旅行記 

 北京の旅                                   小山 友叶

平成十三年の二月に『出雲・玉造温泉』へ元下水道課の仲間四人で行ったときに次回は海外だと云う話で取りあえず北京はどうだろうと云うことだった。それが本物になって、平成十四年二月十日から十三日までの四日間『北京』へ行こうと云うことになり関口幹事が段取りしてツアーが組まれた。総額が四万円と云う格安の阪急交通社のツアーで概ね左記の行程である。メンバーは野口、小俣、関口、田邉、大野各氏に私の六名。
 日 時     コース内容
二月十日 成田空港〜北京。着後、ホテルへ
 十一日 北京郊外観光は万里の長城、明の十三稜、頤和園、
       お茶専門店、夕食に北京ダックと北京料理
 十二日 北京市内観光。天安門広場、王府井通り自由散策、
       天壇公園、雍和宮、工芸品店、北京京劇見物。
     夕食は四川風火鍋料理
 十三日 午前北京空港出発 午後成田到着
と云うものであった。かねてから毎月の積み立てをやっているのでその積み立てがあるから必要経費はパスポートのみである。
 一月四日に川越のパスポートセンターへ全員で手続きに行った。十一日以降なら出来ているから本人が取りに来るようにと。写真がうるさいと云うのでデジカメ写真でどうかと写してみたが眼鏡のレンズに外からの光が入って目元がはっきりしないので没になっては同行のみんなに迷惑がかかるからとプロの写真屋に撮ってもらった。二枚で千二百円だから高い。
 現実には申請の際に丁寧に見ることはないようだったのでデジカメの写真でもパスしたのではないかと思う。
 二月十三日に大野君と取りに行った。川越市営地下駐車場へ車をおいて七階のセンターへ行き、収入印紙一万三千円と県証紙二千円を貼って事務員から『生年月日と本籍』を聞かれただけで赤いパスポートが渡された。
 なんでも物価が安いからこちらの一万円が十万円に相当するとか。為替レートは百元は千七百円に相当するらしい。大沢栄治君のお父さん大沢源一郎氏は八十三の今でも一人で北京へ行くと云う。北京語が話せるそうで先日お会いしたら中国の友人から来たと云う年賀ハガキを見せてもらった。その中国通の源一郎さんの云うことでは普段の格好で良いと。気取ることはないと。
 生水は飲めないそうで殆どの旅行者が胃腸を壊すとのこと。要注意だ。保険は七千三百三十円とかなり高い。中国では何があっても補償は日本と桁違いに安いとか。それだから入ってないと心配な訳だ。入ったのは田邉さん、小俣さんと私の三人だけだった。私はデジカメを持ってゆくつもりだ。小遣いは三万もあれば良いだろうということに話し合った。個々に買うのではなくパンフレットを見てそれで添乗員に注文すればダイレクトに自宅に届くようなシステムだと。日本では「元」に換えることはできないから向こうで換えるのだが、使わなかった「元」を「円」にする際には半額になってしまうんだと。
今年は例年になく暖冬らしい。モスクワなどは三十年ぶりの暖かい冬とか。とすると北京もあったかいだろうか。小俣さんがベンチコートで行くと云うので私もベンチコートにすることにした。ベンチコートなら何処でも大丈夫だ。お金は四万と別にクレジットカードを持って行くことになった。当日は八人乗りのマイクロを借りたのでまとまって乗ることになった。
 命の次に大事なパスポートをどのように持つかそれが一番気がかりだ。女房がセカンドバックの中に更にご丁寧に布袋を取り付けて「このバックを肌身離さずに何時も首にかけてね。寝るときもよ」だと。「私がスペインへ行ったときのように」と訓戒を宣うた。経験者だから黙っていた。どのみちパスポートには神経を使うようだ。紛失したら皆に迷惑をかけるから。他に水。水は水道水をペットボトルに二本詰めた。命の水だ。水をヒコーキで持って行かなければならないとは思わなかった。お金は七万持った。
二月十日(日)
 春なお寒い如月の十日。揃って出発した。成田は以外と時間がかかる。関越、外環と行って三郷から柏の利根川沿いに成田へ向かった。アラジンパーキングエリアに着いたのは十一時だった。成田空港にはやたらと警備のガードマンが居て、要人の警護なのかそれともテロを警戒しているのかピリピリしている。搭乗のチェックで荷物を預けたのは関口幹事と小俣さんの二人。二時五十五分のエアチャイナに搭乗して飛び立ったのは三時二十五分だった。空港で四時間待ったことになる。さよならだけが人生ではない待つことも人生だ。
