「空蝉の哭く声」


日差しは緩く、空気は冷めきっていた。

師走。彼はノートを高々と頭上に掲げる。其の雑記帖は宛ら、神へと手向けられた反旗。
街でも有数のアーケードモールを見下すことの出来る其の場所は、彼の気に入っている場所のひとつだった。

風は常に優しく凪ぎ、彼に暖かい匂いを運ぶ。季節の移り変わりの何もかもが、地肌に直接食い込んでくる此の丘は、誰にも教えたことのない場所だった。

彼は分厚い長方形の眼鏡をなおすと、朝露の凍った雑草を踏みしめた。履き古したスニーカーの底にはきっと、今潰した名も知らない草がしがみついているだろう。


青年は、誰よりも自然だった。ごく普通の、云い方を悪くすればごく平凡な、帽子と眼鏡をかけていること以外は特別目立った特徴も無い、そんな青年。
強いて顔の特徴を挙げるならば、多少えらが張っているくらいだろう。其れも、普通より少しわかるか解らないか、其の程度だ。
軽く羽織ったスカジャンは彼の世代ならば珍しいものではない。眼に焼き付いて離れなくなりそうな青色が流行りだ。
彼はあまり着込むのが好きではない。簡単な防寒だが、懐炉を忍ばせているくらいで、あとは其のスカジャンくらいなものだった。
歩きながら俯き、ノートを開く。『踊る人形』に出てくる暗号よりも酷い其れは、文字と呼ぶにはあまりに申し訳無い。だが彼には読めるらしく、其のあまりの癖字を直そう、という気にはならないようだ。


息を吐き出すと、ページに反射してレンズが曇った。顔を上げ、空気を循環させ、結露を失せさせる。もう一度俯き、胸ポケットに差し込んだボールペンで書き込んでいく。訂正するときぐちゃぐちゃに塗り潰してしまうことも、ノートの内容を読めなくなる一因らしい。
空に浮かぶ雲を見やると、丁度太陽の前を通過するところだった。僅かに翳るが、空の帝王に勝るものはいない。彼は僅かな不機嫌さを感じた。

『 空は青く 空気は白く
 僕は僕で在り続け 君は君で在り続け そんな当たり前の日常
 日の光という王様と 三日月のように尖った君
 巡り会い 僕たちは 互いを選んだ 』

澄んだ空気を其の侭写し取ったような言葉の羅列。丘を下りながら彼は、更に続きを書き込んでいった。



『 そして君は一日の終わりを見る 僕が其処に居る 君の手を握る
 君と一緒に居たい 一緒がいい だから一日の終わりを 』



ペン先がすらすらと帳面を這っていく。次々と生み出される詩篇。誰かを口説き落とすような文句。
すう、と息を吸い込み、彼は立ち止まった。酸素を存分に得、吐き出す。木々がしているのとは全く逆の行為。
手がかじかみ、彼はペンを仕舞った。いいフレーズが出てこない。文章は、其処で止まってしまっていた。
溜息。真っ白く空気に流れていく。スカジャンのポケットに手を突っ込み、茫洋と空を眺める。入れた指先に感じた、懐炉以外の触感。

薄い紙切れだった。レシートの裏に書かれたメモ。思い出し、彼は其れを引き出して見つめた。


―――ターゲット×××、乾物のコスゲヤ前で始末されたし


名と簡単な出没する場所。其れだけで彼は、豊かな発想力と想像力を生かし、的確に標的を仕留めて行くのだ。
目的地に着く前に、大手チェーンのコーヒーショップに入った。紙コップに入ったキリマンジャロは、薫り高く煙を上げている。ノートを小脇に抱え、彼は少しずつ其れを飲み始めた。
問題の店の前を通りかかる頃には、コーヒーは半分以下に減っていた。ぬるくはなっていない。一度に多く飲んだ成果だった。
舌を火傷せぬよう気遣ったのだが、仕事前の目覚ましに一杯、というつもりだったためか、必要以上に口にしていたらしい。寒さもあるだろう。
彼は身を縮め、寒そうにしながら店の前を歩いた。
空気がモノクロになる。其の世界の中で、唯一色を持った存在。


―――標的


何も無かったかのように、唯の通行人として、彼は『其れ』の隣を通過する。サイレンサーのついたデリンジャーが命を奪った頃、既に彼は雑踏に紛れていた。
広い公園まで歩いてくると、彼はベンチに掛け、またペンを取った。
今度は最後までを、一気に書き記す。

『 一日の終わりを 太陽が血を流して沈みゆく様を 一緒に此処で見よう 』

詩人であり、暗殺者でもある。
暗殺者であり、詩人でもある。
対照的な其れらの名を持ちながら、今日も蜩は何処かで、哭いている。