西安紀行 05.2.17〜20      小山 友叶

 平成一七年二月十七〜二○日で西安へ行った。近畿日本ツーリストの『いにしえの西安・ゆったり歴史に触れる四日間』と云うツアーである。ツアーの仲間は三一名。中高年が多い。この寒中に西安へ行こうと云うのだから中高年とは云っても達者なものだ。
 JAL六○九便の六四C席は中央部で翼の少し後ろの席。視界は良く雪の富士と中央アルプスが良く見えたが渤海湾あたりから雲の上を二時間も飛び続けて雲の中に入ってからも一時間も飛び、うすら嫌になった六時三十分に着いた西安は雪の舞う白い世界だった。
 時差一時間遅れの西安は五時三十分。添乗員は『種礼霞』と云う西安大学外国語出身の小柄だが割と張りのある声の持ち主。夫は大学教授だとのことは後で聞いた。この添乗員の先導で先ずバスで案内されたのは玄宗皇帝の漢陽稜。雪片の舞う郊外の稜の説明を聞いても寒さで声が凍るほどだった。ここから少し離れた考古文物博物館へ行った。西安の歴史と云うよりも遙かな時代の石器から連綿と続く考古学の世界の陳列で寒さに耐えられず一足さきに車に避難した。そこからシルクロードの東の出発点である大慶路のシルクロードメモリアルの石像に案内された。解説によると世界はシルクロードを芯にして発展したとある。その東の起点だけに大きな石像はラクダを曳く西域の隊商で全長が百メートルもあり西を臨んでいる。
 この地点から見る霞む街路を記念にスナップした。
 宿の『古都新世界大酒店』に着いた。三日間お世話になる宿だ。宿などと云っては失礼な立派なホテル。案内書にも載っている。ドアマンに依って開かれたガラス戸を入ると広いロビーの中央におおきな金鶏が鎮座している。どうやら今年の干支にちなんだもののようだ。正面に長いカウンター、左右対称のふたかかえもありそうな柱と見事な天女の舞の壁画。裏庭にバーミヤンの立像もかくやと思える大きな石像。こんな立派なホテルに泊まった経験がない。
 第二日 朝食の六時半。外は暗く雪が舞う。今日も寒そうだ。三十種類もあるバイキング料理では粥をメーンにサッパリしたものを選んで食べた。北京では下痢した苦い経験があるから。中国では食事を残しても良い、それが礼儀なんだそうだ。日本では残しては失礼となるが中国では逆で食べ切れませんと云うのが食事に対する礼儀なんだと。だから気が楽だ。
 専用バスに乗り今日の第一の見学場所の歴史博物館へ行く途中。霙の降る中、舗道に正座して手をついて歩行者に頭を下げて物乞いしている乞食を見た。素手を赤くして叩頭する乞食に見てはならないものを見たような気がした。
 歴史博物館を見学した。中央にデンと鎮座している獅子像の前に二時間後に集まることを約束して館内に散って行った。どの区画にも兵士がいる。時々十人ほどの兵士は集合して二列縦隊でカツカツと靴音を響かせて闊歩する。まるで戦場だ。なんでこれほど過剰に警護しなければならないのだろうか。我ら観光客と兵士とはまるっきり正反対の存在ではないか。事あるときは即座に反応すると云うのだろうけど事が起こることはないだろう。
 過剰警護された博物館に興趣を削がれた訳ではないが、陳列物の来歴も全く理解出来ず不得要領のままロビーで休んでいた。
 午後はピサの斜塔の中国版の『大雁塔』へ行った。云われてみれば確かに左に傾いているような気がする。 四角の七階建ての建物。高さ六十四メートルとある。急勾配の階段を最上階まで登った。塔の周囲は曰く来歴のある建造物なのだろうが添乗員の説明の他は旅行社の呉れた小雑誌の僅かの記事に頼るしかなかったので出来る限りデジカメに入れておき、帰ってからインターネットで閲覧すれば良いと思ってさほど注意して解説を聞こうとはしなかった。
 最上階から見る西安市街は直に伸びる街路が印象的だが黄砂によるものなのかスモッグによるものなのか霞んでいて透明度は良くない。
 青龍寺に空海記念碑を見た。この寺で空海は修行した縁故によるものだとのことだ。碑は日本人の建設だと云う。
 阿倍仲麻呂の碑を興慶宮公園に尋ねた。遣唐使に選ばれて唐に渡った仲麻呂は唐の試験にも合格し、玄宗皇帝に認められて唐政府の要職を歴任し、功成り名を遂げて幾たびか帰国を試みたが、暴風に南海に流されて遂に諦めて唐土に没した。碑には親友だった李白が仲麻呂の死を悼み贈った詩が左側に刻まれていた。百人一首にある「あまのはらふりさけみればかすがなるみかさのやまにいでしつきかも」と云う望郷の歌の仲麻呂の碑を見ることが出来たのは幸いだった。