 阪急交通社のトラピックスツアーで、同行は二十三人である。機は両翼に各エンジン一基の中型機で満席だった。エコノミークラスだからシートが狭い。中国Beerが出た。初めての中国とのコンタクトだ。検診表と入国の簡単な申請書が配られた。中国語でさっぱり書き方が分からない。関口幹事が雛形を書いたので全員右にならえだ。
 フライトは三時間と云うことだったが着いた時間は七時二十分だった。三時間五十分のフライトだった。北京時間では六時二十分で時間差は一時間だ。だから何時も約束の集合時間にプラス一時間と計算していた。中国のカウンターは時間が掛かると云う前評判だったが割と早かった。遠くで花火が上がっている。真冬の花火とは珍しいと思っていたら今は正月なんだと。ロビーでガイドに案内されてバスまで歩く間、道路を横断する時に車が左から来た。距離があったので何事もなかったがそれでも危険の一歩手前だった。日本でなら車が減速するところだが向こうはそういう風にはなっていないらしい。人口が多いから人より車優先なのだそうだ。以後、要注意だ。バスの中で一万円分の「元」に両替した。六百元だった。と云うことは一元は十六円だ。その内から空港使用料とかで九十元を徴収された。約千五百円だ。中国の札は薄っぺらな横長だ。横幅十四センチに対して縦幅が五センチと帯状だ。どこか玩具っぽい。ドルはしわくちゃだし、札に限っては日本の札は何時も新しいし、一番だと思う。
 初めて中国のバスに乗って興味深く交通の全てを観察した。主要な道路以外の道路には区画線のセンターマークが引いてないから左車線右車線が分からない。車は左ハンドルで通行は右側通行だ。運転手はまだ乗客が乗り終わるや否や客がまだ立っているのにスタートする。考えられないマナーだ。転倒しかねない。ガイドの注意はやはり生水は呑まないようにということだった。北京の夜景は以外に綺麗だ。旧正月なので豆電飾がとても素晴らしい。一寸見ない電飾だ。細かい豆電球が滝のよう。立木にかかる電飾も見飽きないものだった。
「華都飯店HUADU HOTEL」と云うホテルは都心から少し外れているが案内図に乗っているくらいだから有名なのだろう。三階の三一一四室だった。エレベーターは四基あるから何時でも利用できる。部屋は二人部屋で大野君と一緒だ。ドアは自動ロックだからうっかりカードを持たないで部屋を出ると入れなくなる。九時半に皆は揃って食事に出たが私は疲れていると一人残った。食事もしないで持参の水を飲んでテレビを点けたらNHKが北海道の牧場を紹介していた。なんか我が家が隣にあるような気がした。正月目前だからテレビも「雑技」などを放映している。その妙技には吃驚した。
 第二日 大野君が首に寝ている内に何の虫か知らないが虫に刺された。赤く腫れている。胃腸薬は持ってきたけど塗り薬は持って来なかったら野口さんが持参したメンタムを塗っていた。厳寒のホテルにダニがいるとは驚いた。朝食はバイキングだ。粥と叉焼を主に食べていた。ご飯は粥になっている。あとは中華饅頭、パン、ハム、果物はスイカなどがメーンだった。粥は大きめのオタマに三杯も啜った。
 七時三十分にホテルの前から迎えのバスに乗った。何か曇り空で雪でも降りそう、それにしては変な空の色だと思った。その内に太陽が上がると空は青を取り戻したが、どうやらスモッグらしい。そう云えば何となく空気も清澄とは言えないようだ。千四百万の人口の出す排気ガスなのだろう。中国の燃料は石炭だそうだ。石炭は無尽蔵だと。空気は良くなかったが、広々とした所に建築された高層ビル。モダンな建物。立体交差の道路。驚きました。認識を改めました。いったい何時このような変化を遂げたのだろう。オリンピックが刺激だったのかな。そんなことを一番後ろの座席から流れる風景を飽きもせずに眺めていた。北京の道路は直線の片側三車線で制限時速がないのかやたらと飛ばす。百二十キロは出ているだろう。あれで正面衝突しようものなら全員即死だろう。急ブレーキでも相当のダメージだろうから用心した。信号は殆どない。どの車もほこりっぽい。窓は昨年に一度洗ったような形跡で汚れている。
