無謀   『無謀』

                               沢井 慶太

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三十四才になるまで生きてきた。それでも自分が五才の時から、自分は何ら変わっていない

と思う。
 少しも変わっていない。自分はあの時のまま、意地っぱりで、負けず嫌いで、自意識過剰で、

常に他人の目ばっかりを気にして生きてきたし、現に今でもそう生きている。
 あれは六才のとき、もう小学校の第一学年になっていたのだけれど、我々の家族は実父の仕

事の都合でインドネシア国の首都・ジャカルタに居住していた。
 私は在ジャカルタ日本人小学校の第一学年第二組に所属していた。それは今思うと、とても

貴重でかつ奇異な環境だった。
 当時、つまりは一九七三年のインドネシア国において、すでに生徒数が数百人に渡る在イン

ドネシア日本人児童による日本人小学校が存在していた、ということがである。

 そしてもう一つ、大使館員の息子であるという自己の境遇がさらに自分の幼児体験に何らか

の付加的要素を、我が心に植えつけたと言っても過言ではないだろう。
 ついでに言ってしまえば、幼少の頃の私は実母になど育てられる環境にはなかった。家には

常に現地人の料理女中、そうじ女中、子守女中が居たわけで、幼い私もそういった、今から思

えば当時の麗若き、あるいはちょうど小生意気な年ごろにあたる子守の下仕えたちに囲まれな

がら、裏をかえせば父母の実直な愛情も薄らかなまま、生きていたのである。
 さて事件は小学校一年だった時の、ある家族の余暇の日に起こった。
 その日は実父の、ちょうど休みの日に当たっていたのだろう。私たちの家族は、知り合いの

日本人医師の家族と、ジャカルタ郊外にある遊泳プールがあるレジャーランドへと向かった。
 まだ幼かった私は事の仔細をよくは憶えていない。けれども、このことだけは、はっきりと、

(まぶた)の裏にまで記憶している。
 ・・・・・・――あの西洋人の華麗さ。レジャープールであるがゆえにそこには長い長い、まるで

蛇のようにうねったすべり台があった。
 私はいまだにそのすべり台の色が赤であったことを記憶している。そのすべり台はプラステ

ィック製で、すべり始めの箇所からはすべり易いように上から下へと水をたれ流して

 

いて、私は子供心特有なはしゃいだ気持ちから、一気(いっき)呵成(かせい)にそこをすべり降りてみたいと思う

ようになった。
 あぁ、幼い自分は意志などという言葉は知りえなかった。それが意思というよりは「意地っ

張り」に近かったようなことでさえ、後々の現在になってから懐古しつつ、気づくものである。
 「あそこを(さか)さから降りてみないな」・・・・・・私はあの日、父の前でこういった向こう見ずな

暴言を言いはなった。それは何ていうことのない、幼稚なる希望だった。西洋人と同等になれ

る、そのための環境がそこに(そろ)っている。
 ほとんどの客がそのすべり台にお尻をつけ、つまりは一番まともな格好ですべり降りていた

ところに、ある西洋人がスタート地点におり立った。いや、実際にはその人とて階段を下から

昇っていったはずだったので「おり立った」という表現はふさわしくないだろう。しかし、あ

の時の私の目にはさもその西洋人が天から降りてまさしくその場所に「おり立った」ように見

えたのだ。
 皆がその次の動作を予期した。それはすべり降りる目的のためにしゃがみ込む、という映像

だったはずだ。ところが、おおかたの、そうあるべきだという予感をくつがえして、その西洋

人はどういう挙動に走ったか。


 ・・・・・・彼は背延びするように天に向かって両手をそろえて伸身したかと思うと、今度は腰か

ら上をくくっと前の方に曲げて、立ったまま「く」の字にかがみ込み、赤色のすべり台を逆さ

まから、つまりは頭のほうからまるで倒立するような姿勢で、蛇のように上下にうねる溝の内

を、華麗にすべり落ちたのだ。
 今にしてみれば、その姿、すべり台を逆さまに降りていく姿は、でっぷりとした体格の、ぜ

い肉だらけの肌の白い(からだ)が、ゆらりゆらりと、華麗というよりはむしろみっともなく映ってい

たのかも知れない。
 その人の体重が、そのまま落ちるスピードが出すぎないための、ブレーキとなっていたのだ。
 ところが私にはそういった、逆説的な行為、つまりは普通でない行動というものに、幼さゆ

えの憧れがあった。
 私はすぐにでもその西洋人の真似をしてみたくなった。そしてさしたる強固な考えも持たず、

先ほどの言葉を父親に吐いたのだ。
 ・・・・・・「僕もあそこを逆さから降りてみたいな」――そう何気なくつぶやいたとき、それは

単なる願望でしかなかった。
 しかしその次に返ってきた父親の私への侮蔑の言葉が、私の願望を、さらに成長させて性急

なる渇望に変化させ、反対にあなどった父親を見かえしてやりたいという一心から、私はその

すべり台の高い高い階段を昇りはじめた。
 (「お前にできるわけがない」だって?今、自分がこのすべり台を逆さにすべって行ったら、

他のみんなの目にはどう映るのだろう。「お前にできるわけがない」だって?すべり降りた果て

に、自分はみんなからどんな風に思われるのだろう。)

