山下公園を歩いていると、たくさんの鳩とかもめの姿を見ることが出来る。鳩は人間からえさを貰うことに慣れ、我が物顔で公園中を歩き回っている。人間が食べ物を持っていようものなら、目の前でホバリングをしてまでえさを貰おうとする。よくよく観察していると、鳩は絶対に海の方へ飛ばないし、かもめは海の上の建造物にしか停まらない。海と陸との間に張り巡らされたほんの小さな柵によって、テリトリーがはっきりと分かれているようだ。まあ、私が知らないだけで、時々はお互いのテリトリーにはみ出すこともあるのかもしれないが・・・。
御手洗がたまには山下公園方面にも散歩に行こうと言うので、渋々ながらもついていくことにした。馬車道から山下公園までは、1kmという標識が出ている。散歩するにはちょうど良い距離かもしれないが、普段はなかなか歩いていく気にはならない。
公園に着いて、しばらくベンチで休むことにした。案の定、鳩が人間の足元を平気で闊歩している。糞でも落とされたらえらいことになるので、頭の上を飛ばないか気にしながらも、午後の日差しにキラキラしている海の方を見つめていた。柵の向こうのエリアはいつものようにかもめのテリトリーだ。
平日にもかかわらず、いつも山下公園はそれなりに人があふれている。観光客もいるにはいるが、普通のサラリーマンや学生もいる。一番多いのは、若いカップル達かもしれないが・・・。
時折、子供連れのファミリーもいる。見ると、犬を連れた小学校低学年くらいの男の子とその両親が、絵に描いたような幸せそうな光景を繰り広げていた。犬好きの御手洗が、にわかに目を輝かせて見ていた。そして、もの欲しそうな目で、私の方を振り返った。
「だめだめ、犬は飼えないっていつも言っているだろう?」
「別に、飼ってくれなんて、言ってないじゃないか。」
御手洗は、不満そうに口を突き出して、それでもなお犬の姿を目で追いかけていた。彼には幸せそうな家族の図なんてどうでもよくて、犬のことしか頭にないのだろう。
ふと、その家族のことをじっと見つめているもうひとつの視線に気づいた。見ると、その家族の男の子と同じ年くらいの女の子が、なんだかうらやましそうにじーっと家族を見ている。短いスカートの下に、かなり厚手の飾り気のない黒いタイツをはいた、棒のような足のやせっぽちの女の子だ。まわりにはその子の保護者など、見当たらなかった。だからと言って、もちろん浮浪者などの類であるわけではない。御手洗もすぐにその女の子に気づいた。
「やあ、きっとあの女の子も犬が欲しいんだね。」
「そうかなあ、みんながみんな、自分と同じだと思わないほうがいいんじゃないか?」
御手洗は私の言うことなど聴こえないふりで、立ち上がってその女の子の方へ歩いていった。私も仕方なく、せっかく根の生えかけたベンチを立って、御手洗についていくことにした。
「ねえ、君も犬が欲しいんだよね。」
女の子は急に知らない"お・じ・さ・ん"に話し掛けられて、ちょっとびっくりしたようだった。少しおびえたような目で御手洗のことを見ている。
「何も怖がらなくてもいいんだよ。僕は御手洗。こっちにいるのは石岡君。僕も犬が欲しいんだけどね、石岡君がどうしても飼っちゃだめだっていじめるんだ。」
「えー、いじめるの?」
女の子がちょっと敵意のこもった目で私のことを見た。
「いや、何言ってるんだよ御手洗、子供の前で〜。」
「ね、君も犬が好きなんだろう?」
「うん、大好き!」
「君のママは犬を飼わせてくれないの?」
「うん、うちのマンションは、犬を飼っちゃいけないんだって。」
「はー、いまどき犬を飼っちゃいけないなんて、時代遅れもはなはだしいマンションだね。どうだい、この際一軒家に引っ越すっていうのは。」
「何無理なこと言ってるんだよ〜。」
「あのね、ひかり、前は一軒家に住んでいて、マリアっていう犬を飼っていたの。でも、ママが新しいパパと暮らすことになって、マリアを置いてマンションにお引っ越ししたの。ひかり、いつも今ごろの時間になると、マリアを連れてお散歩してたんだ。でもね、ひかりの本当のパパのお家は遠いから、もう、マリアには会えないの。」
ひかりちゃんは悲しそうに目をふせた。御手洗はさすがにバツが悪そうに語りかけた。
「あのね、ひかりちゃん、もし良かったら僕のお友達の犬を散歩させてくれるように頼んであげようか?」