 最初の見学地は「頤和園」と云う清朝の皇帝の庭園だった。日本のものとは桁が違う。池を造るために掘った土を積み上げて山とし、その山に寺院を建設している。開いた口が塞がらないとはこのことだろう。その池も山も半端ではない。湖は河口湖ほどもあり山は日和田山ほどもある。俄には信じられない事象だった。池水は清澄で湖の大半は凍っている。魚が見えるかとおもったが私には見えなかったが小俣さんは小さい魚が見えたらしい。回廊を回った。回廊周りの庭園を箒で掃除している。変わった竹箒でクジャクの羽のよう。竹の枝を丸く束ねている日本の見慣れた箒ではなく横に平たい箒だ。その箒を使って若い女性が掃除している。回廊の内側の梁には着色していないところはないと云っていい。三蔵法師が孫悟空などの弟子を連れている絵もあった。
そこから「友誼商店」で主に瑪瑙細工の工程を見学した。ここにも若い女性が金属の切りくず状の微細な切片をピンセットで丁寧に貼りつける作業をしている。大野君が小さい壺を買った。買うと書き付けを持って支払いの窓口へ行く。そこで「元」を払う。その経過が難しく、買わずにショッピングを終えた。
 再び高速道を走って「万里の長城」へ行った。次第に山が迫ってきた。道路は狭く、カーブミラーもないから危ないことだがここでは慣れているみたい。カーブミラーは何処にもなかった。山全体が褐色で水気は全くない。川はそれらしき所があるが水は流れていない。水場らしきところは凍っている。相当の期間雨は降らないみたいだ。小鳥を見ない。小鳥に限らず犬、猫の類は全く見なかった。
 十一時四十分に車を下りて「万里の長城」の入り口まで十五分ほど坂道を登って行った。集合時間の決め事がありそれまで自由行動と云うことになった。右に左に城壁が連なっている。関口さん一人左へ行き、五人は右を登った。石積みで八メートルの高さに幅は四メートルもあるだろうか。上りがきつい所は階段になっている。転倒すると怪我すると思われる。足腰が丈夫でないと登れないのではないか。城壁の石に隙間無く悪戯書きが彫ってある。今は管理がゆきとどいているようで彫り物をする者は見なかった。連綿と山頂に城壁が続く。六千キロだそうだ。宇宙から確認出来る唯一の建造物だと。城壁の下に駱駝を繋いで記念写真の具にしている。馬もいる。どのみち意志が通じないのではどうにもならない。
珍しい鳥を見た。大きさがカラスくらいで白と黒のツートーンでハクビシンみたいな鳥。鳥は全くと云って良いほど見なかっただけに珍しかった。関口さんは左に登ったが左は勾配が急で怖いようだと、帰りは垂直に降りる感じだったそうだ。先端は崩れていたと。コインを売っていたので買ってきたと見せた。白銅貨で明治八年日本国とある一円玉で現在の五百円と同じ大きさだった。明治八年と云うと「西南戦争」以前だがちょっと偽物臭いと思う。
「万里の長城」の売店で田邉さんが掛け軸を買った。生涯の思い出になる掛け軸だろう。前から掛け軸が欲しかったのだそうだ。新築の家の床の間に飾るに相応しい掛け軸なのだろう。ツアーのメンバーが揃ってバス乗り場まで坂道を歩くその間、スカーフ売り、ペンダント売り、コサック帽子売りとしつっこいことおびただしい。逃げるようだ。出発は十一時二十分丁度一時間の見物だった。そこから再び狭い山道を下って昼食にレストランに立ち寄った。中国では必ず丸いテーブルに回転板が取り付けてあるのが殆どだ。肉饅頭、鶏ぶつ切り肉の炒め物、野菜いため、ハム、焼きうどん、ニラタップリの大餃子など品数が多い。青梗菜の炒め物が美味しいと思った。ビールは充分出た。国内のツアーではビールは出てもコップに一杯程度だから。
レストランを三時に出た。四時三十分に明の十三稜を見学した。地下深く皇帝の墳墓がある。十三墳墓の内、公開されているのはまだ三つだそうだ。そこから飲茶房で色んな漢方薬に近いお茶を数種類試飲した。漢方薬こそ中国の誇る薬膳だから。ジャスミンティなどを会費で買った。「辺康茶」と云うものでオニノヤガラ、トチュウ、オモダカなどから作ったものだそうだ。
