釣行記

『鮎も町民』松原アユは、香りいっぱい!                 木崎勝年

 山形県の最上小国川へのルートは、二つある。一つは東北道仙台市先の古川ICで下り、通称「北羽前街道」と呼ばれる国道

四七号を利用して山形県最上町へ出るコースと、もう一つは同じく東北道を利用し、仙台市手前の村田JICから山形道に入り、

寒河江ICで下りて、国道三四七号から国道一三号を経て舟形町へ入るコースとがある。

 今回の本郷坊頭会のアユ釣り遠征大会は、役員さんが前者の北羽前街道のコースをセットしてくれた。大会参加者二十二人

を乗せた観光バスは朝霧の煙る北羽前街道をひた走る。ドライバーと同じで一睡もしないで朝を迎え、ぼうっと風景を眺めてい

ると見渡す限り稲穂が黄色く色づいていて、もう少しで収穫の時期を迎えようとしていた。

砂利採取で濁っている江合川(荒雄川)に沿って進み、鳴子温泉郷を横目に見ながら、山へと入っていく。

陸前東線が国道沿いを走っている。峠に入ったが、それほどの峠でもないので観光バスはぐんぐん走る。県境を通過した。

宮城県玉造郡鳴子町から山形県最上郡最上町へと入ったのである。早朝のためまだ車の往来が少なく平坦となった国道を順

調に走り、最上町の最大の集落である向町を過ぎた。目指す瀬見はもうすぐ先である。左の車窓に小国川の清冽な流れが望

まれた。

車内では「良い川だねえ!」とか「松原アユが跳ねてるぜ」とか「メジロアブはいねえべなあ」などといった会話が聞こえてきた。

流れは透き通っているので、川の中の石までよく見える。止まってみればアユやヤマメが見えそうである。

発電所から落下する水が滝のように見えた。もう寝ている者は一人もいない。川を見たので俄然やる気が出た人もいたようだ

し、初めて小国川を見て感動している人もいた。

車窓の右側を走っているJRの瀬見駅を過ぎるとオトリ屋の看板が見えた。今回予約しているオトリ屋この少し先の右側にある

「沼沢オトリ屋」なのである。このオトリ屋にはあらかじめ約七十尾のオトリを予約しておいたのである。

観光バスが左側に止まったので降りると、川を見下ろすところに「山神社」が祀られていた。最初にここにお詣りすると、次々と

仲間がやってきて「どうぞ優勝できますように」と声を出して拝んでいる人もいた。今回泊まる瀬見温泉もこの対岸に望まれた。

 今回の本郷坊頭会の友釣り遠征大会は、ここ小国川なのである。「松原アユ」と呼ばれている美味なアユを釣ろうということで、

八月二十日の金曜日夜十時に出て、翌二十一日土曜日の朝六時半に着いたのであった。大会は午後五時までで、尾数で決定

される。オトリの貸し借りは失格となる規定である。入漁料は千五百円、天然アユのオトリが五百円養殖オトリが四百円だと言う。

役員さんの計らいで、一人三尾のうち天然アユを一尾あて買ってくれた。オトリ屋の店内は土間であり、車が五・六台止まれるほど

広く、既に客が数人座敷に上がっていた。

オトリが飼ってある大きなイケスの上には「鮎も町民」と色紙に書かれていて額に入って飾られていた。こんな色紙は初めて見た。

このように小国川のアユ、つまり「松原アユ」は町民と同じ扱いをされている素晴らしいアユなのである。大変嬉しくなってしまった。

池にはスイカが浮かべてあった。誰かがこんなにオトリや券を買ったのだからサービスでこのスイカをどうだとそこのお婆ちゃん

に言うと、その他にもう一個持ってきてくれた。 天然アユは、アユ独特のあの香りがぷんぷんしていた。それに比べ養殖アユの

香りはほとんどなかった。友缶数個に分けてオトリを入れた。下流の舟形町に向かって観光バスは走った。

