飯能巷談その二 東雲亭
           小山 友叶

『竿を担いで青葉の谷へ魚は釣れても釣れずとも』平山蘆江の掛け軸が今も『畑屋』に掲げられ

ている。

 平山蘆江(1882〜1952)の業績は何と言っても大作『西南戦争』である。粋人の蘆江は

飯能の自然と人情に惚れ込み、東雲亭に滞在しているうちに病を得てついには東雲亭の離れ

で最後を迎えた。

 蘆江が愛した東雲亭。その蘆江を『離れ』で生活させた東雲亭の横川竹造の度量。

今にしてみると蘆江と東雲亭は切り離して語れない。

 今から20有余年前に廃業し現在は更地になってしまった東雲亭は、ではどのような経緯で

繁栄し、消滅したのであろうか。紐解いてみた。

 東雲亭は県下でもトップクラスの旅館であった。昭和天皇が宿泊された際は寝所の改装で床

は絨毯を敷き、ベット設置してお迎えし、また現天皇がまだ皇太子だった頃、美智子妃殿下と

食事に来られたこともある。その後、皇太子浩宮も訪れている。浩宮が食事した時には

美智子さまから丁重なご挨拶と引き出物が届いたと聞く。

このように東雲亭が利用されたのには訳がある。

 戊辰戦争の折、上野彰義隊は1868年に旧幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護など

を目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成されたがその一部が渋沢成一郎を頭取

として別派を組織『振武軍』と呼称して上野を離れ、武蔵野を西へ、やがて飯能町の西に

聳える羅漢山に到達。能仁寺を本陣と定めて征討軍と戦った。

『飯能戦争』と呼ばれたこの戦いで寺院は全焼した。振武軍は霧散し、副将の渋沢平九郎は

顔振峠を越えて越生に通じる山道で官軍に遭遇し、渋沢栄一の従兄弟であった平九郎は

ここで自刃した。

 このような戊辰戦争と関わりある地に明治天皇が閲兵されたのも頷けるのである。

この行幸を記念して以降『天覧山』と改称した。

『東雲亭』が引き立つのは天覧山を借景としていることが後光になっているからとも言える。

 天覧山の中腹には飯能の尊皇志士『小川香魚』の石碑もある。

 さて本題に入ろう。東雲亭を紐解くには先ず畑屋だ。畑屋はもともと南高麗の『大字畑』出身

の横川竹造が飯能町に割烹を始めたのが嚆矢で、今でも現存している純和風の三階建てで

改築されていないから当時のままであると言っていい。盛時には芸者を抱え、町の割烹の

中心であった。 畑屋を押しも押されもしない料亭に育て上げた竹造は更に大きな割烹旅館を

目途として天覧山麓に前述の『東雲亭』と名付けた念願の割烹旅館を建築した。

時代は下って第二次世界大戦後、天下の結婚式場である『目黒雅叙園』で修業した息子の

慎蔵はさらに施設の拡充を行い、雅叙園をイメージした二階建て入母屋造りに改築した。

 ここのメーンは柱1本もない120畳部屋でここには2基のシャンデリアが輝いていた。

廊下は広く、玄関脇のロビーは円形柱と丸テーブル、肘掛け椅子で装われて洋風の間であり、

中庭に面した風呂は広々として天井は高く、棕櫚の鉢物が置かれ丸いプールのような

黒御影石を貼り付けた円形の風呂には中央に湯の噴き出しがこれも御影石で設置されて

四囲はガラス張りで明るく、庭園の池、植栽の緑が見渡せた。

慎蔵は風呂と言うよりも浴場と言う方が適当だがタイルが七色に光ることから敢えて

『ピカソ風呂』と名付けた。中庭には池があり池に写る洋館のようなまた植物園のような外観

の浴室は庭園をそぞろ歩く宿泊客の眼を楽しませた。

浴場の窓を開けておくと大きな食用蛙がのっそりと入って来て浴客をビックリさせたと言う。

 天覧山の東に開けたこの地は風の当たりが柔らかく背の高い赤松が林のように和風建物

を囲繞していた。部屋数は大小合わせて20室あり、仲居さんは20人も居て宴会は300人、

宿泊は100人が可能であった。

 純和式の建物とは離れて建つ洋館はゴージャスな結婚式場で当時東雲亭で結婚式を挙げ

たと云うことはそれだけでステータスシンボルでもあった。

着付けは資格を持つ坂井美容室坂井光江とそのスタッフが受け持った。『さかい美容室』は

現在も仲町に店舗を開いている。

 ちなみにここ東雲亭の宿泊料金は一泊二食付き1200円。結婚式の費用は一人2500円

であった。

なお東雲亭の板長が独立して後に『金春』『雨だれ荘』を造った林彰二である。

 どう言う方針か聞く人もないが、客寄せに月輪熊と猿の檻がありこれも東雲亭の特徴の

一つの点景だった。猿と熊と同じ檻で熊には穴蔵があり、日がな一日檻を経巡っていた。

猿はいつも上の止まり木に座って時に金網に飛び移りキーキーと甲高い声を発しながら

自己主張をしていた。エッセイのページ

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