釣行記

有間谷の想い出                             戸門 秀雄

 有間川支流の白谷沢で、初めてヤマメを釣り上げて、早くも三○年余りが経ちました。その日のことは、今も鮮明に覚えています。当時、高校生だった我々三人。飯能市に住む相棒の君は、親戚にヤマメ釣りの好きな人がいるとかで、すでにその道の経験者。
 なにしろ、前の晩にまとまった雨でも降ると、翌日の授業は遅刻がち。聞けば、「朝まづめのはずが、ちょっと……」らしい。一方ぼくも、親戚にヘラキチがいたため、そのお古を貰っては、時の宮沢湖等に出かけた頃だった。が、少年時代から入間川の魚捕りに熱中したぼくは、子供の頃からの、この川の上流への想いと。深山幽谷に棲むというヤマメやイワナになんともいえない憧憬を抱いてい。まさに、「三度目の正直」だった。
 二人して、栃ノ木入に入ったその日も、こちらはボウズ。彼によれば、ヘラブナ釣り特有の、あの大きな合わせが良くないというし、「第一、その竿じゃ…」と、いずれも失格だ。それもそのはず、ぼくの使う竿はヘラ竿で、何をするにも近くの藪やら枝に仕掛けを引っ掛けること夥しい。今後は、俺の竿を使えょといわれて、帰りしなに立ち寄った白谷沢。その時に釣り上げたヤマメが、まさに夢にまでみた感激の初モノだった。栃ノ木入で、彼が釣り上げたヤマメ、二十二センチには及ばないが。こちらは十九センチ。すでにヘラブナ釣りで、見様見まねの魚拓を作っていたぼくは、さっそく彼の家に寄って実演会。今度は、こちらが指南役。こんな時、今ならさしずめ美酒を酌み交わすところだが、当時はまだ高校生。お互いの釣果を半紙に拓し、二人ともいつまでも悦に浸っていた。
 以来、渓流釣りに魅せられたぼくは、電車とバスを乗り継ぐと、どうしても釣り場選びが不利なため、入間市の自宅から、深夜に自転車で有間川を目指したこともあるが、この川の概要を知ったのは、オートバイを購入して機動力が増してから。しかもその頃になると、関連した釣り本や五万分の一の地形図も求めるようになっていた。
 ここで、その頃のエピソードを披露しよう。当時の白谷沢の上流には、炭焼き竈があり、そこには常時二人の村人が働いていた。彼ら曰く、この滝の上にもヤマメは居るが、時折、山を越えて、向うの川からビク一杯、川鱒やらヤマメを釣って来る人がいるなァ…。という話であった。しかし、当時のぼくは、目の前の流れならいざ知らず、山越えの魚釣りなと全くの他人事だった。が、その時の川が、棒の嶺(九六九メートル)を越えた多摩川支流の大丹波川と知ったのは、先述の地図を眺めてからである。さらに驚いたことに、やがてぼくは、有間川で見かけた『釣り人へ』という看板から、とある渓流会の名前を知り、ここの一員になるのだが、そこで知り合ったSさんが、実は山越えの怪人?その人だった。今や、この川筋から山を越えてまで、大丹波川に釣りに行く人などいないだろう。
 初心者の我々には、まだまだ秘境の有間谷であった。やがてマイカーになると、ぼくの釣りは、各地の渓へと飛躍した。思わぬ釣行先で、我がホームグランド、奥武蔵の渓が話題になったこともある。 これはいい本ですョ……。といわれたのは、京都、由良川釣行の折にお世話になったKさん宅だった。本のタイトルは、『渓流魚、ヤマメの人工孵化』、著者は尾川群司さんである。氏のお名前は、つとに有名なので詳細は省くが、昭和三十年代後半に今の観光渓流釣り場のある名栗村旧落合で、有間川から親魚を採捕して、ヤマメの人工孵化を始めた人だった。かって有間川や神流川(群馬県)で、氏とお会いしたこともあるぼくは、遠隔の地で彼のことや有間川のことを聞かれ、ともかく驚いた。 後日、東京の氏宅に伺ったぼくは、件の著書を購入すると共に、前著『渓流魚、釣りの心技』には登場しなかった、有間川のエピソードなども教えていただいた。同様に長野県の伊那谷、小黒川戸台のとある山荘でお会いした人も、伺ってみると大変有間川に縁の深い方だった。
 釣り談義とはゆえ、見るからに風格のあるのそ人は、三門博さん。彼が稀代の浪曲師と知ったのは、ずっと後のこと。はたしてどこかでお会いしたような、と思ったら、やはり有馬川であった。自転車時代、ぼくは前述の落合の、通称“志村のおばあさん”宅に、何度か我が愛車?を置かせていただいた。そんな時に、こちらに何日か泊まっているという釣りのお客さんが、三門博さん、その人だった。 今では共に故人になられたが、彼らは往年の名渓、有馬をこよなく愛した人だった。奥武蔵の渓々のヤマメを釣って、時のラジウム鉱泉等に納めていた“万平さん”こと、故、小峰万平さんは、ぼくたちが通う時代より、もっと前に活躍したプロの釣り師だった。
 有間川の旧魚止滝、牛淵上流や姥小屋沢等々の滝上に生息するヤマメは、いずれもこの人や、かっての落合の人たちが、山仕事の折に下流から釣り上げて運んだものである。ひと頃、林道工事等で荒廃した有馬川だが、少しでも往年の名釣り場に復活することを願うばかりである。なお、末筆になりましたが、『奥武蔵釣りだより』が今後益々回を重ね、多くの人に愛されることを祈る次第です。