「本当?」
ひかりちゃんはいつのまにか涙でいっぱいになっていた目を上げた。御手洗の言う"お友達"というのは、当然飼い主を指すのではなく、犬のことを指すのである。
「うん、どんな犬がいい?」
「あのね、毛が長―っくって、おおっきーな犬!」
「うーん、それなら『オールドイングリッシュ・シープドック』のシルバーなんてどうだろう?ここからちょっといった所のペットOKのマンションに飼われているんだ。とってもお利口な犬だよ。飼い主は、なんて名前だったかな〜。とにかく、今から行ってみようよ。」
「こらこら、この子の親が心配するかもしれないだろ、って、こら〜、たまには僕の言うことも聞け〜!!」
御手洗は私の言うことなど聞かず、さっさとひかりちゃんの背を押して行ってしまった。ちなみに御手洗はご近所の家を、飼われている犬の名前で覚えていたりする・・・。
その日以来、ひかりちゃんは毎日そのくらいの時間になると、シルバーの散歩をしているようだった。時々、私も御手洗に散歩に連れ出されて彼女に会ったりもしたし、馬車道の方へ散歩に来ることもあった。御手洗は私の知らない日もしょっちゅうひかりちゃんとシルバーの散歩に付き合っているようだった。やせっぽちのひかりちゃんよりもはるかに体重のありそうな大きなシルバーは、その大きさに似合わずとてもおとなしい犬で、ひかりちゃんにも御手洗にもよくなついていた。
「玉ちゃん、こっちこっち!」
女の子は何故かシルバーのことを、時々玉ちゃんと呼んでいた。シルバーも、そう呼ばれるのに何故か慣れていた。「タマ」なんて、なんで猫みたいな名前で呼ぶのか聞いてみたが、
「えー、シルバーって言ったら、玉ちゃんじゃな〜い。」
「そうだよ、シルバーって言ったら、玉ちゃんだよ。」
と、二人にそっけなく言われてしまい、よけいにわけがわからなくなった。いまだにどういう意味なのか、さっぱりわからない。二人の会話に入り込めず、ちょっと疎外感を感じて、さみしかった。まるで鳩である私が、彼女と御手洗のかもめのテリトリーに踏み込めないかのような感じがした。
最近馬車道に、とらふぐちり鍋屋の『とらふぐ亭』というのが出来た。看板に大きく「1980円」などとうたってあるので、安いせいか開店の日などはかなり長い行列が出来ていた。通りに面してふぐがたくさん入れられた生簀がある。何故かふぐたちは、いつもみんなかたまったかたちでこちらを向いていて、なかなかに不気味なので、私はなるべくみないようにしていつもそこを通り過ぎている。
しかし、御手洗とひかりちゃんはそのふぐたちが気に入ったようで、しょっちゅう生簀をのぞきながら、ふぐに名前をつけたりして遊んでいた。どうせ2、3日中にはみんな食べられてしまう運命にあるというのに。
「あの、一番大きいのがブラックね。」
「あのいきのよさそうなのは、ブルーかな。」
「こっちのおっとこ前なのが〜、レッド金子!」
「あははは、でも、シルバーの方が男前だろ?」
「う〜ん、でも、どっちも男前だよ。ね、玉ちゃん?」
レッド金子?お笑い芸人か何かの名前からつけているんだろうか?ここでもまた、私は仲間外れなのであった・・・。
そんなこんなで私はどうせ二人に仲間はずれにされるのがオチなので、しばらく二人の散歩には付き合わないでいた。書かなければならない原稿もたまっていたし、執筆活動に専念することにしていた。
ある日の夕方、御手洗が散歩から帰ってきて、妙なことを言った。
「最近、ひかりちゃんはずーっと手袋をしているんだ。」
「手袋?別に最近寒いんだから、手袋をしていてもおかしくないじゃないか?」
「でも、シルバーをなでてやる時も、ずーっと手袋をしたままなんだぜ?その前はちゃんと素手でかわいがってあげていたのに。」
「そうなのかい?別に、はずすのが面倒なだけなんじゃないのかな?」
「そうならいいんだが・・・。」
御手洗は心配そうに黙ってしまった。私はその時、彼が何を心配しているのか、皆目見当がつかなかった。
それから数日後、私がそろそろ夕飯の買い物にでも行こうかと思っている頃、御手洗が血相を変えてシルバーと共に帰ってきた。
「石岡君、一緒に来てくれ!」
「どうしたんだい、何かあったのかい?」
「ひかりちゃんが、いつもの時間になっても来ないんだ。」
