飯能巷談その二 雨だれ荘

 林 幸一氏談話  取材小山友叶

『雨だれ荘が此度、解体されて往年の隆盛を存じている方々にとってまことに残念なことであるとの声がある

ことから『奥武蔵釣りだより』に飯能の巷談としてくだけたものを書いてという発行人の意向なので簡単に述べ

て往事を偲びたいと思います。

さて、我が生涯の拠点であった『雨だれ荘』はそれではどのように誕生したのであろうかここに来歴を記して

みます。『雨だれ荘』を語るにはまず現存する『畑屋』を語らなければ話しが進みません。畑屋は南高麗の大

字畑の出身の横川竹蔵氏が飯能町の現地に『割烹畑屋』を先ず開設し、その後、畑屋が軌道に乗ると『東雲

亭』を作り、息子の慎蔵氏が埼玉ではトップクラスの料亭に育てました。

戊辰戦争の折、上野に立て籠もった彰義隊と袂を別った振武軍が羅漢山下の『能仁寺』に本陣をおいたため

官軍の攻撃で罹災し、再建された伽藍の東方に位置した純和風の割烹旅館『東雲亭』は『目黒雅叙園』を模

したような庇の玄関で一流料亭の風格を匂わせていた。埼玉県内でも三位と落ちないこの割烹旅館には昭

和天皇を始め、現天皇、皇太子、皇族の来駕があり、飯能に『東雲亭』ありの名声を博した。

この成功がヒントとなり高麗横町の入り口にあった金子旅館は『岩清水』を、現商工会議所裏にあった大野屋

は『清河園』を、そして金春は『雨だれ荘』をと言う風に街中で営業していた割烹はそれぞれ山辺、川辺に料

亭を構えた。昭和23年頃、畑屋横町を南へ行くと八百屋としては飯能一の『八百辰』、その先に『カフェ福住』

福住の西に『料亭高島屋』さらに福住の南に『中華料理優蘭』前には『鶴屋』更に『料亭金春』『奥武蔵旅館』

と続き、突き当たりに現在は『清河園』がある。この直線の左右が飯能町の歓楽街で左が3丁目、右が2丁目

でこれを名付けて『婦美町』と言った。ここには『八百辰の椙田』『高島屋の矢城』『優蘭の林』『鶴屋の池上』『

金春の林』『奥武蔵の中』と大声で怒鳴り合う五月蠅い亭主が居たので別名を『かみなり横町』と陰口された

。けだしそれぞれが優秀な腕を持っていた。今でも思い出すのは、林漢定という中国出の本格料理人だった

優蘭の支那蕎麦は忘れがたい美味しいラーメンだった。今どきのラーメンにあの味を教えたいものだと常々思

う。金春のターンテーブルでの中華料理一式は当時としては珍しくまた『中華丼』も人気料理で優蘭のラーメン

と競り合った。この金春から東へ行くと『一力』と言う料理屋兼風呂屋があった。この一帯は脂粉の香りの漂う

芸者衆の稽古場あり、芸者置屋あり、昼間からそこここで料理の香りの漂う一角であった。昭和20年後半か

ら30年代にかけては芸者が60人いた飯能花柳界はその密度は県では勿論トップの高さで岐阜の柳ヶ瀬に

次いでいた。

さて前置きが長くなったが『朝日山から雨だれ淵へよいよい、飛んだほたるが身を焦がす』と言う飯能小唄に

もある名所の雨だれ淵は両岸には切り立った岩が露出し、シデ類、ケヤキ、コナラ、クヌギなどの落葉広葉樹

とシラカシなどの常緑広葉樹が鬱蒼としている河畔林となっている。崖地には春は花ニラが香りを漂わせ、夏

にはキツネノカミソリがひっそりと咲き、水辺にはヘイケボタルやカワセミの生息が確認されている。すり鉢状

の淵にはハヤ、ヤマベが、砂地に潜ってはシマドジョウが足裏をくすぐる。そんな自然豊かな川畔にある純日

本風の旅館兼料亭『雨だれ荘』は多くの人々に愛された料亭であった。これを造ったのは私の父の林彰二で

彰二は『東雲亭』の料理長だった。彰二は東雲亭から独立すると婦美町に前述の『金春』と言う唄の文句にあ

るような『粋な黒塀で囲み玄関に見越しの松を植えた料亭』を開設した。塀は丈が高く二階にまで届くようにし

つらえていた。一階の客間を隠す塀の上には赤松が張り出して情緒を添えていた。

この金春が軌道に乗ると本格的な料亭『雨だれ荘』を建設した。古来『雨だれ淵』という幽遠の地に建築した

もので正面玄関は勿論、内部の装いは『東雲亭』をイメージしたものであった。彰二は料亭が永く続くことを目

途とし、立地が崖地なので基礎コンクリートはこれでもかというほど贅沢に打ち込み、請負人が目を丸くしたほ

