『忘れ得ぬ人』                                大河原 重二

「お早うさん、客人随分と早いね、何処からこられた」

「飯能だよ」

「ほう飯能…飯能と云うと武州だね、先だって上州の身内に不幸があってのう、飯能と

云う所を通ったが、何だか山ばかりの所だったような気がするが?まあそんなことはど

うでも良いが、今刻ここにつくのに、家を出たのは何刻だね?」

「そうさ、子の刻あたりだったか」

「そうぢゃろう、そうぢゃろう、この辺はのう昨夜遅く夕立があってのう、未だ暗くて見えな

いがおそらく川の水は濁っておるじゃろう、まあ仁義はいいから、あがってお茶でも飲ん

でくんな、明るくなったら、一走り川を見てくるからに」 時代劇を思わせる会話だが、

その実、時は現代なのである。

 諏訪湖を源に、伊那七谷の水を集めて流れる名にし負う天下の天竜川の或る囮屋の

爺さんとの会話でありまだ続く

「いや川は多少濁っていても、わしが河岸に立って口笛を吹くと、鮎が集まるんぢゃ、

そこを客人に釣ってもらう、多少下手でも大漁間違いなしぢゃはははは…。」

 案内された川へ降りて、お昼近くの頃になって囮に困らない程度に釣れてきた。然し昨

夜眠っていないせいか、何としても眠い、橋の下の日陰に入り、昼飯をとり、しばし休憩

とばかり、形の良い石を枕に少し眠る事にした。涼しい川風に、何時しか落ち込むよう

に、深い眠りに入っていった。

 何どき位たったのか、まわりの様相が一変している。真夏の照りつける太陽の下、川

沿いの道を、何人かの捕方にかこまれ、凶悪犯らしい、厳重に後手に縛られた三人と、

そのあと数珠つなぎになった、比較的軽い罪なのかそんな感じの十数人が埃っぽい乾い

た野道を引かれて行く。

「あれっ」私は夢の中で叫び声をあげた。その罪人の隊列に私がいるではないか

「大変な事になったぞ、何とかしなければ」「いやこれは夢なんだ、だから大丈夫」錯綜す

る気持ちの中で、何かの巻き添えをくってこの中にいるわけだが、捕方と野次馬、とても

言い訳など聞いてくれそうもない、しかし、「助からなければ」生えの執着と、暑さのせい

ばかりではない、心の焦りで油汗が吹き出るのを覚えた。「何だ何だ何をしたんだ」野次

馬の話しの中に、前の三人の凶悪犯は「恐らく打ち首、獄門だろうなあ。あとの十数人

はまあ百叩き位で済むだろう」そんな話し声がする。生命が大丈夫そうだとなると、急に

疲れが出たり、先程迄身動き一つ出来なかった身体が、周囲を見る余裕が出る。

信州は養蚕が盛んである。従って桑畑が多い、姉さんかぶりで、桑摘みの娘さん、そこ

だけが妙に明るい。桑を摘む手を止めて、こちらを見た「何処かで確かに逢っている」

黒い瞳が悲しげにこちらに向かって、伏目勝ちに会釈をした。

 はっとなって足を止めた。何か云おうとしたが声にならない。無情な下っ引きに小突か

れて、又歩かなければならなかった。何でこんな事になったのか、話しは次の様であった。

 地元代官が自分で川漁をする為に、その権力をかさに、一箇月の入漁禁止にしたの

だ。川漁で生計を立てている人達、とても鮎の最盛期を一箇月も我慢しているわけには

いかない、夜網を打っている所を、それこそ一網打尽と云うわけだ。百叩きの刑も、先に

やられた方がいいようだ。前の人の悲鳴を聞きじっと順番を待っている方がつらい、いよ

いよ私の番かな、途端に背中に激痛が走る。陽が少しずつ西に回った為、日陰を求め

て身体も廻り、とがった石で背中を打っての痛みであった。

 夢と幻想の世界から、一気に現実の世界へ引き戻された。眼前に繰り広げられる光景

は昼寝の前と少しも変わらなかった。長い竿をあやつる鮎釣りの人、真昼の太陽は容赦

なく照り天竜の土堤に陽炎がもえる。

 囮屋の爺さんの話しに「客人の昼寝をしていた所が「昔お仕置き場の跡であり、さらし

首をした場所なんだよ。それに橋の袂の淵が深かったろう、松川小町と云われて娘さん

が病を苦に身を投げた場なんだ。そばに立つ小さなお地蔵さんは、娘さんの供養の為、

村人が立てたんだ」淡々と語る爺さん、人の世の喜怒哀楽、時代の変遷迄呑み込んで

滔々と流れる天竜川、現実にかえり、まだ鮮明でない脳裏に天竜にまつわる、

小さな村の歴史が走馬燈の様によぎる。

 四時頃上がって、土堤を越え車を置いた所迄帰路についた。その時、桑畑ならぬ、

野菜畑からトマトを籠一杯持ち重そうに出てきた娘さん「良く出来ましたね。うまそうだ

ね」何だか請求したようだったが、こちらの心を見透かしてか?黒い大きな瞳が、いたづ

らっぽく笑っている。「お一つどう」と云って籠ごと差し出した「有り難う」遠慮なく、一番上

の大きなトマトを取るが早いか、喉の渇きもありガブリ一口、生暖かいが「うまい」と声が

出る。娘さんが、白い歯を見せてニコッと笑った「あれ、たしか何処かで逢っている。

そうだあの娘だ。桑を摘んでいた…」もう一度「有り難う」と云うと、乗りかけた自転車を

止めて、片手を上げた娘さん、爽やかな笑顔を残して去って行った。

 かたわらの大きな里芋の葉が、明日を知っている顔に揺れていた。 

天竜の鮎はまだまだこれからと云う時なのに伊那七谷を吹き抜ける夕刻の風はすでに

初秋のものだった…。                                
釣行記