そこはバスが河川敷まで入ることができ、トイレもあり、大勢入れる流れがあるとのことだった。四・五キロほど下り、左岸側の

河川敷の運動公園にバスを止めることができた。バスの両側の窓から後部座席に鎮座まします「友釣り道具様」の全てを下ろす

のである。その作業をする人、流れにオトリを浸ける人、テントを張るひと、トイレに行く人、ぶらっとしている人等々様々だが中

には早くオトリを分けてもらい釣りたくてそわそわしている人もいた。焦ることはないやねん。

全てが整って、釣り支度も終わり、記念撮影をしたあと、田嶋会長の挨拶で大会が始まった。

川に浸けてあるオトリの配分が行われると、簡易テント前の流れに何人も竿を出した。数人が上流へ向かって歩いて行った。

陽が差してきたので今日も暑くなりそうだ。テント内には五・六人が残っていて、ビールを飲んだり、朝飯を食ったりしていた。

「今日のポイントは何処だい!」と、平沼伸雄さん独特のアクセントで聞いてきた。

「そうですね、あそこが一番ではないですか」

「どうして!」

「だって、どう見てもあそこしか考えられませんよ。聞くところによると増水して垢が流された後だがやっと付き始めたようで、あそこは

垢がイッパイ付いていそうだから野アユがイッパイいそうだし…」

「どうしてだい!」

「それは見ていればわかりますよ」と言いながら日本目のビールを口にした。

「平沼さん、!今入っている人が二尾目を掛けましたよ」そう言いながら、平沼さんからいただいたツマミを口にした。

全く寝ていないのでビールが程良く効いてきた。テントから数十メートルほど下の護岸上に二メートルほどのポールが立っていた。

そのポールに三十糎ほどの赤い旗が結ばれていてそよ風にたなびいていた。この旗は何の旗なのだろうか。

「それではあそこでやってきますよ」竿を担いでオトリが三尾入っている引き舟を持ってテントより百メートルほど下流へ行った。

二尾目を掛けたヤツはどんどん上へオトリを引き上げていったので、そのポイントが空いた。天然アユを各自の友缶へ移したと

き大きさがばらついていた。大物もいたが平均して十八センチ程度だった。天然アユがこの程度だから水中糸は○・二号で十分

だが、今日は○・二五号の上の○・三号でいくことにし、九メートルのズーム竿にセットした。

細糸にしなかった理由は何もなかった。オトリを付けて流れに放った。オトリが自然に元気よく泳ぐのを待った。そうしておいて

足下を見ると、石には真新しいハミ跡がしっかりと付いていた。このハミ跡は、移動ハミではなく、居着きアユのものと思えた。

ポイントは、既に先行者が右岸側へ野アユを追い込んでしまっているので、オトリをその方に向かわせた。

タバコに火を付けたあと上流を見ると先ほど二尾目を掛けた知らない人の直ぐ上に大和さんさらにその上に森先生が竿を出し

ていた。

 このポイントは、水深が深いところで膝上十センチ位で、石が数メートルほど流れに直角に、それは人為的に置かれていた。

そこには古い青いビニールシートの切れ端が並べた石に引っかかっていた。そのため、これより下流は水が止められるように

なり、水深が半分以下となっていた。

オトリが自然に泳ぎ出すと待望の一尾目が掛かった。慎重に抜き上げると十八センチクラスだったが、これからの友釣りを予感

させる待望の一尾目がキープできたのである。 最上川の本流から差してきた天然アユなので引きが良かった。

これをオトリにして流れに放つと、ぐんぐん上流に向かって泳ぎだし、アクションを加えなくても天然の野アユを次々かけて、

あっという間に「ツ」が抜けた。そこで十メートルほど流れを下った。

