ドン・ビャクショウとの出会い
                                                  中津 太公
 年明け早々、念願であったスペイン旅行が実現した。ツアーなので、何とも忙しい旅。その最後2

日間が、首都マドリッド観光だった。コルドバを朝発ち途中トレド観光後、夕方、マドリッドに着く。

ホテルへチェック・インの後、風呂にはいり、さっぱりとした気分でホテルの玄関に出る。今宵の夕食

は、これからあるレストランでフラメンコショーを鑑賞しながら楽しもうと言う思考だ。既にホテルの前

には、我々の乗るバスが横付けされている。グループの人々は、まだ出発時間まで若干間がある

ことから誰一人、外に出ていなかった。辺りは、すっぽりと帳に包まれている。乗車するバスの前ド

アー付近で、ドライバーと何やら話しをしている者が居た。そのいでたちたるや黒の山高帽子に黒い

マント風のコート靴はブーツと言う独特の雰囲気を醸している男性だ。何者かと気にしながらも少し

離れた所で、ゆっくりとタバコをくゆらせて様子を伺っていた。やがて、グループの人たちも集まり、

バスに乗り込んだ。果たして、先ほどから気になっていた山高帽子の男性は、我々の現地日本人

ガイドである事が分かった。レストランまでの短いバスの中で手際よく自己紹介をしてくれた。

スペインに来て30年、日本人ガイド仲間からは「番長」とよばれていること、自称は

「ドン・ビャクショウ」とのことであった。ドンとは、男性に対して最高の敬称で、日本語では「殿」に

相当するのではないかと思われる。

私より5歳年下のドンは、農学部で勉強中、有機無農薬農法に目覚めたそうだ。卒業後、郷里の山

形でこの農法を実践したものの周囲の耕作者から苦情が相次ぎ、この地での営農を諦めざるを得

なかったとのこと。その後、和歌山県に転地して再度チャレンジしたが、やはり結果は前地と同様だ

った。そうこうする内、ある情報にスペインでは人の口に入る作物は、原則全て無農薬でなければ

ならないという法律が出来たことを知ったのと事。ドンの夢とする農業を実現する地は、彼の地に

ありと移住を即断したそうだ。以来、首都近郊において有機肥料による無農薬農法で蔬菜栽培に

取り組んでいる。3人の子供にも恵まれ、長女がスペイン人と結婚し、マジョルカ島に住み、長男が

生業を手伝い、次男は何と狭山市に住んでいるそうだ。加えて、ドンの無二の親友が入間市在住

の事もあり、したがって飯能市のことも少しはご存知だった。私は岩魚釣りで、こよなく鳥海山を愛

すること、猫の額ほどの畑で堆肥を作り、なるべく農薬を使わない野菜作りをしていること、若かり

し時、1年間南米行脚をしたこと等、ドンも共感する話題が多く、彼の仕事が終わった後、ホテルの

ロビーで時の経つのを忘れ、それらの話に花が咲いた。また、彼はサッカーの熱狂的なファンでも

ある。マドリッドにはレアル・マドリッドとエスパニョウラ・マドリッドの2つのクラブ・チームがあるが、

後者のファンとのこと。年間を通しての最前列に指定席を持っていて、報道メディアにも「顔」になっ

ているそうだ。しばしば「東洋からの客人も、怒っている。喜んでいる。興奮している。」等と特に

テレビにアップで報道されるとの事だ。さらにドンについて感心させられたことがある。それは、

とにかく日本の事情を良く知っていることである。聞いてみると、我々が日本の新聞を読む時と

ほとんど時間のずれがなく同じ新聞をマドリッドに居ながらにして読んでいるそうだ。というのも

日本の大手新聞社は、原稿が校了するなりロンドンに電送し、即座に輪転機が回りだすとのこと。

そして、印刷が上がり次第ヨーロッパの各主要都市へ空輸されるそうだ。外国に長期滞在する

日本人は、日本の新聞をむさぼる様に、隅々まで丁寧に読むのが一般的らしい。私などより、

はるかに知識が豊富であることに脱帽せざるを得なかった。ドン・ビャクショウは、蔬菜作りの傍ら

アルバイトで日本人観光客のツアーガイドをしているそうだ。お別れは夕闇迫る空港まで見送って

くれた。幾分節くれだち、豆だらけの固くなつた私の手を、一言褒めながら長い握手で別れを惜

しんだ。

07.11月

旅行記