「え?そんなことでそんなにあわてなくても、何か用事か何か、出来たんじゃないのかい?」
「とにかく、一緒に来てくれ!」
御手洗は強引に私の手をひいて連れ出そうとしたので、私はあわてて靴に足をひっかけた。
「シルバー、ひかりちゃんの家に連れて行ってくれ!」
「なんだよ、ひかりちゃんの家も知らなかったのか?」
「迂闊だったよ、こんなことになるなら、もっと早く彼女の家に行っておくんだった。」
シルバーは全く迷いもせず、私達を引っ張っていく。
「おい、御手洗、どういうことなのか説明してくれ。」
「昨日、彼女はかすかに足を引き摺っていたんだ。」
「足を?何か怪我でもしてたのかい?」
「その前から、ずっとおかしかったんだ。石岡君、彼女がどうして小学生の子供らしくもない分厚い黒いタイツを始終はいていたり、最近では手袋をずーっとしたままだったのか、わかるか?」
私は何もわからずに、ただ首を横に振った。
「虐待だよ、彼女は虐待を受けて出来た傷を、タイツや手袋でかくしていたんだ!」
御手洗はそれきり黙って、シルバーの後を黙々と走っていった。シルバーは横浜スタジアムの横を抜け、中華街の門の近くを通り、元町方面にひた走った。普段、運動をしていない私は早々に息があがり、必死の形相でついていった。冬だというのに汗がだらだらと背筋を流れた。御手洗もさすがに辛そうな表情になってきた。
「御手洗、本当にこっちでいいのか?ひかりちゃんはこんなに遠くから毎日来てたのかな?」
「石岡君、今はシルバーを信じるしかないよ。」
シルバーは元町の裏通りまで来て、急な坂をのぼり始めた。ここまで走ってきて、さらに坂をのぼるのは、まるで地獄のごとく辛かった。口で冷たい息を吸うとよけいに肺が苦しくなり、のどはからからで針をさされたように痛かった。それでも御手洗はシルバーについて走り続け、私も少し遅れながらもよろよろと走ってついていった。
やがて、シルバーは古びた団地のような建物の前でいったん停まった。そして、くんくんとにおいを嗅ぎ始めた。私達は、よろけながら、ぜいぜいと息をしながら立ち止まり、シルバーの様子をうかがった。
「み、御手洗、ここがひかりちゃんの家なのかい?とてもマンションにはみえないけど・・・。」
「まあ、マンションなんてのは、親がマンションだと言えば子供はそう信じこんでしまうものだからね。どんなぼろいアパートだって、マンションと呼んで悪いわけではないだろうしね。」
すると、突然シルバーが『マンション』に背を向けて再び走り始めた。私達は学校の部活動でしごかれる運動部員のような気分で、もつれる足で再びシルバーの後を追った。
「さっきのマンションじゃないのかな?」
「うーん、でも、シルバーはひかりちゃんの臭いを見つけたようだ。」
「御手洗、ひかりちゃんは誰から虐待を受けていたんだ?親か?それとも学校でのいじめか?」
「おそらく、継父からだろう。」
シルバーは時々臭いを確かめては走り、走っては臭いをかいでを繰り返した。程なくシルバーは大学の構内らしきところに入っていった。
「おい、御手洗、ここは里美ちゃんの通ってる、セリトスじゃないか?こんなところにひかりちゃんがいるわけはないよ。」
「いや、僕はシルバーを信じる。」
御手洗はシルバーの後を追って、大学の構内に入っていった。私も仕方なく、後を追った。幸い、学生とはほとんどすれ違わなかった。シルバーは臭いをたどるように歩いて行き、蔦の絡まる建物の入り口の前で停まってこちらを振り返り、激しく吠えたてた。
「この中か?」
御手洗が入り口のドアを開けると、シルバーはすかさず建物の中に滑り込んだ。私達も後を追って中に入ると、そこはどうやら大学の礼拝堂のようだった。十字架にかかったキリストの像が見える。シルバーはと見渡すと、象牙色の、優しい笑みをたたえたマリア像の下で、激しく吠えていた。
御手洗と共に駆け寄ると、そこにはなんと、ひかりちゃんが倒れていた。彼女はお祈りをするように両手を胸の前に組んだままぐったりと横たわり、死んだように身動きひとつしていなかった。見ると、か細い指を組んだその小さな手の甲には、タバコを押し付けたような火傷の痕が、生々しくついていた。