水深は二十センチほどもないが、そこへ元気なオトリを持ってゆくと、突然「カガーン、ビビューン」と、もの凄い当たりと強烈な

当たりがきて、二メートルもすっ飛び、途端に軽くなってしまった。オトリを手元に寄せて見ると、ハリス止めのイカリ針が切れて

無くなっていた。かなりの大物であったに違いないが、水深が浅いためにショックが大きかったのかも知れない。

これを潮に休憩することにした。十一時を回っていた。 引き舟のカウンターは十七尾を指していた。

まずまずの釣果であろうと思ったのである。

テントの中には五・六人が休んでいた。ビールを飲みながら下流の遙か遠い山並みを見た。磐梯朝日国立公園の月山のよう

である。その方角が曇ってきていた。昨日コンビニで買った小さなパンを食べた。大和さんが「ポイントはあそこだけだよ」と、

テントのほぼ正面を指して言うので、その当たりを注視すると、大きそうで平らそうな岩らしきところがあるのがわかった。

確かに真っ黒に見える。きっと岩にアカが着いているためであろう。しばらく休んだあと、そこから再開した。

しかし、すぐには掛からないので、どんどん流れを下り、前からやっていたところまで下がった。ぽつぽつ釣れてくるが、

入れ掛かりはなかった。月山の方角を見ると、黒い雲が出てきていた。その上ごろごろと雷鳴が聞こえてきた。

『まだ雷様も遠いようだから、多分平気だろう』と、勝手に思いながらも、カーボン竿だから雷鳴が気になった。

『随分と暗くなったなあ』と、ぼそりと呟いた。

 いつの間にか、すぐ上に「松っつぁん」こと松沢さんがきていた。帽子が飛ばされないようにアゴヒモをしていた。

「どうですか、釣れましたか」と、声を掛けてきた。

「掛からなくなっちゃったよ」そんな返事をした。オトリの泳ぎが良くないので交換した。それが上流に泳ぎ出すと、すぐ野アユを掛

けてきた。交換してオトリを離すと、すぐまた掛けてきた。いわゆる入れ掛かりとなり、五尾連続掛かったのである。

百メートルほど下流の瀬を見ると、森先生や土屋タモッちゃんが下流に駆けながら取り込んでいるのが見えた。森先生は休憩し

てないようだ。 月山の方を見ると真っ暗になっていて、ピピピッと稲妻が走り始めた。まだ遠いいが、テントの方を見ると、十数人

が既に上がっていて着替えが終わっていたようだった。時計は三時五十五分を指していた。『納竿までまだ一時間ほどあるが、

月山の方よりも前方の栗駒国定公園の方が何か変だなあ。何かあったらやばいから上がろうかな。群馬の鬼怒川上流では、

暗くもにらず、雷鳴が聞こえなくても、稲妻もないのに、手がビビッときたこともあったからなあ』オトリを外して引き舟に入れ、

竿を担いで戻り始めた。途中まできたとき、栗駒の方でピカッと大きな稲妻がした瞬間、竿を持っている右手にビビッときた。

『ア痛ッ』と、思わず声を出してしまい、無意識に竿を放り出し、体はすっ飛んで河原へ上がっていた。

竿は流れはあるが、流されるほどではなかった。稲妻の様子を伺いながら、仕掛けを外してベストにしまった。月山の方の稲妻は、

数回小さく光ったのは承知していたが、先ほどの大きな稲妻が最後のようで、そのまま何も起きなかった。

栗駒の方は徐々に明るくなってきていて、稲妻も少なくなってきていた。竿をたたんだあと、アユを勘定しながら腹出しをしたあと、

テントに戻った。 アユは、ワタを出してしまったら意味がないと言う人もいるが、俺はワタを食べないし、ほとんど人にあげてしまう。

それを貰った人もワタはいらない人がほとんどである。そのため、より鮮度を保つためワタを取ってしまうのである。

空模様がこんな状況だったので、五時前に全員の支度が終わった。バスへ荷物の積み込みは、今夜の旅館で必要なものを後

