北京の夜           小山 友叶
 平成十四年二月十一日。北京へ旅行した二日目。明日は中国では元旦という大晦日の夜。
 昼間は「万里の長城」や「明の十三稜」を見て、日が傾いてから北京ダックを食べに行き、一日の予定コースを終了して宿泊している「華都飯店」に戻る途中、ツアーの一行二十三人は半数がオプションの「雑伎」見物に、あと半数が「足の指圧」にとチャーターしたバスを降りてしまい、飯店に戻ったのは関口さんと私の二人だけになった。
 帰る道すがら見る北京の夜は色とりどりのネオンで明るく、特に蛍を少し大きくしたような豆電球が無数に街路樹にまとわりついてるイルミネーションは見飽きないものだった。またビルやホテルの流れるような豆電球の滝もビル毎に競っているように特色を出していてそれぞれ見事なものだった。
「今夜は大晦日だから北京の繁華街を歩いて出来れば地下鉄に乗ってみよう」と云う彼につき合って外に出た。
 夜風が顔に痛いように冷たい。吐く息が白い。思わずジャンパーの襟を立てるようにして飯店を出ると直ぐ、我等が出るそれを待っていたように髪の長い小柄な女が近づいて来た。三歳位の子を肩車している。背負ってるのなら驚きはしないが肩車が異様だった。その子は母親の頭を小さい手でボールのように抱えて顎を頭の上にしてじっとこっちを見つめている。眼の大きな女の子とも男の子とも見当がつかない子だった。眼だけと云う感じで「四つ目」のようだった。『なんだい、これは』と気味が悪いから二人して舗道を逃げるように足早に歩き出した。女は小走りについてくる。しかたないから立ち止まると左手は子を支え、声は出さないで、右手でしきりに唇に手を当てることを繰り返している。食べ物をと云う仕草なのだろう。彼が一元を呉れると礼をするでもなく離れていったが乞食なんだそうだ。始めて見る『ものねだり』に吃驚した。社会主義の国に『ものねだり』がいるということが何か知識と相違してそぐわない気がした。こんなことに魂消ていてはいけないらしい。東南アジアには乞食は多いそうだ。だだっぴろい道路を車の来ない合間をみて横断し、明るい方向に向かって舗道を二時間近くも歩いた。ビルの屋上に翻る赤い旗の街路をまだかまだかと歩いたが、どうも北京は途方もなく広い所だ。簡単には繁華街には着きそうもない。もう少し先だと云いながら進むうちにとうとう方角が分からなくなった。道路を跨ぐ陸橋で持参の案内書の地図を見るのだが、この位置が何処なのかハッキリしない。通りかかった子連れの夫婦ものに地図を示して聞いても言葉が通じない。それでも地図を示しているのだから聞いていることは分かりそうなものなのだが要領を得ない。北京原人は役に立たない。自転車に乗って国民服を着た私服みたいなのがうろつきだした。仕方ないからタクシーで帰ることにした。走っている車の流れを見ていると時々ルーフに灯りを点けたタクシーが流れて行く。手を挙げていること五分ほどしてタクシーが止まった。関口さんが助手席に、私は後ろのシートに別れて乗った。彼が「華都飯店」のルームカードを示すと直ぐ分かってスタートした。タクシーの中は運転席と客席がガッチリしたパイプで四方を仕切ってあり運転手とのやりとりは小さい小窓を通してだった。国鉄時代の東飯能駅のキップ売り場を思い出した。二時間かけて歩いた道を三十分ほどでホテルに戻れた。料金は十元だった。換算すると百六十円だ。初乗り料金らしい。
ホテルには戻れたが、このまま部屋に入るのでは心残りなのでビールでも飲みに行こうとまた出掛けた。またあの女乞食が近づいてきた。が、手を振ると直ぐに離れて行った。襟巻きのような子は頭の上で眠っていた。四つ目が二つ目になっていた。この寒空に母親も大変だろうが肩車の子も大変だろうなと思った。あちこち寄っては断られてやっと空席の目立つレストランでビールにありついた。ビールの味は万国共通だと思った。難しい漢字のなにがなんだかさっぱり分からないメニューの上から三品注文した。小魚をゴマ油で炒めたやたら辛い料理や青梗菜をこれも油炒めにしたもの、豆腐に挽肉を豆板醤で炒めてあんかけにした料理が出た。どの料理も辛く油っぽい。何処かで爆竹が爆ぜている。
『あれ?爆竹は禁止じゃなかったかな』と外に出てみると二人の子供が膨らませた風船を踏みつぶしている音だった。夜も更けた人通りのまったくない清潔な舗道を歩いていると前方に褐色のコートを纏い、揃いの帽子を被った七・八人の集団がたむろしている。自警団なのか彼らの前を通りながらソッと見ると一様にタバコを吸ったり、弄んだりしている。どうやら彼らの関心の中心はタバコらしい。それは社会主義の束縛から解放されて自由経済社会の仲間入りした中国の若者の現状を端的に表しているように思えた。日本でも終戦後、若者の関心はもっぱら赤い○のラッキーストライクとか駱駝の絵のキャメルなどのタバコが話題の中心にあったものだが彼らを見てそれを思い出した。若者の集団は今の日本でなら危なくて汚くてだらしなくて不気味で絡みつくような眼をしていて避けて通るようだか、ここは治安は良いのか彼らの前を通っても気味悪さはまるで感じなかった。ホテルに入るとき何処かであの母子がきっと見ている。見つけたら十元もくれようと思いグルリと見渡した姿がなかった。

旅行記