徳について

ここからはアリストテレスの引用である。

恐怖と自信に関しては、「勇気」が中庸である。そして超過する人たちのうち、恐れないという点で超過しているような人には名前がないが(実は、こうしたことについては、多くの場合に名前がないのだが)、自信があるという点て超過している人は「向こう見ず」であり、また恐れる点で超過しているが、自信の点で不足しているような人は「臆病」である。

次に、快楽と苦痛に関しては―と言っても、そのすべてについてではなく、またここでの説明も、苦痛についてはさほどあてはまらないが―、中庸は「節制」であり、超過は「放埓」である。だが、快楽に関して不足するような人たちというのは、あまりいない。まさにそれゆえに、そのような人たちには名前さえ欠けているのであって、とりあえず彼らのことを「無感覚な人たち」とでもしておこう。

また、金銭のやりとりに関する中庸は「気前のよさ」であり、超過と不足はそれぞれ「浪費」と「けち」である。しかしこの種の行為においては、人々はちょうど反対の仕方で超過し、かつ不足する。というのも、浪費する人はお金を出す点で超過するが、取得においては不足する、それに対して、けちな人は取得においては超過し、お金を出す点では不足するからである。ところでいま、われわれは事柄の輪郭と要点だけを述べているのだから、この程度のことを説明しておけば足りるはずである。これらについて詳しいことは後に規定されることになるだろう。(第三巻第六章〜第五巻において)

金銭に関して言えば、ほかにも魂の「様態」があって、その中庸は「度量の大きさ」であるが(というのも、度量の大きな人は気前のよい人とは異なるからである、つまり度量の大きな人は大きな額に関わるが、気前のよい人は小さな額に関わるのである)超過の方は「悪趣味」ないしは「俗悪」であり、不足は「さもしさ[狭量]」である。そしてこれらの悪徳は、気前のよさに関する超過や不足と異なっているが、どのような点で異なっているかは後に述べられるだろう。(第四巻第二章において)

次に、名誉と不名誉に関しては、中庸は「高邁(こうまい)」であるが、超過はある種の「うぬぼれ[虚栄]」と呼ばれるものであり、不足は「卑下」である。ところで今、われわれは気前のよさは度量の大きさと関連してはいるか、小さな額にかかわる点で度量の大きさとは異なると言っていたが、ちょうどこれと同じように、高邁についてもそれと関連するある種の徳があって、高邁が大きな名誉にかかわるのに対して、一方は小さな名誉にかかわっている。それというのも、名誉というのはしかるべき仕方で欲することも、必要以上に欲したり必要以下に欲することもできるからであって、その小さな名誉への欲求において超過する人は「名誉愛好者」と言われ、不足する人は「名誉心なき人」と言われるが、当の中間の人には名前がないのである。そしてそれらの魂の様態についても、名誉愛好者のそれが「名誉愛」であるということを除けば、他は名前をもっていないのである。

このようなわけで、名誉の場合、両極端にいる人たらは中問の場所を要求するのである。事実、我々もまた、中間の人をある時には「名誉愛好者」と呼び、ある時には「名誉心なき人」呼んでいるばかりか、ある時には名誉愛好者を賞讃し、ある時には名誉心なき人を賞讃してもいるのである。しかし、どのような原因によってわれわれはこのようなことをするのかについては、後に展開される議論において述べられるだろう。さしあたり今は、残っている事柄についてこれまで進んできたやり方で語ることにしよう。(第四巻第四章において)

そこで、「怒り」ということについても、超過と不足、そして中間があり、これらはどれもほとんど名前を欠いているが、われわれは中間の人を「温厚な人」と呼んでいるので、中庸を「温厚さ」と呼ぶことにしよう。それに対して、極端に位置する人たちのうち超過する人の方は「怒りっぽい人」、そしてその悪徳を「怒りっぽさ」とし、また不足する人の方はいわば「怒りなき人」、そしてその不足を「怒りの欠如」、ということにしよう。

(中略)

そこでまず真実さとの関連では、中間の人は「正直な人」、中庸は「正直さ」と呼ぶことにし、真実さを見せかけるふるまいについては、実際よりも大きなことに向かう方を「ほら」、その傾向をもつ人を「ほら吹き」、また実際よりも小さなことに向かう方を「とぼけ」、その傾向をもつ人を「とぼける人」と呼ぶことにしよう。

次に、娯楽における快いものについては、中間の人は「機知に富む人」、その様態は「機知」でり、他方、超過は「悪ふざけ」、その様態を持つ人を「悪ふざけする人」、また不足する人は「野暮な人」であり、その様態は「野暮」である。