 そこを六時に出た。動悸がしたのであるいは飲んだ茶の効果かも知れない。北京ダックを食べに行った。アメリカ人の観光客が二組約二十人ほど円卓を囲んでいた。ダック料理は大判餃子の皮を更に大きくしたチャパティのような皮に千切りのネギとダックを包んでタレを付けて食べる本格北京ダックだが皮が硬くてあまり美味しいとは思わなかった。この皮が眼目なのだそうだが入れ歯じゃだめだ。
 大晦日で注文が立て込んでいるのか料理人が四人ほどダックを炉で焼いては削ぎきりにしている。丁度ゴボウの千切りみたいだ。関口さん小俣さんの二人が紹興酒であとはビールだった。美味しいと思ったのは単なるキュウリと豚肉と豆腐の炒め物とダックの出汁の粥が良かった。
 その後、小俣、大野組が足裏のツボの指圧、田邉、野口組が雑伎を見に、関口、小山組は直接宿へと別れた。二十三人の内で宿へ直行は二人だけだった。今晩は大晦日だ。早寝することはないんじゃないかと云うことで関口さんが地下鉄に乗ってみたいと云うのでつき合った。ホテルから出て間もなく女の乞食が近寄ってきた。三歳くらいの子を肩車してしきりに唇に指をやっている。初めはなんなのか分からなかったが気味悪いから早足になったがそれでも執拗に付いてくる。追っても付いてくるので関口さんが一元を与えた。三十五歳くらいの女乞食だった。可哀想だが与えていると切りがないらしい。二人して地図を頼りに小一時間も歩いたが何処をどう歩いているのか全く分からない。歩道橋で子供連れの夫婦が来たので「ここは何処」かと地図を示してもどうしても分からない。中国語はまるっきりだめだと悟った。向こうも分からない。こっちも分からない。これほどお互いが分からないとは思わなかった。相当歩いたので引き返した。タクシーで帰ろうと云うことになってタクシーを止めた。
 彼が「華都飯店」のカードを示したので直ぐ理解されてホテルに着いた。十元だった。百六十円だ。ビールを飲みに行こうとまた出掛けた。またあの母子に遭った。子供は肩車で寝ていた。前に呉れているので直ぐに諦めて離れて行ったが、この寒空に可哀想な母子だった。関口さんが「もっと呉れてやればよかった」と云うのでまた逢うよと云ったがあとは逢わなかった。背負っているのならそれほど印象に残らないだろうが、肩車が異常だった。あとで考えてみて母も重いだろうが上の子も大変だろうなぁと同情した。広い道路を車の来ない隙に何度も横断したあげく、あっちこっち尋ねては断られて漸うたどり着いたレストランでビールに有り付いた。彼がメニューから二品注文したけどどんなものが出てくるかサッパリ分からなかったが出てきたのはやたら辛い料理だった。爆竹が新年の名物なのだが最近は禁止されているらしい。それでも爆竹のような音がするのでアレッと思ったが何のことはない子供が盛んに風船を破裂させている音だった。

第二日 八時二十五分にホテルを出発した。今日はメーンの「故宮」見物だ。天壇公園をまず見学した。あちこちで松林の中を「太極拳」をしている人達を見た。天壇公園の特異な丸い三層の「祈年殿」は美しい建物だった。皇帝が天を祭る儀式をした所だそうだ。
 ここを出て、再びバスに乗り天安門に着いた。国軍の軍服を着た若い兵隊が二人直立不動で立哨している。何時間あの姿勢なのかピクリともしない。その脇でツアーの二十三人が記念写真を撮った。天安門の入り口に掲げられている毛沢東の大きな写真。それと赤い旗。第一印象は赤壁と褐色の屋根瓦とだだっぴろい広場と無数の人間。正月元日の朝だから人出は格別なのだろう。地下道を通って天安門の毛沢東の下をくぐりぬけて内部に入った。
「紫禁城」の城内は左右対称の建築物で構成されている。故宮博物館では床に疵がつくということで靴にスリッパが履かせられた。清朝最後の皇帝「溥儀」が満州国皇帝に即位するときに着ることにこだわった皇帝衣装が陳列してあった。紫禁城の宝物が陳列してある。が、まったく読めない。写真も「ノーシャッター」なのでどうにもならない。
 若い子が手摺り、ガラスを磨いている。公務員なのだろうか。単純な作業を熱心に脇目もふらずにやっているのを見ると中国の一端が理解出来たように思った。彼女たちはその役になりきっているのだ。「草履取りになれば草履とりに、馬の轡とりになれば轡取りに、出世の道はなりきることと存じ候」と云ったのは秀吉だが、なりきっている。「いいの、私の仕事はこの場所を綺麗に守ることだけなの」そう云っているのが振り向きもしない横顔から窺えた。
