釣行記

 『鮎余聞』                                  大河原 重二

 其の一 Yさん    
 Yさんは他界してすでに弐拾年が過ぎた。亡くなったときは五十才の男盛りだった。生前は、名栗、原市場、飯能と入間川を

こよなく愛した鮎釣師の一人だった。 ほかの釣りは一切しなかった。他の川へも行かなかった。

日頃誠実なサラリーマンのYさんが、只一つの道楽だった鮎釣り、清冽な入間川の水面に桜の花びらが浮き、浅黄色の木の

芽が何時しか、滴るような緑に変わる、自然の息吹が、確かな移ろいが感じられる五月、全国河川の鮎情報が聞かれる。

この頃になると、Yさんの瞳が少年の様な輝きになる。同じ道楽を持つ者同志、道で会ってもつい話しが長くなる。

「今年はどうですかね?」

「どのくらい放流したのかね」

「Oさんの仕掛けは、針は」等々、道で話す釣りの話題が熱を帯びる。 弐拾年もたっている今でも、若鮎と云う言葉を聞く度に、

浅黒く日焼けした精悍な顔が想い出される。或る時、奥さんがこんな話しをされた。

「それは単なる偶然だったのか、それとも主人のこの世に残した未練がそうさせたのか、五、六年前の六月十日の十時頃の

出来事でした。

 今でも主人の使った釣り道具が、物置に置かれているのですが、その内の「ブク」が突然鳴り出しました。低い音でしたが、

たしかに鳴っている。私には何の音か直ぐ理解出来たんですが「お母さん、何の音、あれ」子供たちも聞き耳を立てました。

私は直ぐ立って物置に行ってみました。そして不思議なことに把手に手をかけた途端、ピタリと鳴り止み、スイッチを押そうが

揺すってみようが、二度と音は出ませんでした。勿論五、六年前ですから、拾五年ばかりだっているわけで、電池も尽きてる

筈なんです。それも入間川の鮎解禁の日に合わせて鳴り出すなんて、私は恐る恐る、ブクを持ち上げてみました。

すると「バサリ」と音がして、ブクの底に張り付いていた茶封筒が落ちたんです。そして封筒の中に黄色く変色しているが、

はっきり主人の若い時の写真と判りました。

主人の横に寄り添うように立っている若い女性、子供たちに見せても「綺麗な人ね」と言ったっきり、テレビゲームに夢中で

にべもない。間をおいて私は「さあ皆んな、お仏壇へお線香をあげるのよ。」私は子供達の一番あとにお線香をあげ、

そっと写真も添えたんです」そして奥さんは遠くを見つめる様な眼で次ぎの様な話しをされた。

「立ち上るお線香の煙の中に、竿を担いだ在りし日の主人の笑顔をしっかり見たんです。ほんとうです…」と。

 生者必滅、色即是空。

 付記 その後の子供達は立派に成人されて幸せな家庭をもっています。

其の二 夫婦相和し

 七月初旬とは言え、信州の夜明け前の気温は低い。今日此処千曲川佐久の解禁である。

私たち自称T、K、O、の三馬鹿トリオが未だ蕾も持たないコスモス街道を通り佐久に出た。時刻も早いし河原の人影もまばら、

囮屋さんの前に頃合いの中州がある。かなり広い中州だが、火を焚いているのは二人だけのようである。

「よし、あの二人の前後に陣取ろう」と先客に挨拶をして諒解を得る「どうぞどうぞ」と焚き火のそばに招じてくれた。

「私は代表で薪を拾ってくるから、爺さん二人はあたらしてもらったら」

「そう年寄り扱いにするない」言いながらすでに手をかざしているKさん、Tさんもならんであたる。解禁の日なので川原には流木

も多く、集めるのにそんなに時間がかからない。一抱え持って仲間に入れてもらう。 先ほどより回りも白々と明けてきた。

焚き火に照らされた横顔に福よかなものを感じた私は「ご夫婦ですか?」と聞いてみた。

「はい」先ず奥さんが口を開く

「私達、家は横浜なんです。小さな町工場をやっているんですが、今は停年で息子に会社を譲り、主人の釣りのお供をして、

呑気にやっています。千曲川へ来れば二三日逗留して釣りをする主人なので、その間私は信州の名所旧跡を見て回っていたん

ですが、若い時の主人と言えば海釣り専門で外洋でカジキを追ったこともあるんです。 それが渓流釣り特に鮎を始めてから、

それこそ鮎にのめりこんじゃって、時期になるとほかの事はもう頭に無いんです。二十糎前後の魚に大の男が振り回される、

鮎のどこにそんな魅力があるんだろうと?たしかに渓流の女王、香魚の名にふさわしい流麗な姿、主人をそれこそ恋人のように

虜にした鮎、私、鮎に嫉妬を感じていたみたい、それならばって二年前から主人に教えてもらって鮎釣りを始めたの、自分で

鮎釣りをしてみて良く理解出来たんです。主人の鮎釣りに引き込まれた気持ちが良く判りました。」

 そこで始めて口を開いたご主人「いや〜僕の方は始め大変だったですよ。掛かったら取り込んでくれ、囮を取り替えてくれ

それはうるさいこと、また女房の方が良く掛かるんですよ。でも今は自分で囮も換えられるようになって大変楽です。

それでも女房を上流で釣らせるんです。間違いがあったときでも何とかなりますから。この頃はもうその必要が無い位に慣れて

きました」奥さんを気遣う優しさがちょっぴりにじむ。そこ迄黙って聞き役だったKさん「羨ましいね。夫婦で同じ趣味が持てるなんて、

この頃、女性の鮎釣りが増えてきたけど、夫婦というのは少ないですね。私なんかも年を取ってから覚えた釣りなんで、川へ来て竿

を出せば気が済むんですよ。釣れて良し、釣れなくても良し、そんな気持ちでやってます」

「そうそう鮎の魅力、釣れて良し、釣れなくとも良しですね。あの掛かったときの感触だけをたよりに」

そんな話しをしているうちに、対岸の人も増え、いよいよ解禁の時刻も近づいている。

竿を立てて準備をする人も多くなる。天気良し、川の状況良し、仲間達良し、すわ出陣…。結果は後日…。