私達はすぐにひかりちゃんの生死を確かめた。幸いにもひかりちゃんは呼吸をし、心臓も微弱ながら動いていた。見つけたときは本当に死んでしまっているのかと思ったので、彼女の鼓動を確認したときは安堵の息がもれた。すぐに救急車を呼ぶと、たちまちセリトスの女子大生達の野次馬の壁が出来た。
「先生、何があったの?」
里美が私達を見つけ、人垣の向こうからかき分けるようにして出てきて言った。私が、なんでもないんだよ、と言うと、「その子、よく礼拝堂でお祈りをしているのを見かけたよ。」と言った。里美の指には、私がクリスマスにあげた指輪が光っていた。
私がひかりちゃんと一緒に救急車に乗って病院へ先に行き、御手洗はシルバーを飼い主の元へかえしてから病院へ駆けつけた。ひかりちゃんは救急車の中でも一度も目を覚まさなかった。診察室へ入ってだいぶたって、御手洗も病院へ駆けつけてから、二人で医者に呼ばれた。まず、ひかりちゃんとの関係を聞かれたが、その後ひかりちゃんの虐待のあとについておおざっぱに聞かされた。体中に、斑点のようにタバコの火傷の痕や殴られた痕があること、そしてひかりちゃんは今、腹部をうたれて肋骨が折れた状態で、もう少し発見が遅れていたら命にかかわったかもしれないと言われた。
その日はそれで、目を覚ましたひかりちゃんに会うことは出来ず、二人で馬車道の家に帰った。なんだかとてもやりきれない気分だった。御手洗はずっと黙ったままで、家に着いたらまっすぐに自室に入り、閉じこもってしまった。私も、何もする気にも、何も食べる気にもなれず、その日はそのままベッドに入ってしまった。それでもなかなか眠ることは出来ず、ずっとひかりちゃんのことを考えていた。彼女はいったい、どんな目に遭っていたというのだろう?私達に会うときは、いつも明るく元気に見えた。痩せ細ってはいたが、そんなひどい環境に暮らしているようには見えなかった。御手洗にしても、毎日のように一緒にいて、少しおかしいと思うことはあっても、結局今回の事に至るまで、気づくほどではなかったのだ。でも、彼は自分を責めているだろう。私はそんな友の気持ちを思うと、よけいにやりきれない気持ちでいっぱいになった。
翌日、明け方になってやっと眠りについた私は、目を覚ますのが昼の12時近くなってしまった。起きるともう、御手洗は部屋にいなかったので、簡単にあるもので食事を済ませて、ひかりちゃんの病院へ向かった。受付で聞くと、もう一般の病棟に移っているとの話だった。病室へ入ると、すでに御手洗が来ていて、ひかりちゃんにしきりに話しかけていた。
「それでね、シルバーは大活躍だったんだ!馬車道からずっと僕らをひっぱって走り続けてね、あの礼拝堂に辿り着いて、大きく吠え立てたんだ!そして、ひかりちゃんの元へ、まっすぐ飛んでいったんだよ!」
ひかりちゃんはまだ口がきける状態ではないらしく、目だけで表情をつくっていた。御手洗の話を必死で聞いていることだけはよくわかった。
「ひかりちゃんにどんなことがあっても、きっとシルバーは助けに来てくれるよ。だってシルバーはヒーローなんだからね!!」
ひかりちゃんの目に、かすかに笑みがわいた。そこへ、看護婦につれられて、30代後半くらいのまじめそうなサラリーマン風のスーツ姿の男性が入ってきた。明らかに心配そうな、焦った様子が見てとれる。
「ひかりちゃん、お父様がお見えですよ。」
一瞬、虐待をした本人かと思い、身構えてしまったが、御手洗はそっと私の肩をたたき、「外で待っていよう。」と言った。私は御手洗に促されて、病室の外へ出た。
「御手洗、あの人が・・・。」
「石岡君、違うよ、あの人は彼女の本当の父親だ。昨日、医者は警察に彼女の虐待のことを届けている。今頃、彼女の義理の父親は、警察で事情聴取を受けているだろう。」
私は、少しほっとして、胸をなでおろした。
「彼女は何故、虐待なんか受けていたんだろう?」
「石岡君、最近不景気のせいで、女性の就職先が極端に減っている。仕事がなければ女性が望むのは永久就職だろう。しかし、男は男で、結婚したくない男が増えているんだよ。何しろ、一人は気楽だし、食事はコンビニ弁当で充分だという味覚音痴も増えているからね。すると、女がとる最後の手段は子供をつくることだ。最近は気持ちがいいからという理由で避妊をしない若者が増えているそうだが、それも女性が男性に吹き込んだまやかしかも知れないね。今ではいわゆる『できちゃった婚』というのは、実に結婚の4割をも占めてしまっている。けれど、そんな無理矢理婚は長続きするわけがない。当然離婚率は増え、さらに若くして子供を連れて再婚する夫婦も増えてきている。