 故宮を見学して「雍和宮」と云う所へ行くまでの間、売り込みが激しいと云うガイドの説明だった。そのしつっこいこといらないと云っても押して買えと云って引き下がらない。気の弱いものは買わせられてしまう。物は「帽子」「ネッカチーフ」「スカーフ」「栞」「絵はがき」の類だ。親子の乞食がバス停にいて纏わりつく。小学生くらいの子とその父親なのだろう。盛んに唇に指先を当てている。食べ物を連想させて物乞いをしている。不思議と関口さんには纏わりつく。彼はどこかに優しさを感じさせられるところがあるらしい。今回の旅行の一つの新発見だった。「雍和宮」と云うラマ教のお寺は正月の初詣客でごったがえしている。
初詣に来た人達が願い事を赤い長い線香をくゆらしながら熱心に拝んでいる。あまりの混みようで足の踏み場もない。何か足元に台があるのでその台に足をかけたら睨まれた。その人が台に膝をついて祈りを捧げる敬虔な道具とは悪いことをしてしまった。しかしこれだけの人達が実に穏やかなことにも感心してしまった。怒りと云うものを忘れた人達みたい。新年だから腹を立てるようなことはしないと云う約束ごとなのかどうか知らないが。穏やかな人達には感心した。
北京の繁華街でフリータイムになった。デパートに寄りたいと云う関口さんと大野君と三人でショッピングした。若者ばかりのデパートをうろついた。買い物をしている関口さんを被写体にシャッターを切ったら店員がとんできて「ノーシャッター」とやられてしまった。
「京劇」へ行った。我らグループは舞台前に設えた円卓で料理を食べながらの観劇だった。一段高い貴賓席にはアメリカさんが陣取っていた。京劇は顔の隈取りが見せ物の大きなウエートを占めているようで日本の歌舞伎みたいな隈取りだ。劇のストーリーはさっぱり分からない。ただ「ヤーヤー」と云う声だけが耳に残っている。これでツアーのスケジュールは全て終わった。

第四日 朝七時十五分朝食する。お粥だけを「おたま」に三杯。お陰で胃腸はベターだった。北京空港ではチェックが厳重でアメリカさんが着ているジャンパーを脱いでチェックを受けているので私も着ているのを脱いで、手荷物はカメラも双眼鏡もウエストバックもすべて籠に入れてパスした。機内ではバラバラの席になった。何でもエコノミーからビジネスに格上げになったとかで十一時から一時間も食事していた。ビールなど缶ビールだが三本も飲んだ。えらく待遇が良かった。正月とかで記念品まで頂いた。田邉さんがえらい美人と相席で羨ましい。あとで聞いたら福井の人で、福井からわざわざ来たのと聞いたら学生なんだと。四月から福井県庁に就職が決まっているんだそうだ。一時四十分成田到着。帰りは三時間弱で着いた。追い風なんだそうだ。行きは向かい風だから時間がかかるが帰りは追い風なんだと。車を預けた「アラジン」が二時二十五分に迎えに来た。所沢から来たと云う可愛い子を乗せて西所沢で下ろしてこっちに六時に着いた。 
 旅行を終わって
北京では近代建築の市街地と対照的に郊外では崩れた土塀、がらくたの山、塵芥、貧しそうな人々、その落差には考えさせられた。もう一つ。犬を見たのは一匹だけ。天壇公園で散歩している人が小さい犬を連れて散歩しているのを見ただけ。ネコはとうとう見ずにおわった。小鳥も見ない、空を飛ぶものは全く見られなかった。僅かに雀を五六羽見ただけだった。それでもアカシアの林の所々にかなり大きな鳥の巣が見られる。市内はトロリーバスで電車は走っていない。車はワンボックスが多い。マフラーを改造するような不心得者は中国にはいない。欧州では音の出るものは全て公害だそうだ。

解説
頤和園 万寿山と昆明湖からなる中国の典型的庭園。面積二百九十ヘクタール。内水面が二百二十ヘクタールを占める。清朝の離宮で最大の皇室庭園。阿片戦争で英仏連合軍に破壊されたのをその後西太后が海軍軍事費を流用して再建した。そのため清朝海軍は軍事費にことかき、日清戦争で敗北した原因となった。

長廊 長さ七百メートル以上の回廊。長廊の見ものは柱、梁の絵で神話、古典文学、歴史を題材にしている。別名「画廊」

八達嶺長城 そもそも長城は紀元前から各地に分立していた国々が造ったものを秦の始皇帝がつなぎあわせたもの。平均的高さは八メートル、上の幅は六メートルある。右の方が一般的。左は急坂でも眺めはこちらのほうが良い。