『いのちよ』                                    森和夫

 こんなことがあった。家のそばの自動販売機でタバコを買い、家に帰って、さて、タバコ

はと思ったら何と手に持っていたのは釣り銭だけ。タバコを買って釣り銭を取り出すのを

わすれたことはあるが、釣り銭だけ持ち帰ってタバコを忘れたのは初めでである。

「いよいよボケも本格的になったか」古稀を過ぎればそれもやむを得ないことかもしれぬ。

だが、人の名前や日常のちょっとしたことには、何とも情けないと思うくらい記憶が中断

するのに、近頃、鮮明に胸によみがえる記憶もある。忘れまいと思うことはすぐ忘れ、

今まで忘れていたことで妙に生々しく想い出されることの多くは親しい人の死にかかわっ

ている。ということは、私の衰えつつある身体にきざした死への予感が、胸郭のどこか

で、忘れていた死にかかわる体験に共鳴して記憶の中によみがえってるのかもしれぬ。

O氏の場合

 一時期、私は麻雀に夢中になったことがある。常連のうちでいちばん麻雀が好きだった

のがO氏である。O氏は手広く事業を経営していて、顧問弁護士のF氏と顧問税理士の

私がともに麻雀好きということもあって、仕事にかこつけての悪い相談は直ぐにまとまっ

た。氏は特攻隊生き残りだけあって、浮き沈みの激しい度胸によい麻雀を打った。

そのO氏が淋巴癌にかかって入院した。病気が重くなり、氏は痛み止めのモルヒネを常

用するようになった。あるとき、突然、ベッドに座り直したO氏が腕を動かし始めたという。

延々とその動作は続く。看護婦が、回診の時間ですよと告げに来ても、ちょっと手が離せ

ないからといって診察に応じない。その間も腕の動きは一向にやまない。

「何をしているんですか」と聞くと麻雀しているんだと云う。付き添っていた家族が

「誰と麻雀をしているの」と問いかけたところ、誰と誰と答えたそしてそのメンバーの中に

F氏と私の名前が入っていた。

間もなくO氏は亡くなった。モルヒネを常用したことによって起きた幻覚症状がそうさせた

のだろうが、眼を据えて虚空にパイを打つ仕草は鬼気迫るものがあったと、あとで奥さん

から聞かされたとき、はわしは奥さんの顔をまともに見られなかった。O氏の死期を早め

た責めが私にもあるように思えたからである。

Mの場合 

 Mは私の釣り仲間であった。天竜川へ鮎の友釣りに行ったのが彼とともにした最後の

釣りであった。そしてそれはMにとっても最後の釣りとなった。

夏の暑い日であった。下着の下を汗が滴り落ちるのが判った。天竜川は川幅も広く、

しかも瀬が荒い。深く入ると流される虞がある。私は泳ぐことを苦にしないので、川に立

ち込んで釣ったが、Mは泳げないのであまり移動せず岸から竿をだしていた。

一泊の予定だったので、旅館で夕食を摂ったが、Mはビールばかり飲んでいて料理を

殆ど口にしなかった。栄養をつけないとバテるぞと注意しても、食欲がないのか一向に

箸が動かない。

釣りから帰ってまもなく入院した。病名は膵臓癌。そして三ヶ月後に不帰の人となった。

思えば、一緒に釣りに行った頃、Mの病状は相当すすんでいたのではなかったろうか。

彼があまり動こうともせず岸から釣っていたのは泳げないということのほかに動くのが

億劫だったからではなかったか。さらに、病気に伴う痛みを感じていたようにも思われる。

旅館でビールばかり飲んでいたのは、酔うことによって痛みをやわらげようとしていた

からではなかったか。

Mが鮎釣りにのめりこむようになったのは死ぬ三年前からであった。そして私が急速に

Mと親しくなったのも彼が鮎釣りを始めた時からである。

私には四十年近い鮎釣りのキャリアがあるので、Mは何かいつけて私に鮎釣りのことを

聞きに来た。そして一緒に釣りに行った。彼の鮎釣りに対する執着は異常と思えるほど

であった。鮎釣りは夏の釣りで、時期としては六月から九月頃までであるが、彼はシー

ズンオフの間にも、針を巻いたり、仕掛けを作ったりして翌年のシーズンに備えていた。

Mにとって鮎への挑戦は一年中という感があった。

彼は一年中夢中になれるものとして鮎釣りを選んだのではないか。私はこうも考えてみ

た。もしかしたらMは三年前に自分の身体の変調に気づいたのではないか、そして

その不安を何かに夢中になることにより払拭しようとしたのではないか。とすれば彼の

発病は三年前ということになる。三年間、Mと深く交わっていながら、彼の身体の内側

については何も知らなかったことを私は悔いた。

Mの通夜の帰り、釣り仲間の一人が私に云った。「Mを殺したのはお前だ」と。冗談に口

にした言葉だったろうが、私にとってはグサリと胸に刺さる一言であった。

私の気持ちの中に、澱のように重く残る思いがある。人が生きてゆくということは、

サバイバルゲームに勝ち残ってゆくということなのか。

私の生命はO氏やMの生命を犠牲にして現存するのか。私はO氏やMの生命を奪った

のか。とすれば生き残ってゆくということは何と残酷なことだろう。

ある作家が書いているものを最近読んで、胸の中がいくらか軽くなった「病院で、瀕死の

ガン患者同士が、隣あったベッドにいて親しくしていた。そのうち一人が死去した。

残る一人が、いよいよ自分の番だと覚悟していると、なぜかふいに病状がよくなり退院

できた。これは死んだ人になお寿命が残っていてそれを隣の病友が貰ったからだ」

私は、O氏とMから生命を貰ったと思っていいのだろうか。アリガトウと云うべきか。
釣行記