どであった。東雲亭の大広間は柱の一本もない百畳敷きであったが彰二の夢もこの柱のない広間にあった。

広間は東雲亭をしのぐ112畳と60畳の大広間を作った。個室も16室あった。自慢の浴室は岩風呂で割烹旅

館としては珍しい設備であった。

東雲亭が廃業したあと飯能を代表する料亭となった『雨だれ荘』は著名な賓客が多数訪れている。今思いつ

くままザッと主な人を挙げると大沢知事に案内された高松宮をはじめ、歌舞伎の中村吉右衛門、映画界から

は松山善三、天知茂、女優の星由里子、小山明子、山本陽子。スポーツ界ではプロレスの猪木、馬場。相撲

界からは吉葉山、鏡里、若の花。

またトンチ教室、ユウモアクラブでは徳川無声、石黒敬七、長崎抜天、宮城マリ子などが訪れている。お目当

ては河原の『地引き網』で裸足で川に入り、嬉々として網を引き、摂れたアユ、ハヤを揚げて風呂上がりのビ

ールの肴にするのが好評で口コミで知られ、また和船を使っての船からの投げ網もことのほか喜ばれた。

今でも思い出すのはホタルの飛び交う川面に桟敷を作り、川中に篝火を焚くなど趣向し、客を接待したので『

京都嵐山のようだ』と賛辞され、またあるときは大屋根に多数の穴を穿った塩ビ管を敷設し、水道管に接続、

晴天なのに庇から雨を降らせて客をビックリさせたことなどもあった。が何と言っても特筆すべきは『ジンギス

カン料理』であった。当時としては珍しいラムを使ったジンギスカンで日本橋三越、日比谷公園等で一週間ず

つ実演、即売会を行い、好評を得て『元祖ジンギスカン料理』として『雨だれ荘』の名は広く知られることとなっ

た。また、川魚料理は川マス、鮎の土手焼きをオリジナル料理として提供した。

この他、『雨だれ荘』は花町の中心にあり、その経営者として芸事、色事、ハプニング、スキャンダルは多数承

知しているがこれだけは口外することが出来ない。

時代は変わり、ファーストフードに押されて料亭経営が難しくなり、昭和23年開業いらい、58年経た平成16

年6月営業を閉ざした。『岩清水』も廃業し、『東雲亭』すでになく、今年になって父彰二の夢の『雨だれ荘』も

解体することとなった。ここに『雨だれ荘』ありきと言う小文を残して地域社会の記憶に留めるとともに、このこ

とは『奥武蔵釣りだより』のホームページにも公開願いたい』

後記 林幸一氏とは取材で度々お会いしました。その間、解体中の雨だれ荘を見ましたがその基礎のコンク

リートの厚いことに驚嘆しました。と同時にこの厚さに先代彰二氏の割烹旅館の永続を願う思いを見た気がし

たものです。

 案内されて室内装飾を拝見しましたが、掛け軸、油絵、多くの陶器、絵皿、壺、また多数ある記念写真の中

での飛びきりのショットは和装の星由里子と玄関でのツーショットは氏の力を物語っていると感じました。

※お伺いしたのは4月から5月にかけてでした。拝見した広い庭には盆栽が良く手入れされ、池には錦鯉が

泳ぎ、嘗ての雨だれ荘を眺めているかのように彰二氏の等身大の胸像が設置されています。この青銅の像

は多くの弟子がつくってくれたとのことで氏の徳が偲ばれます。因みに彰二氏は日本調理師会副会長として

世界を飛び歩き、ついには職人としてはおそらく最初に従六位、勲五等瑞宝章を叙勲された斯界の巨人でし

た。

なお、幸一氏の学歴が映画科卒なので「映画の方面に進まれたのでは」と尋ねたところ言下に「旅館の経営

」と強調されました。そのあたりに一抹の隠された裏があるような気がしないではありませんが、戦時中のこと

でもあり意志と関係なく方向付けられた面もあったようです。ただ、『雨だれ荘』を訪れた映画人との繋がりは

学歴がコネクションになったのだろうことは推察されます。晩酌は日本酒で二合と決めていると伺った。『お米

のジュース』が健康に良いのでしょう、何処も悪い所のない、すこぶるつきの健康体だと伺いました。聞きそび

れましたがタバコは灰皿は勿論、室内に全くその気配もありませんでしたからその嗜みはないと推察しました。

林幸一氏略歴 林彰二氏長男。昭和2年生まれ、川越商業から日大芸術学部映画科卒。

飯能料亭組合長、旅館組合長など役職多数歴任。

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