底へと紛れた。
下り電車の乾いた轟音。KKは口許だけで笑い、鍵をかけて部屋を出た。


 午後九時半。ダイコクホテルの十七階に予約を入れていたターゲットは、矢張り窓からの狙撃を赦してはいなかった。
閉めきられたカーテンの前では、流石のKKも手を出せない。其処で今回は、潜入型にしようと試みた。
有名ホテルのためセキュリティなどはしっかりしているものの、彼の持つ偽造ID技術―――正しくは、彼自身の力ではないが―――に勝るものは無い。あっさりと従業員として、侵入を果たす。
挨拶をしてくる気さくなクルー。KKは簡単に会釈をし、口だけ笑った。荷物は総て、ルームサービスのカートに隠してある。

十七階。エレベーターの電子音。開かれた鉄の扉をゆっくりと出、カメラの位置を確認した。両端、そして回廊の真中にひとつずつ。
総てを避けるように、俯いたまま部屋へ向かう。鬘を被り、襟足を剥き出しにし、眉潰しで髭も覆い、念の為に其の上からドーランを塗ってある今、彼はダイコクホテル従業員の一人、倉田慶介だ。偽名は幾つもあるが、此れが一番使い勝手がよかった。
一七〇五―――プレートにそう書かれた部屋に辿り着く。木を隠すなら森、と、普通の部屋をとっているのだ。中では恐らく、空手や剣道の有段者など、物々しい雰囲気のSPが居る筈だ。ホテル側も其れを気遣い、余計な手出しはしない。
だが、此処で手出しをしなければ、彼の仕事は此処で終わってしまうのだ。
KKはドアを軽くノックした。返事が無い。もう数度繰り返すと、中から苛立った殺気が伝わってきた。

最低でも、六人。然し彼から見て『手練れ』と呼べそうな人間は、居そうに無い。
唯、一般からすれば何れも、優れたボディガードなのだろう。だが、KKの退屈を紛らわすことの出来そうな人材は、居なさそうだった。
内側から乱暴に開かれたドアは、チェーンがかけられていた。頬に傷を負い、頭をパンチパーマにした『如何にも』な男が見えた。其の眼は充血している。

「ルームサービスです。以後も当ホテルをご贔屓に・・・」

「五月蝿え、さっさと帰れ。んなもんはいらねえ」

恫喝するような口調。聴き慣れた其れに、KKは溜息をついた。

「ですが・・・お客様、折角ですから」

其れとなくドアへ歩み寄る。見えないように腰に下げてあった催涙弾を中へと放る。ドアを閉め、中で充満を煽った。催眠効果もあるため、大抵は数分とかからず皆、無防備な姿を曝け出してくれる。

念の為二分―――長過ぎるくらいだ―――おき、もう一度扉を開いて、中へと押し入った。チェーンは改良済みの小型バーナーで焼き切る。KKは咽喉元に隠しておいた折りたたみのガスマスクを身につけた。

皆、泥のように眠っていた。そして若し意識があったとしても、脳天からつま先まで、全く躰が言うことをきかないはずだ。
ターゲットは、無様に、組み立て式のロッキングチェアで眠っていた。片手からはワイングラスが落ち、深紅の液体を床へぶちまけている。

「そんなに寝たけりゃ」

標的の額の中心へ、愛用のトカレフを突き付けた。といっても其の外見は、窓拭き用のワイパーにしか見えなかったが。

「遠慮なく、ネンネしな」

容赦なく撃ち抜く。脳漿と血液とを散らし、其れは事切れた。
転がった巨体たちをずかずかと乗り越え、KKは颯爽と部屋を出ていった。
総ての変装を解き、ちょっとしたボストンバッグを抱えた、『客』の一人として。


 数日後、KKは依頼主に呼び出された。
場所は四番埠頭。深夜は人気も少なく、金の受け渡しには適している。
約束の時刻、冷たい風の吹き荒ぶ中、KKは待った。

「お待たせ致しました。約束の、報酬です」

倉庫の裏から、代議士秘書が現れる。ジュラルミンケースの中には、一〇〇〇万が収められていた。

「ああ」

電話連絡を寄越し、幾ら欲しい、と尋ねられ、KKは其の金額を要求した。此れでも良心的な方だと、彼は想っている。

「其れを放れ」

命じたが、秘書は動かなかった。おかしい。直感した其の瞬間、身を捩らせるKK。
殺意の篭もった銃弾が、横っ腹を掠めていく。服だけを裂いた其れは、彼方へと消えていった。

「使い捨てか」

銃を撃ったのは別な人間だと、直ぐに解った。気が違う。

「矢張り貴様を敵に回すのは、恐ろしい。金を積んだところでおまえは、専属のスナイパーにはならんだろう」

冷たく放たれる言葉と、海風がリンクしていた。次は彼の頬を横切っていく。熱い感触が過ぎたかと想うと、僅かに血が滲み出した。
やるねェ、と小さく笑うと、KKは素早く銃弾を避けつつ、ジュラルミンケースを奪い、秘書の首を軽くへし折った。延髄のツボをつけば、人間と云うものは意外なまでに脆い。

「雇い主は死んだぜ、同業者さんよ」

言い捨て、KKは走り、其の姿を闇へと溶かした。
あまりにあっけない決着。そして関係者の死亡。
最も、KKには何の関係もないことだ。其れよりも、早く、帽子にマークをつけたかった。
最近、趣味ではじめたのだが、請け負ったターゲットの数だけ、星マークをマジックで書き込むことにしているのだ。
恐らく死体は、雇われていたもう一人が処分したことだろう。
思考は完全に、撃墜マークへと奪われていた。


―――翌日のニュースに、『代議士殺人事件、犯人はライバル政治家の秘書か』という見出しが踊ったことは、云うまでもない。