パッパカパッパカ、ハンノ木尾根に登る                新井 一男

 飯能を出発し「とりあえず南西の方向に行ってみようかな」などと車を走らせると、軍畑

あたりかその辺で青梅街道にぶちあたる。その青梅街道を西の方向にじゃんじゃん進む

と、奥多摩の駅を過ぎ、日原川を渡る。それから更に多摩川沿いに西に進むと、青梅

街道が多摩川を縫うような格好になるのだが、いくつ目かの橋に檜村橋というのがある。

その橋の手前を右折すると、そこは青梅街道のむかし道である。

 そのむかし道をちょっと行くと小中沢という沢を渡る。それからさらに進むと、むかし道

は、境橋を渡りきった青梅街道と再び合流する。その青梅街道に合流する所の点前に、

六ッ石山方面に登る。しかも本当は甲州まで続いているんだという、もっともっとむかしの

道である。あるそま道がある。そのそま道は、昔はなんでも甲州と江戸とを結ぶメインスト

リートの一つであったというからちょっとたまげる。そこから六ッ石山方面に一時間くらい

登るとハンノ木尾根というのに出る。ハンノ木尾根はなんでも、武田信玄の時代には、

「牧」つまり馬をパッパカパッパカ走らせたところだったという。以前六ッ石山に登ったとき

「尾根に木がぜんぜんないなぁ。なんでずっとどこまでも木のない尾根が続いているのか

なぁ」などと、不思議に思ったことがあるが「牧」だったのだと言われれば「あっ、それで」と

納得できるのだ。でもそのもっともっと昔の縄文時代や石器時代には、石器の材料である

黒曜石や石英の通り道でもあったということで、この尾根では石器や土器を目にすること

ができるのだ。そのハンノ木尾根の付近には、昔はなん軒もの家があったそうで、

今でもいくつかの屋敷跡を見ることができるし、まだまだがんばっている家もある。

 ところで、確かな理由は知らないが、人伝には、なんでもこの山を蝶の楽園にしたくて、

この山を買い取ってしまったという人がいる。今はちゃんとした正しい日本漆を採るため

に、たくさんの漆の木を植え始めたのだと、その山のオーナーは先日話していた。

その山には管理人の人が山の上に家を建てて住んでいる。管理人の人は、長くスペイン

などで芸術活動をしていたこともあったのだという。先日、友人たちとそこを訪れた際、

その管理人の人が「さらに自前でもう一軒家を建てたいので、棟上げを手伝ってくれま

せんか。材料はだいたい刻んであるんですが。」と言うので、このたび、そのお手伝いに

参加することにした。

 当日は、そのむかし道で車を降り、八時半頃登り始めた。以前一度登ったことがあるの

で、その日は違うルートを登りたいと仲間と別れ、小中沢沿いに進むコースを登り始めた。

「トロッコのモノレールに沿って登れば着きますよ。でもとにかく急坂ですよ」と聞いていた

し、急坂はそんなにいやでもないのでさほど心配もしなかった。モノレールにほぼ沿って

進むそま道があったので、その道を進んだ。

その日の天候は曇りで、登り始めるとすぐに霧というか雲に包まれ、視界があまりという

か、ほとんどきかなくなった。その道はあまりしっかりとした踏み跡のない道で沢沿いに

行く道はどうにかはっきりしていたが、目的地はその道からそれ、途中で急坂を登り始め

なければならなかった。モノレールを確認しながら、そま道を登る。

 ところが、どこで登り始めたらよいかはっきりしない。とにかく霧の中というか雲の中と

いうか視界がきかない。そう視界が二十メートルあるかないかというところか。

「沢の音が下に聞こえるが、少し近くなりすぎているのでちょっと行き過ぎてしまったか

なぁ。」などとちょっと不安になったりもした。

 またとにかく棘の木だらけの山で、藪こぎとなったら相当の地獄だろうから踏み跡の

ないところは遠慮したかった。見覚えのある植生の所に出て、山の所有者と管理人の

名のある立て札を目にしたので一安心したがさてどうしたものか。はっきりした道がない。

少し登り始めたが、目的地からそれそうなので、少し戻りとにかくモノレールの軌道敷

きを登ることにした。

 予定の倍近くの時間をかけ、目的地に到着した。棟上げの前に大分体力を消耗してし

まった。尾根には、先発隊の力により、既に柱が何本か建っていた。

「だいぶ遭難されてましたね」などとからかわれてしまったが、まあとにかく無事到着する

ことができた。その日の尾根は一日中今にも雨が降りそうというかずっと雲の中状態で、

午後からはきちんとした雨になってしまった。

そのような中、人力棟上げ隊の決死の健闘及び努力により着々と家の骨組みができあ

がっていったのだ。何となく格好ができたところで人力棟上げ隊は、リュックを重くさせて

いただいて、下山した。
旅行記