積みしなければならないのである。そうしないと荷物を全部退かさなければならなくなってしまうからである。

 二十分ほど走って小国川に架かる瀬見橋を渡り、瀬見温泉に着いた。役員のタモッちゃんが予約してくれた板垣旅館に入った。

一番先にやることは、旅館の冷蔵庫に全員のアユをしまってもらうことである。各自の名前や印を付けたビニール袋を仲居さん

に渡した。松沢さん、渡辺さん、諸井さんと俺の四人組は三階の陸奥という部屋が充てられた。

小国川の清流を見下ろせる六畳間ではなく山側の部屋で、狭いテラスが付いた。そこから外を眺めると普通車がやっと擦れ違え

るほど狭いとおりが見下ろせた。真向かいにはまだ新装まもなそうな「旅館孫六」というのが建っていて、既に泊まり客が入って

いたり、またこれから到着する旅人の受け入れ準備で、若女将らしき人や従業員が忙しなく玄関を出たり入ったりしていた。

 『さて、瀬見温泉の素晴らしいお湯にでも入ってくるとするか』と、言いながら支度して一階の温泉へ行った。既に温泉には仲間

が二人いた。「良い湯だよ」と言うので、汗でぐっしょりの髪を水で超薄められているシャンプウで洗い、体を流したあと、一坪ちょっと

の浴槽に威勢良く飛び込んだ『ありゃあ、冷てえ!』その声に仲間の二人は笑っていた。

四人目に渡辺さんが入ってきた。彼も温泉を期待して入ったが、「何だいこれは!」と言って温泉を出ていった。

シャワーすら無いのである。着替えていると、おばあさんの仲居が「温泉が水だよ」と入った人に言われて入ってきた。彼女は、

ぶつぶつ独り言を言いながら、風呂場に入っていった。 部屋に戻って自分のクーラーからビールを出して飲みながら、旅館で

貰ったパンフレットに目を通した。この旅館は瀬見温泉でも老舗であり、板垣喜和エ門という方がオーナーと書かれてあり、

何代も続いている旅館と書かれてあった。瀬見温泉の由来は、「文治三年に源義経と弁慶の一行が、奈良吉野より北陸地を

北上し、念珠ケ関を経て最上川をさかのぼった』とあった。

文治三年と言えば、一一八七年だから今から八一二年前の鎌倉時代である。『新庄より亀割峠を越えたとき、かねて身重の

北の方が急に産気づき、探し当てた観音堂に休ませた。弁慶が水を探し求めて沢を下ると、川辺から紫雲が立ち上がるのを

見て、長刀で掘り起こしたところ、お湯が湧き出てきた。そのお湯で生まれた子の産湯を使った。

そして、子の名前を「亀若丸」と名付けた」―とも記されていた―歴史のある温泉なのである。

 しかし、その温泉が《水》だったとは、返す返すも残念であった。

 ベランダから見える正面の「孫六」という旅館の前には、車が六台ほど止まっていて、そこには所沢ナンバーの車もあった。

所沢ナンバーの車は、どこへ行っても見かけるので、何の目的かわからないが「釣りキチ」の絶対量は多いのである。

六時半から二階の大広間で大会の成績発表と懇親会が開催された。土屋幹事の司会で先ず田嶋会長の挨拶のあと、

一番長老の細田春雄さんの乾杯の音頭で始まった。幹事さんから成績が発表された。優勝は二十七尾で俺、準優勝は二十三尾

で森先生、三位は十五尾で大和さんが受賞し、大物賞は平沼敏明さんの釣った二十四センチがトップであった。

宴会が始まると、腰の曲がった仲居さんがやってきて、座る前にヨイショと腰を伸ばして、「ビールをどうぞ」と言って注いでくれた。

「ありがとう、ところでおばあちゃん、どうしてここのアユは「松原アユ」って呼ばれているんだい」

「わたしゃあ良くしらないね」

「そうか知らないのか、お酌をありがとう。他のお客の方へ行っていいよ」追い返した訳ではないが、次の人のところへ行ってくれた。