 ひとしきり自由時間があり西安のダウンタウンの市場を散策した。雪は止んだがぬかるみの朝市ならぬ昼市は汚れ汚れて泥んこ。そんな坂道の市場は不衛生この上ない。闊歩する妙齢の女性の吐き出すタン。狗肉とあるから犬だろう。その肉を丸太を輪切りにした俎の上で叩き切る肉片。こちらではまるで竹のような棒を売る人。削っている行商人。『サトウキビ』だそうだ。雑踏をクラクション鳴らして通るトラック。バイク。乗用車。どの車も泥んこ。洗ったことのないような泥んこの車のリアウインドウは苔だろうか色が変わっている。そんな様子をそっと盗撮するのだけれど時に行商人と眼が合う。ギクリとするような絡みつく眼。あの眼は蜘蛛の糸のように絡めて投げかけてくる。眼が合った瞬間、タイミングよく避けないと眼が合ってしまう。そうならないように煙ったい眼をして『オレ眠いんだかんね』と云うような眼で極力合わせないようにしていた。
 それにしても限りなく汚い道。わずかに流れる雨水。分厚い靴底のスニーカーで良かった。この汚れた泥んこにまみれた靴を積もった雪を踏んで掃除したが汚いと云う印象は何時までも拭い去ることがなかった。
 夜は『鐘楼』に近い屋台店の続く一画を散策した。内陸のこの西安では魚は見られない。僅かに『カワハギ』を見ただけだった。主として肉。口にはしないつもりだったが種女史が奢ってくれたシシカバブだけは安心して食べた。彼女が選んだのだから大丈夫だろうと云う安心感だった。もうもうとした煙。フライパンに流し込む油。家で使っているエコナ油の『コレステロールが着きにくい』などの油とはかけ離れているがとにかく油だ。それを手柄杓で掬ってフライパンに入れる。また煙。焼けるのを待つ人々。乞食の子供が纏わり付いて花を買えと云う。いらないと云ってもポケットに差し込んで来る。そうそうにバスに避難した。
 オプションの歌舞伎を見に行った。ほぼ満員だった。北京では『京劇』上海では『雑伎』と見たがそれらに比べて繊細にして華麗と云うのが印象に残った。
 夜も更けて路面は凍結し転倒しそうで慎重にバスまでたどり着いた。
 第三日は西安観光のメーンの『兵馬俑』見物だ。目的地に行く道中。下水から揚がる湯気が温かいのかそこに布団を敷いて寝ている乞食。この厳冬にどれほどの効果があるのだろか。
 西安のハイウエイは新設らしく穴がない。上海から蘇州へ行ったときは酷い穴ぼこのハイウエイだったことを思い出した。
 途中で川を見た。広い河原に水たまりが繋がっているような流れのない川。わずかに波立っている。高低差がごく僅かだからどっちが上流なのか分からないくらいだ。こんなところに魚がいるだろうか。真冬の故か川面に波紋は全く無かった。そう云えば釣り具店をバスの中から一軒だけ見た。釣りの活性は低そうだ。
 兵馬俑を見る前に楊貴妃と玄宗皇帝とのロマンスの『華清池』に行った。入園料金四十元。ここには温泉が湧いている。今でも六十四度の湯を出している。全国には二千七百の温泉があるとのこと。この温泉は二千七百年前に見つかったそうだ。
 玄宗皇帝は愛人の楊貴妃の為にここに別荘を建て湯を引いて妃のご機嫌をとったと云うその石造の湯船が残っている。その湯船を巡って現在は回廊となっているコンクリートの建造物を取り払って湯船の周囲に瀟洒な四阿を建てそしてこの寒い最中に上半身裸で池に立つ楊貴妃の像をここに移したらどれだけ情緒のあるものになっただろうか。湯船を囲んで残る礎石を見ながら想像した。
 兵馬俑博物館へ案内された。今から三十年前、井戸を掘っていた農民によって偶然発見されたそうだが寒村だったこの付近が広大な観光地になったのは僅かの間であれよあれよと云う間に世界遺産にまで発展したとは発見者は想像出来なかっただろ
う。その発見者『楊』さんは今は博物館のカウンターの隅で顔も上げず次々と差し出される本にサインしていた。
 この兵馬俑は初代皇帝である始皇帝の陵墓を守る陪葬物として作られた兵士や馬の焼き物人形だ。兵士像は平均百七十八センチと等身大である。その上、表情も一つ一つ異なると云った凝りようでこのことからもいかに莫大な労力が投入されたかを物語っていると解説にある。
 一号坑から三号坑まであり、一号は東西二百三十メートル、南北六十二メートルの範囲に五メートルの深さに掘られた地下坑道で六千の武装した兵士が並んでいる。体育館のような建造物だ。一号棟より一回り小さい二号棟には歩兵隊、戦車隊、騎馬隊などがあり、三号棟には兵馬俑の指揮車両とその馬などで秦の始皇帝軍の構成を表している様は驚かされる。中国の世界遺産三十件の中で『万里の長城』と並ぶ双璧となっているのもむべなるかなだ。
