岩茸の谷                                新井 一男

 毎年この谷にあるそのそま道を登るようになるのは、四月も半ばになってからのことで

ある。まだその時期、そのそま道のある斜面の向い側の山の斜面にはかなりの雪が

残っている。少し重くなったリュックを背負い、いつものそのそま道を登りきると、いつもの

見慣れた林道に出る。

 その時期、その林道もその辺は南斜面で日当たりが良いので残雪はほとんどないが、

日当たりの悪い右岸側に林道が渡るといきなり膝丈の雪道となってしまうのだ。

そしてこの谷に注ぎこむ何箇所もの小さな谷々からは多量の雪が押し出され、

いたるところで林道をふさいでいるのだ。気温が上がり雪が緩むと、帰途にとんでもない

難行を強いられることになる。

その林道は落石やがけ崩れが非常に多く、雪解けや大雨の日は特に気を付けねばなら

ない所なのだ。春先の雪解け時など「パーン」という発破に似た音の後に

「ガラガラ、ザー」というような、ちょっと身震いしたくなるような音がけっこう思いのほか

多く聞こえてくる。大雨が降っている時なんかにうかうかしていると落石やがけ崩れで、

あまり奥まで車を入れておいたりすると車が出られなくなっちゃうなんてこともたまにある

そうだ。人が取り残されたなんてこともあるようだから大雨の日の入渓は避けたほうが

良いのだ。大雨が降ると山の釣り師はどうしたってそわそわワクワクして落ち着いて

いられなくなってしまうのだが、命あっての物種である。

その林道のがけ崩れの話はさておき、そのそま道を登りついた場所からその林道を下り

始めるとすぐの所に、片方の表面が黒いビロード状で、直径が五センチから十センチ

くらいの木の皮の乾燥したようなものが、足元に落ちていることがある。岩茸である。

岩茸と言っても茸ではなく、植物学的には地衣類というものなのだそうだ。

地衣類というのは、茸や苔に似ているがそれらとは違うもので、なんでも茸やカビなど

の菌類と藻類が共生し、合体したものなのだそうだ。

林道の岩壁を見上げるとはるか上にこの岩茸がたくさんへばり付いているのが見える。

何とか少し分けてもらいたいなどとぼーっと見上げていると、今にもとんでもなく、硬く

巨大なものでも分けてくれそうなので、そうのんびりはしていたくない場所である。

そんな場所なので、素早くいくつか拾い集め、帰途につくこともある。

ほかにも自生地を見てはいるが、同じようにとても手に入れられるような場所ではない。

この岩茸は秩父などの岩山を抱える地域の物産センターなどでたまに目にする。

湯がいたり、薄皮を取ったり、下ごしらえするのにちょっと手間がかかる。酢の物に

したり、ごま味噌和えにしたりすると、山の香がなんとも言えない一品となる。

山に入ったとき体に染み付いてくる、あの大好きな山の香が、口に含んだ途端に

ふわっと口の中に広がり、その香が優しく脳に伝わり、いろいろな山の記憶が溢れ

出してきて、とても幸せな気分になるのだ。

 傍らに、気の利いた杯に、森伊蔵でもあったりすれば、もっともっと幸せな気持ちに

なってしまうのだ。それに欲を言えば、少し古びた飛び鉋模様の小鹿田焼の器に鹿刺し

が盛られてきたら言うことはないのだけれど。

この冬、散歩がてらアイゼンを担いで、この谷に行ってみようと思うが、熊と熊打ちが

ちょっと心配だ。 
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