しかしね、男というものはただでさえ子供に対して、自分の子供であるという自覚や責任が薄いものなんだ。ましてや明らかに自分の子供ではないものなど、なかなか愛せるわけがない。それで自然と、子供を虐待する"ママチチ"が、たくさん出てきているというわけさ。」
御手洗は一気にそこまで喋って、息をついた。
「ひかりちゃんの継父の場合、さらに最近、会社でリストラにあったんだそうだ。まだ20代後半らしいから、再就職先もありそうだと思うかもしれないが、毎日職安に通いつめても、ちっとも就職先は見付からない。ひかりちゃんの母親も、当然家計のために働き詰めで、昼間全く家にいなかったそうだ。その間、イライラの募った父親と、ひかりちゃんは二人っきりになることが多かった。母親もうすうす虐待に気づいてはいたんだろうが、若いその男におぼれていたためか、そのまま黙認していたらしい。」
「そんな、母親が子供を守らないでどうするんだよ!」
「石岡君、女っていうのはね、恋に狂ってしまうと、自分の子供よりも男を選ぶものなんだよ。」
私はそんなことは信じたくない、有り得ないで欲しいと思った。しかし、現実に目の前でこのようなことが起こってしまっているのだ。実際、今一番ここにいなければならないはずの母親の姿が見えないことからも、御手洗の言っていることは正しいのだろう。世の女性がすべてそうだとは思いたくないし、男性もすべてがこんな風に虐待にはしるとは思いたくない。でも、そういう人間が増えてきてしまっていることは事実なのだ。世の母性は、世の父性は、一体どこへいってしまったのだろう?ひかりちゃんはきっと、あの礼拝堂の母性の象徴であるマリア様に、助けて欲しいと祈りをささげていたに違いない。
病室からひかりちゃんの父親が出てきて、私達の方へやってきた。
「ひかりを助けてくださったそうで・・・。」
彼は、目を硬く瞑って、頭を下げたまま、しばらく動かなかった。御手洗が彼の肩に手をかけ、「場所を変えてお話しましょう。」と言った。
私達は病院の応接コーナーに移って、ソファーに腰をおろした。御手洗が缶コーヒーと、自分用にココアを買って、持ってきてくれた。父親は、必死で涙をこらえているようだった。「ありがとうございます・・。」と言ってコーヒーのプルトップに指を掛けたまま、ずっと押し黙っていた。しばらくして、意を決したように語り始めた。
「私は普段から仕事にばかりかまけて、なかなか家庭をかえりみることをしませんでした。それでもひかりを自分なりにかわいがっていたつもりですし、たまに休みがとれると、必ずひかりをどこかに連れて行くようにしていました。ひかりが犬が欲しいと言えば、買い与えましたし、ひかりはそれをものすごく喜んで、一生懸命犬の世話をしているようでした。しかし、私と妻の間は正直、冷え切っていたんです。」
彼は缶コーヒーのプルトップをひくと、コーヒーをごくりと一口飲んだ。
「妻に新しい男が出来たことを知った時、正直私には妻を叱る事も何も出来ませんでした。ただ、妻と別れるにしても、ひかりとは離れたくない。そんな思いでずるずると暮らしていましたが、妻は次第に家事をしなくなり、私のいない時間に男を家にひきいれたりもするようになりました。私はこのままで良いわけはないと思い、ついに離婚を決意したのですが、妻は当然、ひかりをひきとりたいと言いました。」
彼の瞳から、涙がひとすじ流れ落ちた。
「私は毎日仕事の帰りが遅かったし、ひかりはまだ小学校にあがったばかり、とても一人で家に置いておくことは出来ないと思いました。周りも子供は母親と一緒にいるのが一番だという考えでした。それで私は泣く泣く、ひかりを妻にわたすことにしたんです。でも、まさか、こんなひどいことになるなんて、こんなことなら誰かお手伝いを雇ってでも、ひかりを私の側に置いておくべきでした・・・。」
ひかりちゃんの父親は、もはや号泣状態だった。私も思わずもらい泣きしていた。御手洗の目にも、きらりと光る涙が見えた。
「お父さん、子供を引き取る勇気も必要ですよ。まだ遅くなんかない。男が子供を育てた方が、良い場合だってあるんです。」