 「お前にできるわけがない」・・・・・・私はひとつひとつ、階段を踏みしめるたびに父親から浴

びせられたこのなじりの文句の苦渋を噛みしめ、この心の澱みの爽快となる時の近いことを信

じながら昇っていった。

 てっぺんはすぐにやってきた。そして私がすべる順番も同じく。私にはすでにホイッスルで

警告を与える監視員の言葉や観察の視線が目に入らない。つまりはすべての神経をこの、自己

の内なる改善のために、臆病風をふり払おうと、自分自身の部屋という部屋になぐり込みをか

けるというのであれば、それは世に正しい行為と称されるものに対し、一石を投じる勇気へと、

一歩一歩近づけるのではないかという、わくわくとした予感で奮いたった。
 すべり台の上におり立つ。監視員のホイッスルの音がする。・・・・・・それまでは普通にすべり

降りる客と変わらない。ところがやはり、私は腰を下ろしてしゃがみ込み、頭から行く格好を

し始めた。
 事は一瞬だったと思う。決断も一瞬だった。
 (このすべり落ちるその先に、父親をギャフンと見かえすことのできる、何かもの凄い未知な

るパワーが存在する!)
 私はおもむろに体を逆さに構えると、両手を先に伸ばして、発動のための、蹴りだしをすべ

り台の表面にかけた。背中の、血の流れを風のそよぎがつつと()めた。
 急降下する。思っていたよりも数段スピードは速い。最初の蛇のうねりのような山はすぐに

やって来た。不意に体が軽くなる。私は勢い余ってふわりと、滑降面すれすれに浮いてしまっ

たのだ。すぐにバランスを整えようと必死になる。ドン、という鈍い痛みを胸と腹に感じて元

どおりすべり台に落ちついたのはよかったが、スピードは驚くほどなおも加速していた。
 (失敗したかも知れない。やっぱりやらなければよかった)――私は自分の向う見ずさに恐

ろしくなった。しかし事は進んでいるのだ。身動きできない状態のまま超特急で疾走している

のだ。
 六才の私の体重は軽かった。体の重い西洋人は、その重さそのものがブレーキとなってスピ

ードを抑制していたが、私の体重では、スピードをコントロールする(すべ)もなかった。
 二回目のうねりの山を越えたとき、私は宙に浮いた。そして今度は異常な打撃による痛みを

下あごのあたりに覚えた。もはや軌道を修正するだけの余裕さえない。せめてすべり台から外

れて転落しないようにと、死にもの狂いになるだけだった。
 視界に入るのはただ赤い、プラスティックの、すべり台の溝の内面だけだ。その時雲がどん

な形をして空を刻んでいたかなど、すべり台からたれ流していた水が自分の降下によって飛沫(しぶき)

をなしたその先のゆくえのことなど、どうして配慮することができようか。
 さらに増して加速する。何も自分自身が体をはって憧れのジャンボ・ジェット機になる必要

はなかったのだ。三回目のうねりの山で飛んだことなど、もはや憶えていない。ついでに言えば、

その次の着地の瞬間に、決定的な痛手をあごに被ったのらしかった。
 しかし、あとは柔らかい水面に落ちるだけとなった私には、この暴挙ともいえる無謀な行為を

成功させることができたという安堵感が、恐怖で硬直した心筋を(ゆる)めていくのが分かった。
 私は全身の震撼から解放され、虚脱する神経とともに、すべり台の淵からプールの水面へと落

ちていった。終わったのだ。私は父親のなじりに勝利したのだ。硬いすべり台のプラスティック

に比べて、水の飛沫(しぶき)は優しく自分をつつみ込んでくれた。プールの水の柔らかさは、平手打ちを

(くら)った後の私の頬を撫でてくれたようなものだ。
 着水して起きあがった私の目には、(すさま)じい形相をした実母の顔が映った。それは我が子を案じ、

うろたえながらも半ば叱責に満ちた、ゆがんだ唇の、お母さんの表情だった。
 (誰か小さな子供が逆さまに滑ってくるな)と眺めていたら、途中でその正体が私だということ

に気づいて、はっとしてあわてふためいて、いちもくさんにプールへとかけ寄ったのだと言う。

母親は今にも涙をもらさないかというばかりの顔つきで、私の腕をひしと(つか)んだ。
 しかし私はそのとき、真赤なプラスティックだらけの視界から放たれた、燦々(さんさん)とした陽光とと

もに人々の喚声と拍手の音を聞いた。
 それは初め、昼下がりの蜃気楼の向こうからたなびいて来るような音の連なりだったが、気が

つくとプールの中とそのまわりで遊んでいたすべての人が、大人、子供、女、男、インドネシア人、

外国人にかかわらず、皆が私の演じた「意地っ張り」に対して拍手で讃えていた。
 あの、水に濡れたいくつもの両手で、程よく大きな音をたてて(たた)かれた、その拍手の音は、今

でも呼びおこすごとにさざ波のごとく耳裏にくり返し響きわたる。
 中学の歴史の教科書でナポレオンのことをやったとき、「英雄」というのはあの時の私のような

気持ちになることを言うのではないかと思ったものだ。
 母親は心配げに私のあごのほうへと目をやった。私はあごの下を切って出血していたのである。

さわってみると、手の平が水と血で(にじ)んだのでびっくりした。
 「手術しなければならないかも知れない。」と言われ、私には実際の痛みよりは、その言葉のほ

うがそら恐ろしかった。
 「手術・・・・・・――手術って?」
 このじんわりとしたあごの(うず)きに、さらに何か痛烈な衝撃を加えなければならないのか。私は

二回目の後悔をした。それは一回目の、すべり台を滑走していた時に続いてのことだった。
 幸か不幸か、その日は日本人医師が同行していたことをすでに前述した。泣きべそをかいてい

る私に対し、その医者は「手術は不要だろう。特に縫わなくても、薬と絆創膏で治るでしょう」

と診断した。
 しかし、その傷跡は今でも下あごのあたりに残っている。ひげを剃ると、それが(あら)わになるの

だ。      

                               

〈無謀・終〉

 

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