 左隣の細田保雄さんに「ビールでいいかい」と行って注いでやると、「今日はビールで決めるから」と言って飲み干した。

右隣は森先生で、その隣は細田吉春さんである。

「木崎さん、刺身を食べましたか」と、細田吉春さんが森先生の背中越しに言われた。

「ええ、全部たいらげましたけど、何か!」

「いや、ちょっと…」少し匂いが気になったということだった。『良し、それならばビールで消毒だ』とばから飲み干すと、細田保雄さん

がお酌をしてくれた。大相撲を張っている仲居さんがお酌にきたので「松原アユ」のことを聞くと、やはり知らないという返事だった。

また、ここのアユを食べるとなると、釣りをする人から貰わない限り食べられないとも言っていた。

 ―数年前からその松原という地名を調べていた。しかし、最上町にも舟形町にも、町名もなければ大字名も小字名も無かった

のである。だから、勝手にきっとその昔、この地方を治めていた「松原城主」に献上したアユだから最上川の右岸に流入する

小国川で釣った全てのアユを「松原アユ」というものと思っていたのである。そこで、この「松原アユ」のことを知りたくて、帰ってきて

さらに調べてみた。

「松原アユ」とは、最上町の瀬見の辺りから舟形町との境界少し下流まで辺りを昔から「松原」と呼んできたらしいということまで

はわかった。 そこで瀬見のオトリ屋の沼沢友治さんに電話で聞いてみた。

沼沢さんが言うのには「この辺りで取ったアユを「松原アユ」として高松宮様に献上したので、いつの間にかその名がついた」と

教えてくれた。これで何となく納得できるような答えとなった―

幹事さんから入賞者に一言挨拶を求められた。優勝した俺は、大変気障だが「鮎は愛で釣れ」と結んだ。

 準優勝の森先生は「友釣り熱中で、食事抜きで釣りまくる」と仰った。先生は正にそのとおりなのである。

三位の大和さんは「粘りの勝利」と仰ったような気がした。大宴会も大締めでお開きとなり、部屋へ戻った。

 少し温泉街を見物してくると言って着替えてまだ暑さの残っている外に出た。左の方に行くと「ふかし湯」という共同浴場があった。

旅館に頼めば入れるそうである。その入り口右側には、この温泉付近で毎年友釣り大会が開催され、そのチャンピオンの氏名と

住所が十数回分大書されていた。 その中に埼玉は志木市の人が二回チャンピオンになっていた。

 ここを過ぎると道は少し登り坂となり、右左とカーブして道がぐーんと広くなる。この左側には大きなホテルがあった。

瀬見グランドホテル観松館と書かれてあった。駐車場も大変広い。そのホテルから下手なカラオケが聞こえてきた。

この先で道路は左に曲がり、ややあって義経大橋に出た。ここで戻り、旅館を通り過ぎ、瀬見橋まで行って、暗い流れを覗いた。

流れの音が聞こえるだけでその他は感じるものはなかった。部屋に戻る前に、清流が見下ろせる仲間の部屋に寄った。

 細田春雄さんから「前の旅館に泊まっているのは従兄弟であり、ここへアユ釣りにきて四十尾台の釣果があったそうだ。明日も

ここでやって、翌日は新潟の三面川をやるそうだ」と言っていた。我々の部屋から見えた所沢ナンバーの車がそうだったのである。

部屋に戻ると、まだ早い時間であるが、鼾コンビが既に「超・ウルトラ鼾」をかいていた。廊下にいてもそれが聞こえてきて凄まじい。

渡辺さんがいないので探すと「とても眠れない」と、隣の部屋に遊びにいっていた。

同類相哀れみとばかり、薄い布団を一枚掛けて横になった。それにしても素晴らしいハーモニーである。俺が加われば三重奏に

なるし、渡辺さんが加われば四重奏になるのだが…。今夜は、美しい「松原アユ」の夢が見られるだろうか?。

 器量好し松原アユは愛で釣れ