  第四日は午前『碑林博物館』に寄った。雪は止んで薄日が差す日になったが酷く寒い。吐く息が白い。そんな寒い日に碑の解説を承った。石碑ばかりを集めた倉庫だ。寒い上に冷たい感じ。心まで冷えてしまう。石碑に刻まれた字は教科書なんだそうだ。なるほど綺麗な書体で、字の典型がここにあると思った。中でも王義之の碑を見たのは収穫だった。 石碑は傷つけられないように前面にガラスが設置されており拓本も出来ないようになっている。ここは文人墨客が好んで尋ねる所だそうだ。
 ここを出ると城壁に沿って南大街までの区域は文物市場で書画骨董の店舗が続いている。横浜中華街の天長門を一回り大きくしたような華麗な門に挟まれた街区の西の出口。
 ここから南門が望める。夜にはこの書院門と呼ばれる南門がライトアップされてそれは見事な眺めで泊まるホテルが城内にあるので夜ごとこの門をくぐるときにその景色を楽しんだ。ここで焼きそばを山と盛り上げた屋台店とクレープの店の出ているので試食した。
 それまで付いていた種女史は時間を気にして戻って行った。我らもあちこち寄り道しながら専用バスに戻った。
 最後の見物に城壁の所々に『楼』がある。その一つに案内された内部は絨毯を作っている婦人と販売の店員、説明者の構成でこの説明者がなかなか流暢な日本語でシルクロードの行き着く先にローマがあるとか、イスタンブールがあるとかひとしきり説明したあと、絨毯の説明になった。それぞれ製作の人数とその懸かった日数が示されている。見ると四人で四年懸かったとか様々だった。一枚で二十万元と云うから日本円にすると三百万円に相当する見事な花模様の絨毯があった。
 ここを最後に専用バスは空港に向かった。買った紹興酒の酒瓶は手荷物でなくスーツケースに入れてと云うことは事前に聞いていたので田辺さんがケースに入れて呉れた。みんな添乗員の指示どおり処置してるから問題ない筈だが、何故か手荷物検査の処理が遅くここを通過するだけで一時間もかかりいささかうんざりした。ここを通過するまでが添乗員の仕事らしくお世話してくれた種女史と別れた。
 次いで税関手続きではなにやら直立不動の姿勢で鏡の前に立たされ、何やらニヤついている二人の兵士のオーケーを受け、更に出国審査では着ている背広、靴まで脱いで籠に入れてエックス線探知機にかけ、ゲートを通る。それでパスかと思ったら、ボディチェックの為両手を上げて万歳の格好。尻に入れておいた財布が女検査官が探っていた。中国は官憲が幅を利かせている。官憲にあらざれば人にあらずという感じだ。
 ようやっと座った機内では左右にいかにも旅慣れてると云う臭いふんぷんの女に両側を占められて話し相手もなく嫌な思いの三時間だった。 成田に着いて澄んだ空気のスモッグのない風景を見て正直ホッとした。四日ぶりに深呼吸が出来ると思った。あのスモッグに覆われた西安で暮らす種女史はどう思ってるのだろうか。彼女はたまに日本にツアーの計画書を持参して来ると云う。日本をどう思っているか聞いてみたかった。
 
料理アラカルト
一、チリソース
 これが格別に美味しかった。第一日の夜の歓迎宴で出た料理。ここで食事すると証明書を発行してくれる。それほど格調高い西安を代表する料理店。
二、麦のお粥
 ホテルの三種類の粥の内の一つとろりとしていてとても体に良さそう。ヨーグルトみたいだった。作ってみたいけど難しそう。
三、野外のシシカバブ
 トルコ、中国、フランスは世界の三大料理だそうで、この屋台のシシカバブは煙と共に印象に残った。
四、餃子
 餃子の種類の多いのにはビックリした。一口に食べれる餃子のオンパレード。勉強になった。
五、回鍋肉
 辛い辛い、四川料理の極めつき。
六、ゴーヤービール
 青いビール。口当たりがよく、辛い四川料理にぴったり。


西安郊外漢陽陵前の風景
シルクロードの東の出発点。
食事中聞かせてくれた二人
ホテルの内部 テレビではNHKが見られる
ホテルの朝食のバイキング
三日間食べたお粥
大雁塔から見た西安市街
阿倍仲麻呂の記念碑
華清池の楊貴妃
兵馬俑一号館
その内部
それぞれ表情が違うと云う
ダウンタウンの街路は汚れ汚れて
最後の食事
餃子の種類の多いこと
シシカバブを焼く
碑林博物館内部
碑林のトイレ 
この南門は朝晩通った。
市街地の一部
中央の女性が添乗員の『種』女史
クレープ屋


旅行記