『嗚呼富士川』                                  木崎 勝年

 今日は、爽やかに晴れた国民の祝日『体育の日』である。この時期になると「竿納め」を

してしまう仲間が多いので、単独での友釣り釣行となる。富士川下流部へは、青梅から檜

原村を通って、甲武トンネルを抜け、上野原ICから中央高速に乗り河口湖ICで下り、

R一三九号で、本栖、朝霧高原を経て、富士宮市から富士川へ出るコースをとっている。

 蓬莱橋で富士川を渡り、信号を右折して上流に少し走ると左側に佐野オトリ屋があるの

で、ここでまだ錆びのきていない綺麗なオトリを二尾買った。

富士川下流部は漁協がないため入漁券はいらないのである。オトリは、うまくいけば十一

月三日の文化の日まで扱ってくれることがあるが、時期が時期だけに必ず電話してから

でないと無駄足を踏みかねない。

 オトリ屋から芝川町稲子の広い河原までは、およそ十分ほどで、九時過ぎに到着した。

この辺りの富士川は、駿河湾の河口から約二十キロほど遡ったところであり、山梨県と接

する静岡県富士郡である。河原から上流部を見て、すぐ先の山峡の狭まった辺りからが、

多分山梨県側であろうと勝手に想像した。友釣りのポイントとしては、これより上流も良い

とろが、逆に一番下流部の東名高速上下流やJRの東海道本線下流部も好釣り場であ

る。そして、この時期ともなると、友釣りマンの憧れの『尺アユ』が釣れる可能性を十分秘

めているのである。ここの渓相は、河川部分は広いところでは二百メートルもあり、県境

を挟んで大きくSの字に蛇行を見せ、大きな淵あり、荒瀬ありで変化に富んでいるうえ、

川幅は三十メートルから五十メートルはある。ぐるりと見渡しても人家は少なく、山がいっ

ぱいである。すぐ下流左岸の絶壁下は、大きな深淵となっていて長〜く続いている。

山裾をJR東海の身延線が走っている。左岸に稲子川が流入している辺りから大きな淵

にかけて、既に何人かが左岸側から竿を出していた。

 支度して、大淵の一番頭で竿を出していた年輩の男性に聞いてみた。今日はまだ淵

から出てきていないが、出始めると入れ掛かりになる。先週は二十五センチ以上が四

十尾も釣れたと言っていた。

 一段と高い河原から流れを見下ろしたが、野アユの姿は見えなかった。そのうちきっ

と出てくるものと思い竿を出した。小一時間ほど流したが掛からないので、車の横に

座って休憩した。

この時期のアユは、集団となって淵に入り、朝晩に淵から出てアカを食むようになる。

中には集団に入らないヤツもいるが、これは人間社会でも同じことだ。

 この時期の釣り方は、野アユの活性が良い時間帯、例えば十一時とか一時とかある

いは三時とか、そういう時に釣れることが多いので、その時に能率良く釣れば釣果が伸

びるのである。

広い河原を飛んでくる風は心地良い。湿度がなくからっとしている。しかし、秋の日は、

日射しが強いので、よく陽に焼ける。一番下の人が私の上にいる人に大声を出して盛

んに手招きしているが、その人は一向に気付かずに釣っている。下の人の竿が絞られ

ている。どうやら掛けたようで、淵から野アユが差し出したのであろう。

 軽食をして再開した。だが、私の前の流れには野アユの姿はまだ見えない。オトリの

動きが悪いので交換した。下の人はまた掛けた。さらに一時間経っても前の流れに野

アユは入ってこない。少し下へオトリを誘導してから河原に腰を下ろした。上流の釣り

人達を見ても、竿は立たない。広い河原の遥か上流を見ると、白い帽子を被った人が

見えた。

 依然として野アユは掛からないが、下流の人の掛けたのを盗み見しながらも、目印の

動きに集中していた。

「今日は」と、音もなく来て突然横から声を掛けられた。「うわあぁー」飛び上がらんばか

りに驚いてしまった。

「おどかしてご免なさい。どうですか、釣れましたか」穏やかな声であった。

 その人の顔を見上げると、二十代の終わりか三十代の初めと思われ、少し顔色が白く、

体が痩せていて、大きな白い帽子を被った男性だった。この人は先ほど遥か上流に見え

た人であろう。

「いやあ駄目ですね…下の人は掛けるようですけど」

「そうですか」私が黙っているとその人は、

「体が丈夫な人は良いですね」と言った

「体が丈夫な人は…、と仰いましたけど」そう言うと彼は横に並んで腰掛けた。

「はい、実は再生不良性貧血なんです」

「それは白血病というヤツですか」骨髄液は、親でさえ一致しなければ我が子にあげること

はできないと言われている。白血球の型が一致しなければ骨髄移植は成功しない。血縁

者でも四人に一人、非血縁者では数万人に一人しか一致しないといわれているのである。

「そうです。手術をしたんです」

「成功したんですね」

「はい、今日はドクターの許可をいただいて、散歩に来たんです」

「そうですか、それで静かに歩いているんですね」

「そうなんです。静かにしか歩けないんです」「そのうちきっちり歩けるようになりますよ」

「ありがとうございます。ところであなたはどちらから!」

「私は飯能、いや埼玉の飯能市から来たんです」

「私は清水市なんです、家が」病院から来たのか、自宅から来たのかわからないが、

彼の言葉には少しアクセントがあった。

「では、あそこを走っている身延線で!」

「そうです、乗り継いでここの稲子駅で降りたんですが、あなたは当然車ですよね」

「そうです、車で来ましたが」

「車に乗れて良いですね」「あなたは!」

「私はまだドクターストップが掛かっているんです」

「それで電車で!」

「そうなんです」

「でも、どうして稲子駅で降りられてここへ来られたんですか」

「実は私も友釣りをしていたんです」

「そうでしたか」

「早く私も友釣りをしたいんですが、なかなか体力が…」

「もう一度聞きますが、どうしてここへ!」

「私もこの場所で良くやっていたんです」

「そうですか、良くわかりました。早くやりたいでしょうね」

「それは…」

「悪いことを言ってしまったかな」

「いいえ、そんなことはありません」

この際、竿を持たせようと思ったが、それは酷なことだと感じた。

 白血病と言えは、高校のバレー部の後輩がそれで亡くなっている。確か二十歳ちょっ

とではなかっただろうか。葬儀の時に大泣きしたことを思い出した。

あれから三十数年経っているが、彼の笑顔も浮かんできた、隣りの静かな男性は、友釣

りをしたいために一生懸命になって病気と闘っているのに、見ず知らずの人から竿を借

りて、泡沫の友釣りをしたって、彼の病気との闘いの手助けにはならないだろう。それよ

りもきちっと治して、友釣りをしたいときには、いつでもできるようになることが、彼には必

要なことではないだろうか。

「早く良くなって、ここで友釣りが出来ると良いね」

「ありがとうございます。頑張って釣ってください。お邪魔しました」

「いいえ、少しも邪魔だとは思ってもいません。私はあなたの病気の治療の手助けはでき

ませんが、お見受けしたところ私よりもずっと若いようですし、友釣りの仲間であることに

変わりはありません。あなたとここで屹度また会えると思います。頑張って治療に励んでく

ださい。その時は二人で大会を開いて勝負しましょうよ」

「わかりました。それでは失礼します」

「頑張ってね」黙って頷いて、静かに立ち上がり、また来たときのように静かに去っていっ

た。何故か涙が止まらず、しばらくは下を向いたままでいた。(一九九六、秋)
釣行記