鹿を食う                                     新井 一男 

午後五時を過ぎた頃、突然職場に名栗に住む友人のTさんから連絡が入った。

「かずおちやん、たった今、鹿が手に入ったので、今晩鹿刺しで一杯やりませんか。仕事

が終わったら、すぐ家に来ませんか。別に家に泊まっていってもらってかまいませんよ。

念のため、明日になったらもう鹿は無くなっちゃいますよ」という最後は脅しにも似た内容

の電話だった。

「これはこれは、万障差し繰って何が何でも行かねばならぬ。この間合羽橋で買ってきた

ニンニクおろし器とニンニクも念のために用意していかねばならない。この間買った九四

年もののワインもあったよな。一応、青カビか、ガーリック系のチーズでも用意していかな

くちやあいけないな。そうだ、女房にも連絡して、少し点稼ぎしとかなくちや…というより、

帰りの運転手を頼まなくちや…」などと急にそわそわワクワクして、全く仕事どころではな

くなっててしまった。仕事を終えるや否や女房と名栗に飛んでいった。

鹿刺しがドーンと用意され、更にいつもの香菜たっぷりの生春巻きなども登場し、合羽橋

にんにくおろし器も少しお手伝いしながら楽しい鹿談義の中、その夜は更けていった。

 半月程経ったある晩、またその友人のTさんに会った際に「かずおちやん、昨日鹿がま

た取れたんだよね。今日一日鹿割きで、そりやなんたってたいへんだったよ。ところで、

その鹿で今度カレーを作ってみたんだ。それが自分でも感心するほどたいへんうまいん

だよね。明日の晩までなら取っておくけど、どう、来ない。念のため、明後日には全部無

くなっちゃうよ」などとまた最後に脅すように言われた

「むー。絶対食べたい。鹿カレー食べたい。絶対、鹿カレー食べたい」と頭の中は、瞬く間

にまた鹿カレー色に染まってしまった。「むー。女房は、明日は無理と言う。仕方ない。

今度は泊まらせてもらおう。念のため、出来たら休みも取っておくか。新しく手に入れた

ルーマニアのワインでも持っていくか。それに、ヤマメかなんかと、そうだ大魔王もあった

よなあ…」などと。すっかり鹿カレー色に染まった頭で、次の日の段取りを考えていた。

翌日手につかない仕事がやっとのことで終わるや否や一目散に名栗に馳せ参じた。

案の定、鹿の煉製やら、鹿の和風ポトフなども用意されており、またまた鹿三昧の楽しい

一夜を明かしたのだった。

 その週末に、友人のIさんの奥さんのMさんから「頼んであったブルーベリーの木が

材木屋さんから届いたからいつでもいいから取りにきてください」という連絡があった。

翌日の日曜日の朝、ブルーベリーの木を取りにいくと、Iさんから「かずおちやん、今日

暇?この間Tさんからもらった鹿の薫製食べようよ。馬刺しと鹿刺しも少しあるから、

夕方から一杯やらない」と、またまた嬉しいお声がかかってしまったのだ。

頭の中がまたまた異常な速さで鹿色に染まりというより馬も混じったから馬鹿色に染まり

「むー。あの薫製うまいんだよな。馬刺しもあるのか。とりあえず、ニンニクだな。

合羽橋ニンニクつぶし器の登場だな。ルーマニアのワインと大魔王、ブルーチーズに

クラコット…少し食材探しに出るか」などとまたその日の段取りを、すっかり使い慣れて

きた鹿専門の脳の前頭葉回路で考えた。

そしてこの夜も馬鹿三昧の夜がワイングラスの中に吸い込まれるようにしてふけていった

のだった。

 その週末の土曜日にIさんからまた電話があり、「かずおちやん、今日暇?。あっ、そう、

今日仕事なの。この間Tさんに頼んでおいた鹿の薫製がまたできたんだよね。

一杯やらない。じや、七時からね」と、またしても嬉しくてたまらないお誘いが来てしまった

のだ。

電話の応対をしながら、またまたすっかり強化されてしまった脳の前頭葉鹿専門部が

異常な働きを見せ「むー。あのうまい薫製だな。今晩はボルドーのワイン、それに

カルバドス。ブルーチーズにクラコット。あ、そうだ。鴨の燥製もあったなあ…」と、

その日の段取りを考えていた。そしてこの晩も、鹿の薫製、ワイン、チーズから始まり、

途中から都内で用事を済ませてきたTさん夫婦も加わり、鹿三昧の夜がふけて

いったのだった。

その翌週の月曜日(つまり一日おいて)またまたIさん夫婦に会った際「かずおちゃん、

これから家によって軽くやっていかない、ウオトカも冷蔵庫に冷えてるし、カルバドスも残

っているかな。焼酎は、全部飲んじゃったかもね。鹿もまだあるよ」などと、またも

「もう我慢できない」的に自制心を奪われるような、強烈な攻撃を前葉頭にうけ、

へなへなと腑抜けになってしまった前葉頭で、何気なさを装いながらも、たいへん嬉しい

誘いを受けてしまった。

その晩は、鹿の薫製、軟骨焼、鮭の白子の酒煮、鰤大根などといった「まいうー」の肴で、

鹿の夜が更けていったのだった。などと…何時終わるともしれない鹿の話を書いている

と、また机の上の携帯電話が鳴った。
釣行記