そして残りの第三の、生活における快いものについては、しかるべき仕方で快い人は「友」であり、中庸は「友愛」であるが、超過する人は、もしそれが何かのためでなければ、単なる「愛想よし」であり、自分自身の利益のためであれば、「おべっか使い」である。またそのような点で不足し、あらゆる場面において不愉快な人というのは、ある種の、喧嘩っ早くて「意地の悪い人」である。

他方、感情の領域においても、すなわち情念に関しても中庸がある。なぜなら、「つつしみ」は徳ではないが、つつしみ深い人もまた賞讃されるからである。すなわち、この種の事柄においてもある人は中間的な人と言われ、他の人は超過していると言われるのである。たとえば、何ごとにも恥ずかしさを感じてしまう「引っ込み思案の人」がそうである。そしてつつしみが不足しているか、全然つつしみのないような人は「恥知らず」と呼ばれ、中間の人は「つつしみ深い人」と呼ばれる。

それに対して、「憤り」は、「ねたみ」と「悪意」の中庸であるが、これらは、身近にいる人たちに起こる出来事について感じられる苦痛と快楽とに関係している。すなわち、憤りを覚える人は、不当にうまくやっているような人たちに苦痛を感じるが、ねたむ人というのはこれを通り越して、不当でなくてもとにかくうまくやっている人なら、だれに対してでも苦痛を覚えるのであり、また、悪意のある人というのは、他人の不運について苦痛を感じることがあまりにも不足しており、かえってよろこびさえするのである。

かくして三つの種類の様態があり、そのうちの二つは超過と不足に基づく悪徳、他の一つは中庸としての徳であるが、これらすべてはある仕方で、互いにどれとも対立する。なぜなら、両極端の様態は、中間の様態に対しても互いに対しても反対であり、中間の様態は両極端に対して反対だからである。つまり、両極端から等しい位置にあるものは、より小さなものと比べればより大きく、またより大きなものと比べればより小さいように、ちょうどそのようにして中間の状態も、情念と行為の領域において、不足に対しては超過し、超過に対しては不足しているのである。

たとえば、勇気ある人は臆病と比べれば向う見ずに、向う見ずと比べれば臆病に見えるのである。同じようにして、節度のある人は無感覚な人と比べれば放埓に、放埓な人と比べれば無感覚に見え、気前のよい人はけちな人と比べれば浪費家に、浪費家と比べればけちに見えるのである。それゆえ、両極端にいる人たらはどちらも、中間に位置する人を他の極端へと押しやり、こうして臆病な人は勇気ある人を向こう見ずと呼び、向こう見ずな人は勇気ある人のことを臆病と呼ぶことになるのであるが、他の場合にもこれと類似したことが言えるであろう。

ここからは私の意見である

新約聖書にキリストが迫害される理由として「人々は理由もなく私を憎んだ」とあるが、私は理由があると考えている。

というのも、あらゆるものには原因があり、当然、人が誰かを憎む時も理由があると考えるからである。

その理由として考えられるのが悪い人が自分を正当化したいがために、善を殺すということである。悪い人とて、自分に自信がなければメンタル的に弱くなる。また、仕事においては悪いうえにさらに自信が無ければ窮地に立たされるのは明らかである。さらに、悪い人は信仰がないために、お金に余裕がなければ不安に陥る。だから、生きるためにも、善い人をいじめるのである。

新約聖書にある「人々は理由もなく私を憎んだ」という部分は、おそらく、旧約聖書にある律法に関して何の落ち度もなくという意味であろう。

最後にアリストテレスの徳に関する一覧表を示しておく。

不足 中庸 超過
臆病 勇気 向こう見ず(無謀)
(無感覚) 節制 放埓(ほうらつ)
けち 気前のよさ 浪費
さもしさ(狭量)(心の狭さ) 度量の大きさ 悪趣味(俗悪)
卑下 高邁(こうまい) うぬぼれ
名誉心の欠如 (名前なし) 名誉愛
怒りの欠如 温厚 怒りっぽさ
とぼけ 正直さ ほら
野暮 機知 悪ふざけ
意地の悪さ 友愛 愛想(おべっか)
恥知らず (つつしみ) 引っ込み思案(恥ずかしがり屋)
悪意(他人の不幸を喜ぶ) (不当に対しての)憤り ねたみ

さらに、私が気づいた中庸論を示したいと思う

不足 中庸 超過
掟の不足(だらしない人) ちょうどよい掟の量(ふつうの人) 掟の超過(厳しい人)