「はい、私はもう、決してひかりを手放しません。」
彼は強い口調で言い切った。御手洗は、不意に思い出したように聞いた。
「そうだ、マリアはどうしています?」
「ああ、マリアは元気にしています。私はマリアをひかりだと思って、一生懸命世話をしてきました。どんなに遅く家に帰っても、散歩を欠かしたことはありません。」
「お父さん、それなら大丈夫ですよ。ひかりちゃんとマリアと一緒に、やっていくことが出来ますよ。」
私の言葉に頷く彼の目には、固い決意が見てとれた。子供を育てていくということは、並大抵のことではないのだろう。大人たちはもっと、強い責任をもって、子供を産み、育てていかなければならない。安易に子供をつくり、家庭をつくったり崩壊させたり、人間とは実に勝手な生き物だ。命を誕生させるということは、もっと重いことなのだと、私は強く感じた。
「先生!御手洗さん!」
不意に声を掛けられて振り向くと、松葉杖をついた長身の青年が上から見下ろしていた。大器君だった。ずっと車椅子に座った姿しか見ていなかったので、2メートル近くはあるだろう、立ち上がった彼の長身は圧巻だった。
「よう、大器君、松葉杖で歩けるようになったのかい?」
御手洗は嬉しそうに立ち上がり、普段人を見上げる事などほとんどないであろう彼の長身から大器君を見上げた。私もつい嬉しくて、立ち上がって彼を見上げた。
「リハビリ、がんばってるのかい?」
「はい、おかげさまで杖をついてなら、歩けるようにもなりました。」
「すごいなあ、これならすぐにバスケットが出来るようになるかもね。」
「僕もはやくバスケットがしたくて、うずうずしてるんです。」
彼のすがすがしい笑顔を見て、私は暗い気持ちがいっぺんに吹き飛ぶような心地がした。はやくひかりちゃんも立ち直って、こんな笑顔を見せて欲しい。御手洗も久々に、心から嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
それから何週間かして、ひかりちゃんは退院し、正式に実の父親に引き取られることになった。彼女がマリアと父親と暮らす家は、相模原の方にあるらしい。彼女が遠いと言っていたわりには、大人の私達からすると案外近くだったので、これなら時々遊びに行ったり来たりできるな、と思った。ひかりちゃんはマリアにはやく会いたがってはいたが、シルバーと別れるのも辛いようだった。
私達とシルバーにお別れを言いに来たときも、涙を流しながらシルバーに抱きつき、しばらく離れなかった。彼女の心についた傷は、いつか薄れていくと信じたい。しかし、彼女の体についた傷痕は、一生消えることはないだろう。年頃になり、いつか彼女も恋をするだろう。そんな時、彼女は自分の体についた傷痕を、どう思うのだろうか?それを思うと、心が痛んだ。彼女は父親に手を引かれ、いつまでも、私達の姿が見えなくなるまで、もう片方の手を振りつづけた。シルバーも、悲しそうに、彼女の姿をずっと目で追っていた。また会えるよ、シルバー。君はずっと、彼女のヒーローなのだから。
私はずっと疑問だったことを、御手洗に聞いてみた。
「そういえば、レッドとかブルーとか玉ちゃんとかって、あれは一体なんだったんだい?」
「ああ、あれかい?彼女はね、子供番組の『百獣戦隊ガオレンジャー』が好きだったんだ。レッド、ブルー、イエロー、ブラック、ホワイト、シルバーと、六色の戦士が出てくるんだ。玉ちゃんとか、金子とかっていうのは、それをやっている役者さんの名前だよ。いやー、しかしね、僕も仮面ライダーぐらいは多少知っていても、ガオレンジャーの話はついていくのが大変だったよ。またインターネットでリサーチしてね、彼女の話に必死で合わせていたんだ。」
御手洗はあくびをしながら、シルバーをひいて歩き始めた。私はつい、嬉しくなって、言ってしまった。
「なあんだ、御手洗も、僕とおんなじ鳩だったんだね。」
「鳩?何のことだい、石岡君?」
御手洗は不思議そうな顔で私を振り返った。私はにやにや笑って、「なんでもないよ。」と答えて、彼とシルバーの後を追った。いつか、彼が仮面ライダーを好きな理由も、聞いてみよう。
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