釣行記

久里浜のボート釣り                                       野口 秀夫

 職場の先輩であるKさんに誘われた久里浜でのボート釣りは、ハプニングの連続で今でもおかしく想い出される。

 あれはもう六年も前の二月初め、まだ明け切らぬ五時。空に星が残る飯能を出発した。

入間市、八王子、相模原、町田と十六号を走り、保土ヶ谷バイパスから横浜横須賀道路を経て目的地を目指す。

車中では、Kさんの豊富な経験に裏打ちされた海釣りの極意を聞き、今日の釣果を思うと気持ちはいやが上にも

高ぶっていった。

 午前六時三十分すぎ、久里浜に到着、直ぐに貸しボートの申し込みを済ませ、Kさん行きつけの食堂で「キスフライ定食」を

ご馳走になった。客は我々二人だけで閑散としている。食事を済ませ、釣り竿などの入ったケースを手に余る程持って、ボート

乗り場に行くと誰かがこちらに向かって怒鳴っている。辺りは我々をおいて他にいない。思い当たる節はないが一抹の不安を

感じながら近づくと、不安的中、その怒りは我々に向けられたものであった。怒鳴っていたのはボート屋の親父で、

理由は直ぐに分かった。何でも、我々が直ぐに乗り出すものと思い、寒い中をさっきから待っていたと云う。

そんなことは頭にない二人は、キスの旨さに舌つづみをいていたのである。

 さて、少々の手違いもありながら、Kさんの巧みなオールさばきでボートを漕ぎだし、ポイントへと向かった。

今日は、仕掛けの全てをKさんが準備してくれているので体制は万全だ。それを物語るごとくボートの中は釣り竿とリールの

入ったやたらと大きいケースその他の小物が足の踏み場もないほど占領している。まだ時期が早いのか我々以外に釣り舟

はいないが天気もよく海は穏やかで釣り日よりである。十分ほどしてポイントに着き、錨を下ろして早速仕掛けの準備にとり

かかった。竿やリールは大小様々な種類があり釣り糸もさすがに海の仕掛けに相応しく太くて見るからに丈夫そうである。

Kさんは、慣れた手つきで二人の竿を組み立てて、あとは道糸とハリスを結んだ余った糸を切れば出来上がりである。

一通り組み立てを終えたKさんは次の準備のためか、先ほどから何かケースの中を盛んに探している。

 ボートはその度に左右に揺れ気持ちが悪い。

しばらくして「何を探しているの」と聞くと「ハサミ」が見つからないと、思わぬ返事が返ってきた。

それを聴いた瞬間目の前が真っ暗になってしまった。素人の私にもその意味することが十分に予測できたからである。

二人してケースの隅々まで探したがついに「ハサミ」は見つからず万事休す。

Kさんは顔面蒼白、何か盛んに独り言を云っている。私は、不謹慎にも思わず大笑いをしてしまった。

人間は、余りにも予想外のことが起こると、それを否定するために気持ちと異なる反応を起こすものなのか?

あれこれ考えた末、釣りをするために残された手だてはただ一つ歯で余った糸を切るより方法がないと二人で結論づけた。

幸いにして私は歯が丈夫でどうにかこのピンチを切り抜けた。

ジャリメを餌に第一投、直ぐに当たりがあり、リールを巻くと五〜六センチのハゼが上がってきた。

第二投からも同型のハゼとメゴチがイレガカリ状態、Kさんも同様である。正に今日の大漁を予感させるに十分である。

ところが十回ほど続けたところ突然気持ちが悪くなり、私は、糸を垂れているどころではなくなってしまった。

前夜の深酒と先程の揺れる中での「ハサミ探し」が悪かったのか、船酔いである。

ちょっと休んでみたものの体調は益々悪くなるばかり、Kさんにその事を話すと、嫌な顔一つせずに直ぐボートを岸に向け漕ぎ

出してくれた。折角釣れているのに悪かったが、この時は本当に助かった。

私がボートにいたのは正味三十分余り、Kさんは再び元のポイントに引き返して行った。

陸に上がっては見たものの、まだ午前七時三十分を過ぎたばかりなので予定のない時間がたっぷりある。

先ずは、薬屋に寄って酔い止めと胃腸薬を買い、体調の回復を図った。

そして、ペリーが上陸した記念公園で記念碑や資料館を観覧し、埠頭では貨物船の冷凍マグロの積み卸し作業を眺めなど

して時間をつぶした。昼まで粘ったKさんも、出鼻をくじかれたことが原因してかさっぱりで、元気なく帰ってきた。

あわよくば「アイナメ」もと目論んだ二人の釣りは、散々な結果となった。

帰りは、横須賀を周り、海と景観と一体となった街並みに感心しながら横須賀インターから横横道路〜保土ヶ谷バイパス〜十六号

を通り無事に帰ってきた。横横道路では、Kさんが運転技術が錆びるとやたら猛スピードを出したので、生きた心地はしなかった。

(何がKさんをスピード凶にさせたか原因不明)あれこれと迷惑をかけた一日であったが、楽しい思い出として今も記憶に残っている。